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(中略) 第二十九代欽明天皇(五三九年・百済から佛典佛像渡来)の頃、盲目となった神祗大臣の子息が、のち、遊教霊師といわれたが、不具なるをもって日向の国鶏戸山の岩屋へ流され、ここで中国渡来の僧にあい、地神経修法と琵琶の秘曲を授けられる。 のち、朝廷に召されて天子の御前で秘法秘曲を弾き、大いに称賛され大臣坊の名を賜つたが、日向の国へ帰り、のちは寺を建て盲僧を集めて、大いに勢力を張ったという。 さらに前述の桓武天皇の御代、宮中に五頭の龍と蛇が現れたとき、九州の盲僧八人が召されて修験せしめた、と古事にみゆる(中略)。このことはNHKテレビの「歴史誕生」の解説にもほぼ一致する。 さらに、盲僧が平安京遷都以前の、延暦七年(七八八)の建立された、比叡山延暦寺の落慶式の最澄から招かれたとある、というから古くから日向の国では琵琶僧が一派をなしていたのだろうと推測できる。 事実とすると、千二百余年前の鶏足寺の前身や、日向の国が始まりとする盲僧たちの歴史の一端をかいまみる思いである。しかし、この長い琵琶法師の歴史にも栄枯の流れがあった。 「古事類苑」によると、わが国盲僧の起源は琵琶法師と同一である。宇多天皇(第五十九代・在位八八七〜八九七)の皇子、敦実親王に仕えた蝉丸(法師)に始まる、とあるが定かでなく、一条天皇(第六十六代・在位九八六〜一〇一一)の頃、ようやく琵琶法師の名を散見する、とある。 当時はまだ宮廷雅楽の域を出なかつたが、のち平家一門の栄華と没落・滅亡が、佛教の因果と無常観で人々を魅了する叙事詩的な、「平家物語」が語られ始まると、すでに奈良時代に渡来していた「琵琶」という楽器に「語り」がぴったりであった。 声の調子を引き出すためにも琵琶を用いた(西遊記・一)ともあるから、盲僧にしてみれば、健常者以上に音色をたよつたにちがいない。とりわけ平家物語は天台盲僧の曲・節が定着していつたものという。 (中略) 明治維新となつて、当時の国家権力が盲僧を根絶させるために告示した記録を転記する。 盲僧天台宗所轄ノ件 元青蓮院配下盲僧之儀ハ總テ天台宗管長ニ於テ 所轄取締可致様管長ヘ達置候条、此旨為心得相達候事。 但盲僧之一派永存之旨越ニ無之候 爾後 盲子養取或イハ以テ追加、更ニ十三年七月内務省達乙第三二号ヲ以テ廃ス。 このように告示したが、五年後の明治十三年七月十二日に内務省達乙第三二号で次のように改められた。 盲人ニアラズシテ盲僧ヲ営ムニ得ザル件 明治八年教部省第三五号盲僧ノ儀ニ付達書、自今相廃候条此旨相達候事。 但盲人ニアラズシテ該業相営候儀ハ不相成筋ニ候事。 これは「朝令暮改」ともいえよう。 維新政府はあわただしかつたのだろうか。当初、盲僧根絶の告示をした一部をなぜか撤廃し、わずかみ盲僧の脈を保つたのである。その訳は定かでないが(中略)、その根底にはわが国最古の盲僧天台宗青蓮院一派の根絶と、明治政府をバックにした新派の台頭が、通達の中に読み取れるのである。 (中略) 慶応四年(一八六八)三月、神佛分離令以来廃佛毀釈で佛教は疎外視され、全国に廃寺は波及し、鶏足寺もその波をもろにかぶることになつたのである。 当時四十人もいたという法師たちも、明治の御維新となり、大きな時代の流れに弾く琵琶の音も打ち消されそうな中で、鶏足寺の流れを汲む法師たちは、冬でもねずみ色の薄着を着流し琵琶を袋に入れ、門付けといわれて民家の入り口や軒下で、諸々の障害を除き功徳を得るという「地神陀羅尼経」と、かまど祓い「土荒神」の法を奏じたのである。だが、それはもう小銭や米をもらうことを生業とする何ものでもなかった。 (中略) 法師たちの門付けはその後、「ごぜ」といわれて三味線を弾きながら全国へ流転の旅を続けた盲目の女たちのように、または、津軽三味線の行脚のように、厳しいこの時代を、最後の一人まで、誇り高く根強く行き続けたのである。 ―― つづく ――
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