胡蝶蘭のブログ 美味散歩

大阪空港近隣の美味しいお店などグルメ情報を主に紹介。

全体表示

[ リスト ]

ものすごく重い課題を書くことを決意しながら、しんどくてしんどくてなかなかペンが…いやキータッチか…進まなくて。しかし、私がこれまでいた環境の中で、見聞きして体験したことを伝えるということは、私の人生のテーマ。エネルギーと勇気を振り絞って書かなければと、ようやくはずみが出来たのは今年9月30日の朝日新聞の社説を見た時でした。
「日中関係がこじれた背景には、互いの体制や文化への無知や無理解がある。」書かれてある。
そう。中国という特殊な国に、自分達と同じ感覚で接してはいけない。朝日新聞も含めて、―
この重要なポイントを最初に持ってきて、文章を続けていくことを思い定めて書き始め、疲労困憊して中断。日を置いて続きを書いてはまた休憩し、と遅々とやってきたこと、まだ途中ですが、いったんアップします。
◆ ◆ ◆
 
イメージ 1
自らに非や落ち度があった時、米国、ヨーロッパなどの民主主義の国に対して率直に謝るのはいい。
だけれども、中国という社会主義の国に対して謝れば「そぉら、日本は悪いことをしたから謝っている。日本が悪い。日本はけしからん国。だからとっちめなければならない。」ということになってしまう。
特に中国は情報操作をして国民を洗脳している国だ。
そうして、江沢民の愛国教育があり、今日本が直面している困難に繋がる。

( 実際、江沢民は、「中越戦争」においてのベトナムからの謝罪要求は呑まず、2002年にベトナムを訪問した際「もう過去のことは忘れよう」とベトナム首脳に一方的に通告。教科書の中越戦争についての記述を削除するように求めている。また、「天安門事件」において中国政府は、民主化を訴えてデモを組織した学生を中心とした市民を軍隊が大虐殺。その責任を放棄したばかりではなく、市民社会から政策提言した人達が未だ日常的な弾圧の憂き目にあっている。そして、チベットへの迫害。チベット人の独立運動への弾圧にともなう中国軍によるチベット人の虐殺があり、チベット亡命政府によれば、「中国政府による残虐行為により120万人のチベット人が殺された」とされる。また、文化大革命中、各地で大量の殺戮が行われ、その犠牲者の合計数は数百万人から1000万人以上ともいわれている。)
 
頼むよ、頼む。日本のメディアの方々にお願いします。
世の中に沢山、沢山、物凄い量の情報がある中で、日本の「悪いこと」1点を短く切り取りスポットライトを当て、ただ連呼するという報道のやり方は変えてほしい。
そうすることに、何の意味があるのか。解決策を提示して建設的な方向へ持って行くのではなく、却って悪い方向へ事態を引っ張ってしまっている。泥濘に導くように。
以前、官庁という取材される機関の窓口で働いていた時、私はそう感じていた。「メディアは国民のためになる報道はしていない。ネガティブ報道により、却って災難を引き寄せていたりする」と。
戦後の報道においては、新聞は「日本は戦争でひどいことをした」という一点を何十年も繰り返し言ってきた。
イメージ 2はランドセル背負って小学校にあがったばかりの頃、学校の廊下に貼られた戦時の痛ましい写真に衝撃を受けた。
TVで放映される戦争関連の番組を見ると、戦争を体験した人の「二度とこんな惨い、酷い、悲しい戦争を起こしてはならない。」という魂の叫びが小さかった私の心にも深く、重く響いた。日本人は傷つき苦しんだが、戦地では日本の軍人は他国の人に残虐な殺戮行為を行った。
後でそう知らされた日本人は「なんて酷いことを日本兵はしてしまったのか。」と驚き嘆き、悲しんだ。「日本は戦争でひどいことをした。」という言葉は、こんな惨たらしいことを人間にさせてしまう戦争はもう嫌だ。戦争は二度としないという誓いを込めた反省の言葉だったろう。

 
中学・高校と進学しても、「日本は戦争でひどいことをした」とう言葉を●カの1つ覚えのようにメディアが繰り返していることに私は苛々した。
なんのための「日本は戦争でひどいことをした」とう言葉か。反省に立ち、そこから前進して平和国家への道を進んでいく出発地点とする言葉である。ひどい戦争を再びしないようにするためには、どうしたらいいのか。どう努力するのか、そこから一歩踏み出して進んで行く姿が映し出されていない。
戦争に再び巻きこまれないようにするにはどうしたらいいのか。
各国と友好関係を結び、日本人としてはフレンドリーで人格もよくて、尊敬され、「日本人は良い人達だから、攻めてはいけないよ。」と、思ってもらうことだろう。
実際日本は戦後武器を捨て、外国に対しては経済援助などをしていた。NPOなどで海外支援に汗をかく日本人も沢山おられるのだ。平和の道を進むために日本は大きな努力をしてきたのだ。
「もし戦争が起こったとしても、今の若者は武器を持って戦おうなんてことはしない。」と年配女性達も口を揃える。「武器放り出して逃げるわよね。」という言葉がつくけれども。
そんな日本なのにメディアは「日本はひどい国」と紙面に刻印して、海外から付け込まれ、非難される材料を提供し続けているのだ。よい人、優しい人、平和を愛する日本人の姿は、日本の新聞からは浮かび上がってこない。
◆ ◆ ◆
 
イメージ 41972年に、日中国交正常化が成立した。
1971年7月15日に米国ニクソン大統領が中華人民共和国を訪問することを予告する宣言を発表、世界を驚かせていた(ニクソン・ショックとも呼ばれる)。1972年2月、ニクソン大統領の中国訪問が為される。アメリカにとっては中国をパートナーとした新しい東アジア秩序の形成を模索するものであったが、米国が日本抜きで事を運ぼうとしていることを察知した日本政府及び田中角栄は、先手を取り、信じがたいフットワークのよさでことを進める。
そしてニクソン訪中宣言からわずか1年2ヶ月という異例の早さで日中共同声明(1972年9月29日)に持ち込んだ。アメリカの鼻先でアメリカの外交戦略の先手を取ったというのは日本の戦後政治史において例外的なことである。
その後田中角栄は米国の陰謀により失脚させられることになる
。ジャーナリストを使っての金脈問題暴露記事、そしてロッキード事件がある。
 
ロッキード事件 は田中角栄を倒すために仕組まれた謀略である。5億円のワイロはあらかじめ計画されたシナリオに沿って田中首相筋に渡された。そのために多くの人や商社が介在し、大がかりな贈収賄工作が行なわれたのである。ロッキード事件では日本側に多くの逮捕者・犠牲者が出たのに比べ、米国側で刑事罰に処された者はいない。毛沢東が、ニクソン以上と讃えたという決断力で日中国交回復をなしとげ、独自のエネルギー政策をとろうとした田中首相は危険な政治家と映ったのである。米国はアジアの二大国が結束して強大なアジア圏ができることを危惧したのである。)

1972年9月29日、田中角栄、周恩来両首相が日中共同声明の調印式において署名する。
田中角栄は中国へ旅立つ前、「日本の総理大臣として行くのだから、土下座外交はしない。
国益を最優先としてむこうと丁々発止をやる。いざとなったら決裂するかもしれないが、その責任は俺がかぶる。(佐藤昭子『私の田中角栄』)」と語っていたという。
日本へは生きて帰れないかも知れないとう悲壮な覚悟もあった。共産主義の国と国交を結ぼうとしていることから田中には右翼からの激しい脅迫などがあったのだ。
田中角栄。野田総理のような軽い言葉ではない、本当に命を懸けて交渉に挑んだのである。
会談では周恩来は、日本軍が何年、どこの戦いで何万人殺したと、数字を際限なくあげ、田中は血圧が上がって鼻血が出たが持ち前の粘り腰で望み、希望を捨てなかった。
(野村浩太郎『政治記者』)

そして発表された日中共同声明で、日本側は、「過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とし、周恩来は「日本人民は軍国主義者の犠牲になった被害者だ」と語って、中国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言している。
そして、賠償請求を放棄するかわりに中国の発展に力を貸して下さいと周恩来は田中に語っている。
私は学生時代、なぜ中国が賠償の請求を放棄する形としたのか、わからなかった。
後で周恩来は「日本に恩を売っておいた方が得だ。」と近親者に言っていたということが伝わっている。
「賠償」「謝罪」という形は、中国では先方の立場を圧倒的に不利にし、攻撃材料となるものだから、その言葉を使わず、同じ多額のお金を日本から受け取るにしても、「経済支援」という形にして”あげた”のだ。土下座外交はしない、日本の国益を第一とすると頑張る田中首相のために。
私は子どもの頃、不思議だった。
戦争で日本が重大な損害を与えた韓国の人達が日本人を嫌うのは当たり前のことだろう。
でもそれより大きな被害を受けた中国の人達はなぜ日本人に寛容で友好的なのだろうかと。
今、合点がいく。周恩来の「日本人民は軍国主義者の犠牲になった被害者だ」という言葉が中国人民の心に浸透していたからである。
社会主義の国ではトップの言葉一つで全体が動くのだ。
 
 
イメージ 3韓国ではどうか。
反日教育もあり、日本に対する嫌悪感は韓国民の間で強かった。
そんな中で金大中大統領が登場する。韓国内では軍事独裁政権と闘い、命を狙われながらも人権と平和のために真直ぐ突き進んできた政治家だという。
1998年金大中大統領が来日したおり、日韓共同宣言において、歴史認識に関して植民地支配がもたらした苦痛と損害に対し、日本の「お詫び」が文書化された。
金大中はこれ以降、「韓国政府は、過去の問題を持ち出さないようにしたい。自分が責任を持つ」と言明した。
映画や音楽などの日本文化を受容することも表明。そのためか、日本に対する嫌悪感が薄れる若者が増えた。
金大中は来日前から「過去の清算」に強い意欲を持っていたとされる。

イメージ 5桁外れのパワーと忍耐力、知力、器と誠実さという魅力を持ったトップが、後に禍根を残さぬよう、この時に自分がはっきりさせておこうと、血の滲む努力をした。
命の危険を感じながら、中国との交渉に挑んだ田中角栄を待ち受けた周恩来も、癌で余命を宣告されていたという。
自分のためではない、国民の利益のために全身全霊をかけて国のトップ同士が、戦争の問題に決着をつけたのである。
まだ戦争の記憶も生々しく、傷が深く大きかった時期である。
周恩来はこういう言葉を残している。
「日清戦争以来、日本は我が国を侵略し、人民を傷つけ苦しめてきました。我々にはその深い恨みがあるのです。」「恨みがあるといえども、中国と日本には2000年にわたる『友好の歴史』があります。
戦争による不幸な歴史は、わずか数十年に過ぎないのです。我々は恨みを忘れようと努力しています。これからは中日が力を合わせて、アジアを良くしていこうではありませんか」
周恩来、徳としての謙虚さを持ち、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性をそなえた偉大な人物と海外の要人にも讃えられたこの人は、日本への留学経験もあり、日本の慣習、日本人の特性もよく理解していた。
田中角栄は後に、周恩来とは人間性への信頼と理解が二人の間にあった。役人が用意したトーキングペーパーに書いていないところで、主張し、自分の思いを語り、また相手の思いを受けとめ、ぶつかりあったことで話が進んだと語っている。
(外務省役人の事務方のサポートが素晴らしかったと称えることも忘れていないが)
このタイミングで、この坦力・知力を備えた二人の人物が出会った機会を逃しては、再び日中国交のための絶妙なチャンスは巡ってこないと察し、「慎重にことを進めるべきという周囲の言葉はあるが、今二人で出来ることを全力でやってしまいましょう。両国民の利益のために。」と田中と周は頷きあったのである。
その偉大なトップの努力をだいなしにしたのは、日本のマスコミである。 
                                                                                        (続く)イメージ 6

この記事に


.


みんなの更新記事