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先に、古文書のところで幻の盲僧寺 ― 鶏足寺が、千数百年前の平安京の誕生に関わりをもっていた可能性があると申しました。そこで、この鶏足寺について少しお話をしてみたいとおもいます。 日向の國高千穂郷について享和二年(一八〇二)に書かれた「高千穂古今治乱記」というものがあります。筆者は判明しないとのことで、豊後治乱記を基礎に高千穂の事項を加えたものであろうといわれています。 ── 大友時代の物語伝説をそのまま記載してあるので史実とは違うところもあるけれども、(中略)野史であっても資料である ── とは、高千穂町の郷土史家故西川功氏のお言葉です。 その高千穂古今治乱記に植野八幡宮のことが書いてあります。現在の高千穂町下野に鎮座し「下野八幡神社」と称されるところです。この八幡社は本殿に正八幡を祀り左に神功皇后、右に祖母岳大明神の祭神玉依姫を祀ります。 正治元年(一一九九)、山裏村(現上岩戸)二ツ岳に豊前国宇佐郡由原〔ゆすはら〕の正八幡が顕現し、四年後の建仁三年(一二〇三)に下野の植野に植野八幡宮を建立したという由緒が、嘉永五年に西川信篤の書いた「高千穂古跡鑑」に記してあります。 この八幡宮といっしょに建てられたのが『鶏足寺』です。八幡山無量寿院鶏足寺といいます。八幡山無量寿院鶏足寺は宮崎県高千穂町下野〔しもの〕八幡神社の別当寺でした。現在、寺跡地が神社脇にわずかに残るだけです。 このお寺は、日向・肥後・豊後三国の盲僧の、日向琵琶法師の総本山でもありました。 八幡宮御記録に見える植野八幡宮の式典記録は、そのまま鶏足寺での祭事となっており、八幡宮と鶏足寺との区別はほとんどなく、祭事においては神職と僧侶とで分担をして行なっていたようです。 鶏足寺の住職は、開山より正徳二年(一七一二)までに百十七代続き、そのうち六十四代は盲僧が勤めていたといいます。その後、明治まで続きましたが、明治四年の一村一箇寺一社の命により廃寺となってしまいました。その時の僧侶は植野八幡宮の神職に転身したということです。 徳川初期の神祗道家橋三喜の紀行文「一宮参拝記」に、延宝三年(一六七五)九月四日、日向の國一の宮(都農神社)参拝の途中に鶏足寺へ立ち寄り「別当福泉院」へ泊った旨が記されています。福泉院は現在も存続しており、その管理をなさっておいでなのは八幡神社の宮司さまです。 平成五年十月発行の高千穂史談会報に、碓井哲也氏が寄稿された「千年の調べ 幻の琵琶法師寺物語 高千穂町下野・鶏足寺」という文章があります。これを転載いたします。(碓井哲也氏には、お電話にてではありますが転載の承諾をいただいております。) 以下、転載文。(文言はそのままですが、句読点を数箇所において付加及び削除しております) 平成四年三月三日の夜、NHKテレビ、プライム一〇『歴史誕生・桓武天皇怨霊と闘う・京都のろわれた平安の都』は、鶏足寺の盲僧たちの霊をよみがえらせたにちがいない。 それは、文字どおりタイラのミヤコともいわれた平安京誕生にまつわる怪しい出来事の発見であつた。 この、いまを去る千二百年前の古都の誕生に、日向の国の山深い、盲僧琵琶法師の寺鶏足寺も、大いにかかわりがあったと思われるのである。 いまも基盤の目のように、整然とした都市平安京は、当時、唐の都長安をモデルにした造りといわれ、桓武天皇の延暦十三年(七九四)、いまの京都市の中心部東西約四.二キロメートル、南北四.九キロメートルに建設され、中央を朱雀大路(現千本通)とし、この大路をはさみ左京と右京に分けた。その朱雀大路の南端には羅城門を構え、北端の朱雀門と相対させた。羅城門は『羅生門』である。(中略) 天皇の住居である大内裏を北部の中央に造営し、縦横基盤の目通りに区画した平安京造りは、現代の都市計画による画期的な都市造りのようにもみえた。しかし、唐の都を模倣したというこの都造営の裏には、あの真っ直ぐな道から怨霊を退散させ、東西南北四方十二の門は悪霊の侵入を阻止するための、悲壮な桓武天皇の願いが込められていたという。 天皇が平安京に遷都する始の都は“あをによし”奈良の都であったが、天平以来の争乱と人心の頽廃、あまた僧侶の下落。さらに、この時代に発生した弓削道鏡の天下乗っ取り事件や、藤原氏対大伴氏の抗争、なかでも天皇家継承をめぐる骨肉の争いなど、物情騒然としていた。 ついには、この災いの根源は、自殺に追い込まれた天皇の弟、早良(さわら)親王のたたりだということになり、二度目に遷都した長岡京(京都南部)も放棄して三度目の平安京へ遷都したのである。 しかし、天皇にとって“平安”であるべき京都も、忌まわしい事件が相次ぎ、怨霊とともに移り住んだ思いで、夜な夜な生きた心地はしなかったのであろう。当時の人々の怨霊へのおそれは、現代人の想像以上であったことが、整然とした平安京建設の裏付けとなったことは、前途のとおりである。 ときに、地方(岡山)の豪族から異例の出世で、中堅官僚として平安京造営官長となった和気清麻呂がいた。当時、豪族の子弟は成人になると舎人[とねり]として、女史は十三歳になると采女[うねめ]として宮廷に仕えるのがならわしであった。 清麻呂姉広虫と共に宮廷に仕え、弓削道鏡追放に当たっては九州へ下り、宇佐八幡の神託を得て、道鏡の悪だくらみをくつがえすのである。 なぜ、清麻呂ははるばる宇佐八幡へ参拝したかは、宇佐が伊勢皇大神宮と並び朝廷との関係が深かったからで、奈良東大寺の大仏開眼供養に宇佐八幡からも神官大神杜女[もりめ]らが八幡神を奉じて上京したという。 この大神杜女と高千穂・三田井氏、そして鶏足寺との結びつきについては後述する。 相次ぐ凶事や祟りの妄想から抜けきれない天皇の心の内をいち早く読み取った清麻呂は、平安京造営に当たって内裏(天皇在所)を中心に、怨霊退散のため南に四神の一つ朱雀門ほかニ門。東に陽明門・待賢門など四門。西は上西門・談天門など四門。北の方角は、鬼門にふさわしい三門を建て悪霊の侵入を封じたのである。 さらに、鬼門にそびえる比叡山を鎮護の霊山として、全国から名だたる僧を集め護摩を焚き七日七夜怨霊退散を祈願したという。(中略) このとき、九州から八人の盲僧が召されて琵琶を奉じ共に祈願したという。この八人の琵琶法師の中に鶏足寺から選ばれた法師がいたのではなかったのか。 中野幡能[はたよし]編『盲僧・歴史民俗学論集2』によると、勅命により上洛したのは、筑前冷泉津の麻仁養、佐理養、筑後の化佐養、伊麻養、肥後の麻須養、薩摩の他化養、日向の与根養、豊前の徳養の八人とある。 この八人には、国土安泰の功により、のち、朝廷から地神経田が贈られるが、日向の国の与根養は佐土原の賜田であったとある。 ―― つづく ―― 本来の境内(であったのであろう敷地)には個人の住居が建ち、かつての楼門は昔の姿のままそのお宅の庭へ入るくぐり門として在ります。いつの間に地主になられたのかは近隣の有識者の誰もがご存じなく、鶏足寺には縁のない方の住居だということですので、どのような経緯で現在があるのかと、不可思議なおもいを強く持ってしまいます・・・。
植野八幡宮と鶏足寺とは、同じ神殿に神仏が十数体祭ってありました。その中に高九社大明神というのがあります。現在は「高」の字を用いますが、本来は「鷹」だったようです。この高九社大明神については、高智保皇神へとつながりますので後日改めてご紹介をしたいと考えております。 |

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ゆっくり読みたいから…資料としてコピーしますね。
最近私の夢にも怨霊が出てきます。
1000CCの黒い奴に乗ってやってくる怨霊は髪に桜を挿して…
ときには、元気なお婆ちゃんが、後ろにしがみついています。
2012/7/18(水) 午前 11:48 [ pok**hino*324 ]
しずくさん。。。こんばんは。
あらぁ〜♪
桜の髪飾りなんて、なかなか粋な怨霊さんではないですか。
なんだか怖くなさそうですね・・・わっはっはっ(^O^)
でも、お婆ちゃんは怖そぉだぁ〜(^^;;;
2012/7/18(水) 午後 7:22
なかなか好い場所でした〜
2012/7/18(水) 午後 10:25 [ 星読みの民 ]
星読みの民さん。。。こんばんは。
ここは本当に好いところですよね〜♪
参道入り口にある「逆さ杉」が見事ですし、階段脇のイチョウの老木は静かに語りかけてきてくれますものねっ。
2012/7/19(木) 午後 8:09