梨木平の桜

19年の時をいつも一緒に過ごしたリティがいないことにまだ慣れることができない

全体表示

[ リスト ]

 吉見神の妃比弩羯劼蓮⊆族箸強力な力を持っていたことで自身も相当の力を有していたとされています。その背景には阿蘇の火山帯における「水利権」が大きく影響していたと諸文献は伝えます。
 先に記した吉見神の大蛇退治の神話も、水利権の強奪だったといえるのかもしれません。現にこの草部の地は水の豊かな平坦の耕作地です。しかも、阿蘇と高千穂との結節点でもあります。

 吉見とはもともと「吉水〔ヨシミ〕」であったと考えると、大蛇が棲んでいた吉野の池や比弩羯劼亮族箸ある菅の池が、かつては湧水量の多い水源地であったことも納得できましょうし、この地一帯の信仰の中心がこれらの泉であり、これらの泉が茶の本体であったのではないかという推測もできましょう。
 草部の地にはもうひとつ豊かな湧水量をほこった真萱の池というものがありました。
 吉見神の大蛇退治の折に、勇猛果敢に戦った吉野の池の大蛇とは対照的に、真萱の池の主である牛神はへこへこしながら白旗を掲げて吉見神にくだったといいます。そのときに粟でつくった粥を奉じたのだそうです。この神は牛に似ていたと伝えられていることから、この地域に牛頭天王を祀る人々が住んでいたことを示唆しているのではないかとも云われています。

 水の豊かな平坦地であった草部の郷に稲作の技術を伝えたのは吉見神でした。熊代の宮から草部へ来るときに、牛の背に五穀の種をのせてやってきたのだそうです。それまでヒエを常食としていた村人は稲作の技術を吉見神に教えられたとか・・・。
 稲作の普及とともに村人の暮らしは豊かになりました。侵入者であった吉見神がその功労者として村人に受け入れられたことはいうまでもありません。

 余談ですが、吉見神は熊代の宮に住まいせる時分には高知保大神(大明神)とよばれていたようです(知保郷草部参照)。

イメージ 1

 しかし、草部の吉野の池を征服し草部の統治者となった吉見神の栄光は長くは続きませんでした。神武天皇の孫だとするタケイワタツノミコトが支配勢力として乗り込んできたのです。吉見神にとっては兄神八井耳命の子ですので、甥という続柄になります。
 タケイワタツノミコトは武力での決戦を望まずに協調という形での支配を迫ったのでした。つまり、吉見神の娘阿蘇都媛を妻としたのです。従兄妹同士の婚姻です。タケイワタツノミコトは阿蘇都彦とも称される神です。
 これは阿蘇家(阿蘇氏)が草部家(日下部氏)を支配下に置いたという構図だとおもうのですが、支配する側が奉齋した阿蘇神社十二座のうち七座が支配される側が奉齋する草部の神であることには注目しておく必要がありそうです。
イメージ 2

 
 神道文化会が昭和三十五年十二月に発行した高千穂・阿蘇の学術調査の報告書「高千穂 阿蘇」の中での阿蘇神と草部吉見神についておおまかにまとめると・・・




―― つづく ――
 

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事