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台湾はなぜ親日国なのか

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「あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、ほかの人に尽くす力も与えてくれたのだった。」
     ―   
前回、台湾人女性、楊さんが少女の頃に、列車から落ちそうになったところを日本人将校に助けられた話を中心に書きました。そこに添えた動画の、現在の楊素秋さんが語っておられる言葉をここに。
 
イメージ 1
 
日本人というのは世界で一番素晴らしい人種でしょ。
なぜかというと律儀。それから嘘は言わない。
でも、今の日本人と昔の日本人と比べると雲泥の差という感じはします。
日本の軍隊は外国に行くときは一番いい軍隊を派遣します。
ゲートルを巻いてきちっとした征服。足並みを揃えて歩くのです。威風堂々と。
それが人には信頼心を与えますよね。
ところがその兵隊さんたちは子供たちに非常に優しいの。
だから今の人は昔の人間が悪かった、兵隊は悪かったとか言うけれど、今の人達の頭の中をもう一度さらってあげたいくらいです。

なぜかというと兵隊さんは国を守るために、命を捨て、家庭を捨て、子供を捨て両親、妻や子を捨てて、敵地に派遣されて行った。
自ら戦争したくてしたのではない。国を守るため 故郷を守るためですよね。
その兵隊さんたちがなくては今の日本はとっくの昔に白人の世界になっていたでしょう。
第二次世界大戦は西洋と東洋の戦争だったのです。白人は東洋を攻めて自分の国にしたいがために、日本に対して総ての食糧とか石油をストップした。
日本が参戦せざるを得ない状況に追い込んだのです。
大戦のおおもとは有色人種と白色人種の戦いだったのです。
日本があって初めて東洋が救われたということを皆さんに知ってもらいたい。
それに比べると支那人は・・・あの国民党が来た時の大変さと比較してみたら、エンゼルと悪魔の違いくらいあります。
皆さんはそういう目にあったことがないから、いわゆる伝え話に気を取られて、日本の兵隊は悪かったと思うけれども、日本の兵隊ほど素晴らしい兵隊はこの世にないと思うよ。

それがなぜ日本は戦ったら悪い。外国は戦って当たり前。そういう話はどこにあるのかって聞きたい。

(自虐史観を)教えている人間に、「あなたは、日本の兵隊は悪いことをした。悪かった。」と言うけれども、その証拠を出せるかと聞いてみてちょうだい。

今の日本人は、昔、国を守った人達のことを考えたことはないでしょう?

靖国神社参拝がいけない。なんでいけない?
国を守ってくれた守り神にありがとうと言えない。それは人間じゃない。それに従う人間もお役人もちょっと頭がいかれていると私は思う。
(日本は)悪い悪いと教えている先生は、自分がその時代の人間になってみて。
戦いに行かなければならない時にあなたは脱走兵になるのか? 外国に逃げて行くのか?
外国に行ってもあなたは死んでしまうんだよ。日本人というならば。
みんなが連合して日本を苛めようとしている時に、立ち上がって守ったのは日本の兵隊さんじゃなかったですか。
国家は歌ってはいけない。教育勅語は捨てろ。それは何ですか。
日本が悪いというならば、どうぞ好きな国に行ってくださいと、あなた達はなぜ言えないの?
 


 
この動画は、中国共産党寄りのNHKが、親日の台湾の人達にインタビューした内容を、日本が台湾に酷いことをしたと取られるように切り取り、歪曲報道したと、台湾の人達が怒っておられるということを取材したもの。
この動画に登場する、台湾の方々の言葉に心を打たれました。
 
 
 


 
(これは私がやっているFBの、台湾のお友達の記事。)
 
イメージ 2
 
日本の統治時代の写真と、戦後に大陸から中国人が踏み込んできたBefore & Afteの写真を並べて、「日本統治時代はこんなに素晴らしかった」と訴えたり、日本の美しい文化などを紹介したり、−。
 
恥ずかしながら先月、台風18号で京都嵐山の桂川が氾濫したことはこの台湾の友人に教わりました。堀北真希主演のTV番組「ミス・パイロット」が始まることも。
複数の台湾のFB友達がいるのですが、富士山が世界遺産に登録されたことも、作家の山崎豊子さんが亡くなったことも、会社からの帰宅後、ニュースを見る前に先にフェイスブックで彼、彼女達から教わりました。

台湾の方々の日本への熱い思い。それは先人の方々の立派な行いの賜物・・・
その方々が戦後、あんまりな言われようをしていることへの悲しみと、感謝の気持ちと。 
 

 
(これはインドネシアのお友達のFBの写真をシェアしたもの。)
 
イメージ 3
 
写真のタイトルは、『戦火で死に行く馬に、自分の最後の水を与える日本兵』 。 
この兵隊さんの優しさが伝わって、涙。涙。
このような素晴らしい写真は沢山あるのに、なぜ日本のマスコミは報道しないのでしイメージ 4ょうか。
 
昭和20年春イメージ 1
台湾南部を走る汽車のステップに立ち、振り落とされまいと必死に鉄棒に掴まっている12,3歳の少女がいた。
名は楊素秋(日本名:弘山喜美子)さん。
女学校を受験するための参考書などを詰めたリュックを背負い、3日分の米と野菜を入れた布袋2つが両腕に痛いほど食い込んでいた。
隣に立っていた20歳くらいの日本の将校さんが心配そうに「大丈夫ですか」と聞くが、もう返事する気力も残っていなかった。
足元もおぼつかない女の子を見て将校さんは、「その荷物を捨てなさい。早く捨てなさい。」と言った。
ちょうど汽車は鉄橋にさしかかり、鉄棒から片方の荷物を話して荷物を捨てた時…
楊さんは、左足をステップから外してしまった。
「助けて」
叫ぼうとしたが、目の前が真っ暗になって、意識を失ってしまった。 
 
イメージ 2

遠くで聞こえていたざわめきが、段々と近くなってきた。誰かが頬をたたいている。
「気の毒にね。いたいけな子供が 顔が真っ青だよ。」
「いやぁ、その軍人さんがいなかったら、この子は川の中だったな。」
気づくと、楊さんは知らないおばさんの膝の上に抱かれていた。
「ああ、よかった。息を吹き返さなかったら、どうしようかと心配していたのよ。」
と、おばさんは楊さんのおかっぱ頭を撫でた。
台南市につくと、おばさんは楊さんを抱いて窓から外に出してくれた。
窓の外には、あの将校さんが待ち構えていて、楊さんを抱き下ろした。
汽車のステップの上に立ち、自分の荷物を抱えて立っているだけでも大変なのに、その将校さんは気を失って転落しかけた楊さんをとっさに掴み、引っ張り上げてくれたのだった。
下手をすれば自分も落ちてしまうかもしれないのに。
「あのう、、、お名前を教えていただけますか?」
「ハハハ、子供のくせに。いいから気をつけて帰るんだよ。」
将校さんは手を振って、汽車に乗り込んだ。爽やかな笑顔だった。
楊さんはその後、名前だけでも聞いておけばよかったと50年以上も悔やむことになる。
生きている間にもう一度お会いして、お礼を言いたい、、、
そんな思いを抱きつつ、楊さんは戦後、成人してから小児麻痺の子供10人と健常者の子供20人を預かって育て上げた。
あの将校さんは自分の命を助けてくれただけでなく、ほかの人に尽くす力も与えてくれたのだった。
 
楊素秋さんは昭和7年、台南市に生まれた。
日本統治下に生まれた父親は完全な日本人になりきっており、楊さんが生まれてからは家庭でも日本語で通した。
日本時代の町の特徴は、とにかく清潔なことだった。
朝早く起きて、戸を開け、まず家の掃除。
その後、家の前の道を掃くのだが、隣の家がまだ起きてなかったら、そちらも掃いてあげる。
そうすると、今度は隣の家が翌朝はもっと早く起きて、こちらの分まで掃いてくれるのだった。
道路脇の側溝を掃除するおじさん、散水車、除草の車なども朝早くやってくる。
こういう作業員はみな政府に雇われていた。
かつては「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」と呼ばれた台湾の衛生状態を改善することに日本政府は力を入れていたのである。
 
治安も良かった。
今の台湾では窓に鉄格子をしているが、日本時代には鉄格子のない家で、戸締りしなくても安心して眠ることができた。
楊さんの家の前には派出所があり、日本人のお巡りさんがいた。
イメージ 3
 
楊さんが時々落し物を拾って届けると、「君、また拾ってきたのか」と褒めてくれた。
楊さんが小学校に入って、担任になったのは宮本先生という美人で優しい先生だった。
楊さんが落し物を拾って届けると、宮本先生は楊さんの手を引いて家まで来てくれて、父親に色々楊さんのことを褒めてくれた。父親は目尻を下げて聞いていた。

学校の裏手にある牧場に連れて行ってくれた事があった。
先生が「皆さんは誰のおっぱいを飲んで大きくなりましたか」と聞くと、お父さん子の楊さんは威勢良く手を挙げて 「はい、私はお父さんのおっぱいで大きくなりました」と答えた。皆に笑われたので、楊さんは泣き出してしまった。
その日の放課後、宮本先生は楊さんの手をとって家まで一緒に連れてきてくれ、父親に成り行きを話した。父親は嬉しそうに「ワッハッハ」と笑った。
楊さんは、先生が一緒に帰ってくれるだけで嬉しくて、泣いたことなどケロッと忘れてしまった。

宮本先生に限らず、当時の先生方は生徒に自分の子供のように接し、また親とも緊密な信頼関係を築いていた。
 
授業では、修身の時間が大好きだった。
先生は偉人伝の本を読んでくれたり、紙芝居を見せてくれた。
楠正成、二宮金次郎、宮本武蔵から、野口英世、東郷元帥、乃木大将、そしてエジソンやキュリー夫人、これらの人物が艱難辛苦を乗り越えて立派な人になった、という話に感動して、自分もそうなりたいと思った。
先生は「我が国には昔こういう偉い人がいた」という具合に教えてくれた。
「日本には」とは言わなかった。だから楊さんも「我が国」と覚えてきた。
毎朝の朝会では明治天皇の御歌などを朗詠するので、楊さんたちも自然に覚えた。
その中にこういう御歌があった。
 
新高の山のふもとの民草も
茂りまさると聞くぞうれしき

新高とは台湾の代名詞である。
明治天皇が日本人と同様に、台湾の民をご自分の民として思って、その繁栄を喜ばれていることがよくわかった。
 
 
楊さんの家の周囲には、日本人がたくさん住んでいた。
お向かいの金子さん、裏には榊原さん、中学教師の広瀬先生、台南の法院長を務めていた緒方さん。
このあたりで電話があるのは楊さんの家だけだったので、ご近所あてに電話があると、楊さんは走って「電話ですよ」と呼びに行った。
呼ばれた日本人の家では、後でかならずお寿司などを持ってお礼にきた。

また近所の日本人は、よくおはぎをたくさん作っては、親子揃って、楊さんの家に遊びに来た。楊さんの家でもお返しに台湾餅などを作った。
それを届けるのも楊さんの役目だった。
 
 
昭和18年、楊さんが5年生の時には、台南市でも米軍の爆撃が激しくなり、一家で祖母のいる田舎に疎開した。
そこにも日本の若い兵隊さんたちがおり、日本語の話せる楊さん一家に、自然に遊びに来るようになった。
兵隊さんが時々映画を見せてくれるので、そういう時は「喜美ちゃーん、映画に行かんか」と誘ってくれる。楊さんは「はーい」と言って元気に家を飛び出す。
5年生で小さな楊さんは周りが皆兵隊さんばかりで画面が見えないので、いつも肩車してもらうのだった。
楊さんの幸福な日々も、日本の敗戦とともに終わりを告げた。
その最初のショックは、中国から蒋介石の軍が上陸した時だった。
シナ兵は裸足でボロボロの服を着て、天秤棒に鍋と七輪をぶら下げ、こうもり傘を担イメージ 7いでだらだらと歩いていた。
こんな兵隊がやってきて、台湾はどうなるのかと、心配になった。

その心配は現実のものとなった。
今まで戸締まりしなくても安心して寝ていたのに、家の自転車が盗まれてしまった。
終戦2年目の昭和22年2月28日には、蒋介石の横暴に怒った民衆が台湾全土で暴動を起こした。228事件である。
そのきっかけは、中国人の密輸タバコ取締官が台湾人の女性の所持金を取り上げ、銃で殴っているのを、日本海軍から戻ったばかりの若者が守ろうとしたことだった。
この暴動を鎮圧するために、全土で3万人近くの台湾人が中国人に殺された。
楊さんの父方の親戚の湯(とう)さんも、大衆の見守る中で銃殺された。
学生たちの命を守ろうと、学生連盟の名簿を役所から持ち出して燃やしたからである。
湯さんの奥さんが夫の亡骸に毛布をかけてやろうとすると、中国兵はその手を払いのけて、銃剣で死体を突っついた。
 
 
イメージ 5蒋介石政権の戒厳令は40年間も続いた。
そしてようやく「中華民国」から脱却して「台湾」への道を歩み始めたのは
「私は22歳になるまで日本人だった」と語る前総統・季登輝の時代になってからである。
 
日本時代は、人民は政府を信頼していました。
そして、それに応えるかのように、政府も人民の生活を良くしてあげたいという気持を表していました。                     李登輝元総統 
また、兵隊さんも、先生方も、お巡りさんも良くしてくれ、町中至る所にいい雰囲気が溢れていました。
そして、危険を顧みず身を賭して走る列車から見ず知らずの人を救う真の「心」を持った日本人が、大勢いたのです。それが、普通の時代・国でした。
日本時代とは私にとって、素晴らしい時代であり、私の人生の道標をこしらえてくれたと言っても過言ではありません。
私の向うべき人生の指針を与えてくれました。
私の心の中には、いつもとても綺麗な日の丸の旗が翩翻とはためいています。
もしもタイムマシンで元に戻れるなら、もう一度日本時代にもどりたい。
あの平和で穏やかな時代に。
 
イメージ 4
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 この動画に心を打たれ、「楊素秋さん」で検索しました。
楊さんは著書『日本人はとても素敵だった』の中で「日本人は、日本人であることを大いに誇っていいのです。
昔の日本精神はどこにいったのですか!私はそう叫びたいのです。しっかりして欲しいのです。」と訴えておられます。
戦後、台湾は中国の一部だということで「君は今日から中国人だ」と言われた時の驚きと違和感・・・
中国は授業では、南京大虐殺をはじめとして日本軍がいかに悪いことをしたかと、日本を憎むことばかりを教えたそうです。
日本が大東亜戦争で行った良いことは挙げずに悪いことばかりをあげつらうのは不公平だと楊さんは憤ります。
「弁償という名のゆすりに屈する日本人」という頁では、現在の東洋の繁栄は日本人の努力に負うところが大きいにも拘わらず、日本は四十年も五十年もお前だけが悪いと言われ続けたと書き、負けた側(日本)が経済的に豊かになると、今度は『弁償』という言葉のもとにゆすろうとする。これはやくざのやり方です。中国・韓国はそれをずっとやり続けています。
テレビで日本の悪口を言っている韓国の人等を見ると、憤りに似たものを感じます。不公平だと。― と言葉に力を込めておられる。
日本の若い人たちに声を大にして言いたいことがあるとも。
「誇りも何もかも捨ててしまって、悪い方にばかり考えていると自分も嫌になるのではないですか。」
「すくっと立って胸を張り、正しいことだったら『どこが悪いんだ!』と主張してほしい。
昔の日本人のようにイメージ 6、背筋を真っ直ぐにして、ー 。」
 

青年将校に助けられた小さな女の子がやがて、戦時中の日本人の素晴らしい行いを本に書き、一生懸命日本の子弟に伝えようとするようになる。
そのことに私は物凄く感動して、この優しく立派な将校さんのために、日本の名誉を復活させることに力を尽くすことを心に誓ったのでした。
きっとその将校さんは今、天国で楊さんのことを微笑んで見ておられることでしょう。
 
 現在の楊素秋さんの姿をYouTubeで見つけました。
楊素秋さんが大好きだった修身教育、台湾の殿方も実に良かった〜と、異口同音におっしゃっています。

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