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平安京は、唐の都長安を模した造りといわれ基盤の目のように整然とした都市でありました。 桓武天皇の延暦十三年(七九四)、現在の京都市の中心部に東西約四キロメートル、南北約五キロメートルにわたって建設されました。中央の朱雀大路をはさみ右京と左京に分けられました。その朱雀大路の北端に「朱雀門」、南端に「羅生門」を構え、天皇の住居である大内裏は北部中央に造営されました。 しかし、朱雀大路の本来の目的は、そのまっすぐな道から怨霊を退散させ、東西南北十二の門は、悪霊の侵入を阻止するためのものであったといいます。桓武天皇の悲愴な願いが込められたものであったのでしょう。 当時、桓武天皇に仕え平安京造営相責任者ともいえる地位にいた気清麻呂は、これらの門の中で鬼門方角にそびえる比叡山を鎮護の霊山として、全国から名僧を集めて七日七夜の怨霊退散のための護摩焚祈祷をしたといいます。この時、九州から八人の盲僧が召されて琵琶を奏じ、祈祷に加勢したといわれています。この八人の中に日向の与根養という名が見えますので、おそらく高千穂町鶏足寺の盲僧ではなかったかとおもうところです。 詳しいお話は後ほど、ということで先にすすむことにいたしまして、前回のつづきを読んでまいります。 二本のミこたへ二尊の像下ニも落玉わず 寔[まこと]に水に浮きたるごとくましまし介流[ける] 寺内驚て別当を始院内の老若 走集りて彼ニ躰の尊像のり奉りて 退きければ跡はすぐに崩れたをれける 実[まこと]ふし起[ぎ]なる哉信じて尚阿まり有 余りれいけんあらた成由へ印之 道理成哉彼牛王大明神は當社建立の 巳前より當山にましましけるなれはこれ 因縁を依八幡大菩薩此山ニ影向まします いわれを以牛王則此處を守護し玉ふ 山主乃神也なれバかゝるふしぎとも有りつ ことなりまして毘沙門天は當寺乃開祖 ひしゃ門天を信じ玉ふ深く則護摩堂の 本尊と尊敬し玉ひけるなれども右記ス ごとく天正の頃野火にて焼失乃ミ切りより光陰を図り時替り年うつりて ニ躰の尊像神楽殿にましましける如く是 一応ならぬ尊躰にてましませバ一切衆生 信心厚薄に随て御利益計りある べからざるなり 此之節破損ニ付いて御ミやより西の方 先年のごとく南の方ニ向はせたまひ 九尺四面のミやを建立せんことを欲ス 右焼失巳後七八十年余東向きにて ましましけるなルまたまた御不思議ヲ以テ 先年のことく今改ルの意趣有国家 安全五こく成就万民安全乃守護 し玉ふの御神宣くわしく記ス秘之 ことのなり 一當寺之儀者天台宗之寺拾壱ケ寺之 内とは申乍[ながら]當院者別格之事ゆへ 出銅茂脇々同様には出銭も不仕候 尤別段の御入用御法会等之事共 御座候節者格別之事ニ御座候然處に 尚亦天台之触頭高丘等は延岡 北小路善正寺屋敷に有之而当国之 天台寺之支配を致候當寺は三国之 盲僧頭相勤来り双方天台とハ申し乍 両寺同格ニ相勤候んハ格別末寺本山之 差別御座無候然處有馬様御国替之 節丸岡ニ御引移し成され候夫故格別 高丘寺より諸御用等申し来候訳有間 敷く候然乍前段之通献山格別之 御法会等之節者是亦出銭も 一々申し来可筈ニ候其の後上野村出生ニ而 今山寺にて蒙出家善生寺住職 相勤候節宮崎神宮と心ヲ合 本山より出銅申し来り候節或ハ今山寺 百疋申し来候へば五拾疋当寺江申し来り 三〆文申来候へハ壱貫五百文申し遣 候様差配申趣其の上善正寺方 拙僧出岡之節鶏足寺者 無住と申し上置候等申され然らば 住職之無候出銭致可訳無之 譬無住之届御座無候共當寺は 青連院宮末山地ニ候ヘハ外方江 出銅致可訳御座無候未心得違 致可為の処かくの如記置候 殿様近年御物入強く御内之御入用銀 御届け兼遊ばされ候ニ付下々迄尠宛之 御冥加銀差廻し候様村々江之仰せ触れられ相応じ候ニ 御領内差上げ候事ニ御座候然るニ郡中ハ 壱人前六十文ツヽ同じ五ケ年の間差し廻候様ニ 庄屋中会合致し申し談じ候由其趣ヲ以て 当寺江噂御座候ニ付何分此れ之節ハ殿様 御難渋之砌之御儀有難きと存知候故無く 受合年々壱人前六拾文ツヽ之員数 差上げ申す可由受合申し候ケ様之事共 別段之事にも心得申し上ぐ可候 庄屋之元座敷ふとし川崎普請 焼屋普請江入用萱縄之儀村寄合い之為の 差出付申候間末之者戸共変気不仕候様 可仕候法専一如くと相心得可申ため以上如く 御座候 |

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