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七十歳の半ばになるのだろう。最後に会ったのは、かれこれ二十年も前の 犬山の父の告別式の日だった。 「いやあ、お久しぶりです、お元気でしたね」と、不安を隠して言うと、犬 山の母はすまなさそうに立ち上がって、深々と頭を下げた。 「あの、こんなことをお伝えすることは筋違いなんですが、利彦の一番親し い友人でいらっしゃる濱田さんに、どういうことなのかとお聞きしたいと思 って、出掛けて来ました。利彦は、何か濱田さんに話していたでしょうか」 背筋がひやりとした。 「いえ、もう帰省する頃だと思って、僕は心待ちにしていたところです。犬 山に何かあったのですか?」 「それが、実は、利彦は二週間前に帰って来たのです。私は、いつもの帰省 とばかり思っていました。それが、一週間経っても帰らないので、東京には、 いつ帰るのかと聞いたら、もう、帰らないよと言うんです。私はびっくりし て、そしたら、いまからどうするつもりなのかと聞いたんです。利彦は、私 をじっと見ながら、百姓するよ。母さん土地ほったらかしで、荒れ放題だろ うって。なんだか訳が分からなくなって。利彦は、リストラされたんでしょ うかね」と言って、犬山の母は、ハンカチを目に当てた。 「じゃあ、濱田さんには、利彦は何も言っていないんですね。私たちは百姓 で苦労をしましたから、あの子には苦労させたくなくて、大学を卒業して、 会社に入ってくれることだけが望みだったのに、こんなことになって。どう したらいいかと考えあぐねて、濱田さんの事務所におじゃましました。あま り気にせんで下さいね。驚かせましたね、すみませんでした」 犬山の母は帰り際、気の毒そうに、「あの、濱田さん。利彦には、私がこ こに来たことは、黙っていてくださいね、お願いします。勝手を言ってすみ ませんね」と、再び、深々と頭を下げた。 濱田の話を聞いてから、小柴は、「なあ、生きることってキツイな」と言 ったっきり、目の前で泳ぐアヒルを見つめた。 そして、「俺たち、一度に二人無くしてしまったなあ」と、また口を開く と、今度は男泣きに泣いて、ばつが悪そうに、「すまん、笑うな」と言った。 二人は、缶ビールを手にしていたが、ほとんど口はつけなかった。 その日は、台風の去った翌日で、まだ明るいのに、森の向こうにぼんやり 月が浮かんでいた。 「朧月だな」と、濱田は胸の中で呟く。 小柴と別れてから、京子の店で、一杯だけ飲もうと思った。繁華街を過ぎ て小さい路地に入ると、痩せた猫が濱田の足元に擦り寄って来た。妙に侘し い感情が込み上げてきた。小柴が泣いたのを初めて見たからだろうか。 バー「紫」のドアを開けようとしたら、白い紙が風にあおられひらひらし ている。ライターの灯りで見ると、小さい字で、「都合のため、閉店します。 皆様ありがとうございました」と記されていた。 京子の顔が浮かんだ。小柴の「もう、二度と会えないんだろうな」という 言葉が蘇ってきた。濱田は、京子の店の二軒隣のカラオケバーで、バーボン を三杯立て続けに飲んだ。 地下鉄に続く地下道を下っていると、暑さと酔いでぐらりとくるような気 分に襲われた。下りきったところで、芋虫のように丸っこくなって体を横た えたじいさんに突き当たりそうになった。濱田の爪先が当たったのだろうか、 じいさんは、むっくり起き上がって、顔を見据えて、濱田の胸の辺りを指さ して、カカカと笑った。野武士のような顔だった。 家に帰ると、俊介がボリュームを最高にして、ラップ音楽を聴いていた。 「おい、おまえ、将来どうするんだ」 「なんだよ、いきなり。母さんは、風呂だよ。明日は日曜だろう、三人で海 にでも出かけたいね、だってさ…。もうクラゲがいるよ」 「そうか。それよりおまえは、ちゃんと授業を受けているんだろうな?」 「まあね。でも、大学卒業したってちゃんと就職できるとは限らない時代だ からね。俺、大学院に残ろうかと思ってるよ」 「なんだ、司法試験はどうするんだ?」 「親父の頃のように、六法全書を暗記して紙まで食べる時代とは違うよ」 「どういう意味だ」 「複雑怪奇ってこと」と言いながら、息子は自分の部屋に上がって行った。 「なにが複雑怪奇だ。格好つけやがって…」 横になると、ぐらりと酔いが回った。
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