笠原瑠璃子の真骨頂なつぶやきダイアリー

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瑠璃子(小説連載)

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短編小説「風の音」1

風の道
梅雨が明けたばかりだというのに、もういきなり夏だ。

汗ばんだ体をベッドで左右に反転させながら、私はふーっ

とため息をつく。そして、「そんな馬鹿な」と呟く。

 このところ、「そんな馬鹿な」という言葉を何度呟いた

ことだろう。

「風の道?」と、左手の甲を見つめる。

 私の親指と人差し指の間に赤みがかった痣がある。普通

の状態では見えにくいところにあるのだが、指を広げてみ

ると、表面の筋目の縮みよったものが伸びて、模様がはっ

きりする。

 私は、物心がついてからその痣に気が付いていたが、父

母に見せて、どうして痣があるのか聞こうとはしなかった。

 それは、ほんの体の一部ではあったが、他の人と違うと

いうことが、いつのまにか私のコンプレックスになってい

た。大人になってからは長年の慣れからか、それほど気に

しなくなってはいた。どうしても嫌なときは、形成外科に

出掛ければいい。痣の除去など容易なことだろう。

 ところが、ひょんなことから私は、この痣がまた気にな

りだした。

 それがそぞろ心になった原因だとすれば、きわめて馬鹿

らしいことなのだという思いがする。

 その日、私は、朝から図書館にいて、一日中調べ物をし

ていた。史学科修士課程修了のための論文に取り掛かって

いた。

 卒論にローマ世界の成立を手がけたので、ローマ帝国の

崩壊で締めくくりたかった。イスラム勢力圏に関して明る

くないので、参考文献を書き写していた。半分、まどろん

でもいた。

 図書館を下ったところにリーズナブルなランチを出して

くれるフランス料理のお店があって、そこでハーフボトル

を空けてしまった。満腹感で睡魔を堪えていると、背後か

ら失礼ですが、ちょっと横に座っていいですかと声がする。

私は、首を回して虚ろな目を向けた。机の上に、形質人類

学、発掘と安全対策、人骨と古病理と題された分厚い本と

擦り切れたバックパックをどさりと置く。

考古学でもやっているんだろうか。顎鬚を蓄え、上から

下まで完璧なサファリファッション。親しい間柄ならから

かうところだ。

「西洋史の調べ物ですか?」その男は、そう言いながら椅

子を引いた。

 ちょっと無神経なのではないかと思ったが「はあ」と言

いながら作業を続けようと、下を向くと、その男は、私の

方に完全に体を向けた。

 周囲のテーブルは、がら空きだ。わざわざ私の横に座る

という理由がなにかあるのだろうか。

 訝しげに男を見ると、男は、真面目な顔で私の手に視線

を落としている。

不用意にも私は、親指と人差し指を広げていた。痣が真

っ赤になって、模様が浮き出ている。昼食のワインのせい

だ。アルコールを飲むと、完治した傷口がはっきり見える

状態になる。私は、そっと左手を下に下ろした。

「あの、気を悪くしないでください。最初に申し上げます。

僕の無礼を許して頂きたい。単刀直入に申し上げます。実

は、先ほど帰ろうと出口に向かっていましたが、あなたの

後ろを通過する時に、左手が目に入りました。だから、こ

うして隣に座らせて頂いています」

 男は、遠慮がちに、しかし躊躇なく言った。

「私の左手があなたに関係があるのですか?」

 私は憮然として返答した。

 男は、胸ポケットから名刺を取り出した。

「無礼は、承知です。もう一度、あなたの左手を見せて頂

けないでしょうか。お願いします」と、男が頭を下げた。

「そう言われても困ります。私の手がどうかしたのですか」

私は、庄野考古学研究所という文字を目で追いながら答

えた。

 男は頷きながら、ちょっと失礼という手振りをして携帯

電話を取り出した。約束を断っている。それから、その男

は自信に満ちた顔をして「もし、よろしかったら、うちの

事務所に来て頂けませんか。きちんと説明します」と、私

の目を直視する。

まるで、立場が逆転している。いったいどういうことだ

ろうか。私はこの男を信用してのこのこ付いて行って、何

を聞かされるのだろう。

「あの、私があなたの事務所に行けば、何か私の利益にな

ることが聞けるのでしょうか?」

「有益かどうかは、あなたがどう思われるかに係っていま

すが、知っていて損にはならないと思いますよ」

「はあ」

「申し訳ない。まだ、あなたの名前を聞いていなかった」

と男は言いながらバックパックを肩に掛け、机の上の本を

抱えた。やけに事務的だ。

「下村摩夜です」

「下村さんは、学生ですか?」

「ええ、まあ」と言うと、

「それはよかった」と、男は私に握手を求めた。

 私は、なにがよかったのかわからないと思いながら結局、

男(庄野慶一)と一緒に図書館を出た。

 庄野考古学研究所は、大学から見える裏手にある小高い

森の中にあった。といっても、繁華街から車で十分程度の

ところだ。

 応接間に入るとすぐ、愛想がいい事務員らしいおばさん

がお茶を運んで来てくれたので、ほっとする。

「庄野先生の生徒さん?」と、おばさんは私に微笑んだ。

「先生?」

「ちょっと変人、うふふ。私にはちょっとだけど、初めて

の人には大層かな? だけど、その道の大家なのよ。知ら

ないの?」

 こういうところの事務員は気楽なのだろう。お盆をぶら

ぶらしながら、鼻歌まじりにドアを開けたまま出て行った。

壁には年表と矢じりのイラストがあちこちに張ってあった。

壁の鳩時計が電池切れなのか二回飛び出したところで止ま

った。腕時計を見たら三時をまわっていた。

「お呼びよ。後で、コーヒーをお持ちしますからね」と、

おばさんが私を上から見下ろして言ったのは、それからし

ばらくしてからだった。私は眠気に襲われていた。

応接間を出ると、庄野先生とやらが、奥のドアを開けて

手招きをしていた。

 部屋に入ると、庄野さんは手に指示棒を持っていて、そ

れでここに座れと言わんばかりにソファーを突付いた。か

なり強引だ。

 座るとすぐ部屋が暗くなり、スクリーンにスライドが映

し出された。

 円に内接、外接する多角形を基礎とする幾何学文様と唐

草模様が、緑色の屋根に覆われた建物に施されている。次

のスライドは、アラベスクの門の向こうに噴水が見える。

ミナレットがそびえている。モスクだ。

「どこか判るかな?」庄野のさんが講義でもしているかの

ように聞いた。

「さあ、イスラム美術ですよね」

「世界で最古の大学があるところですよ」と勿体振ってか

ら、「下村さんは、史学科の学生ではないんですか?」と不

機嫌そうに言う。

 だいたい最古の大学と私の手とどう関係があるというの

だ。私は、むっとしながら無視をした。

「ま、そんなあわてなさんな。物事には、導入というものが

ある。下村さんは、せっかちな人ですね。そんなんじゃ史学

なんかできませんよ、根負けします。考古学も同じですがね」

「私は、学者になろうとかさらさら思っていませんので」

「それじゃあ、ますますそうですよ。下村さん、煙草を吸い

ますか?」

私は「なんだ、この変人」と思いながら、愛嬌笑いを浮か

べ「ええ、頂きます」と庄野さんから受け取った煙草に火を

点けた。

 スライドは、カラフルなジュラバ姿の女性たちを映して

いる。それから庄野さんは、次々にスライドを変えた。荷

物を運ぶロバ、水売りのおじさん、香辛料のお店、軒並み

に続く絨毯、織物、スリッパ、革製品、銅製品、真ちゅう

製品、陶器、貴金属細工のお店。

「もういいですか?」と、庄野さんは私を見た。最後のス

ライドは、真ちゅうのランプだった。

 私は「アラジンのランプですか? 開けゴマですね」と

ふざけてから、「このスライドは、全部メディナですよね。

モロッコ、アルジェリア、チュニジア、それともエジプト

ですか?」と言うと、

「これは?」と、またスライドプロジェクターの前に立っ

た。

 ボルビリスの遺跡だった。「モロッコですね」

「行ったことがありますか?」

「いえ」私は、ふーっとため息をついた。今度は庄野さん

が無視をした。こころなしか、きつい顔つきをしている。

「カラカラ帝を知っていますか?」

「マルクスなんとかという、ローマ皇帝の通称ですね。増

税のために帝国内の全自由民にローマ市民権を与え、東方

遠征途上にメソポタミアで暗殺されたという…」

「在位は、二百十一年から二百十七年。二十九歳で暗殺さ

れた」と庄野さん。

「そうですか」

「三世紀末にベルベル人の圧迫で衰退しローマは撤退する。

八世紀になってムーレイ・イドリスの支配下となりイスラ

ム教の町となる。もともと紀元前二世紀のころからモーリ

タニア王国の一都市として人が住んでいたんですがね。十

八世紀の地震で崩壊して、千八百八十七年から発掘が開始

されていて、僕は、その最初の発掘に参加したんですよ」

「えっ? 百年以上も前…」

 先生は、横目で私をチラと見て「下村さんの注意力を試

したんですよ」と、からから笑って、

「いやね、僕が発掘に行ったのはつい最近のことですよ」

と言って、ボルビリス遺跡の地図を広げた。

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