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誄という女(るいというおんな)
始まった瞬間はよく覚えている。
その時、塾の生徒を待っていた。私は、ここ十年、夜は英語の学習塾をしていて、夕方の 六時から夜の十時までは教室にいる。 金曜日の六時からの生徒は、私の最も苦手な高校三年生 の芳江だ。「理解できた?」「はい、先生」「ええ、とても」 と、鼻にかけた声を出し、いちいち上目使いに私を見るの で、優等生だが、どうもいけ好かない。 彼女の来る日は、ちょっと憂鬱な気分になる。 六時過ぎに、芳江がドアを開けた。 二年以上買い替えていないビニール製のスリッパが、い きなりパチンという音を立てたので、私はどきりとする。 芳江がふてくされた態度で、靴箱の一番上段からスリッ パを床に落とし、自分の靴を履いたまま足を思いきりあげ て、六段目の棚に収めている。 制服のスカートを短くたくし上げているので、パンツが 丸見えだ。 それから彼女は、学校鞄を机の上に置き、無造作に中か ら月謝袋を出して、机の上を滑らせ、手裏剣を投げるよう な手つきで私の方へ回転させた。 「やってられない」と私は思う。 小学生に一人、私の目の前で月謝袋からお金をわざわざ 出して数え、「今日ちゃんと勉強するから、ここから千円 もらっていい?」と言う子もいたりする。 この手の生徒は珍しくない。しかし、月謝袋を投げて渡 すとは、ひど過ぎる。野放し状態だ。 というより自尊心を傷つけられて、腹が立つ。 「ちょっといいかしら? 月謝袋を鞄に仕舞ってくれる?」 「はあっ?」 「いいから月謝袋を鞄に戻して、もう一度やり直してくれ ないかしら? 月謝袋を投げて渡すのは失礼だと思わない? それに、スリッパは上から落とさないで、しゃがんで静か に床に置くものよ」 「わたし、月謝袋も投げてないし、スリッパも落としてい ませ〜ん」 「なに言っているの。いい加減にして頂戴」 「先生、おかしいんじゃないですか?」 芳江は、ぎろりと私を見た。そして、何事もなかったか のようにテキストを開き、平然としている。 まったく今の子はなってない。家庭教育はどうなってい るの。芳江の親は二人とも学校の教師だ。人の教育をする 前に自分の娘の教育をしてくれよと思う。 所詮、勉強を教えるということも、金をもらっている以 上、商売か。 しかとする芳江に、私は不機嫌な気持ちを抑えながら、 シャープ・ペンシルを動かしている芳江の問題用紙を眺め ていた。 「二番の答えは間違ってるよ」 「え? 私、まだ一番しか書いてません」 「だって、You are to blame to damaging my car.って、 書いてるじゃない。そこは、be to blame forをつかうのよ」 芳江は、またぎろりと私を見た。 「あなた、自分の間違いを言われるのそんなに嫌なの?」 「先生、塾なんか閉めて、霊能者になれば。私は、自分が したことは認めてもいいけど、言いがかりをつけられるの はムカつくし、だいたい先生は私のこと好きじゃなかった んでしょう。だから、私の亡霊を見るんです」 芳江は、すっくと立って玄関まで行き、靴を履いた。 私は、充分に状況が呑み込めないまま、芳江の行動を見 つめていた。 ドアが閉まり、芳江の言葉を噛み締めていた。 では、芳江がスリッパを落とし、靴を履いたまま下駄箱 に靴を突っ込み、月謝を私に投げて私によこしたのは、何 だったのだろう。幻覚なのだろうか。それとも、人がやり たいと思うことが事前に見えたというのか。 芳江は、今二番のところをシャープ・ペンシルでなぞっ ている。 目を開いて、もう一度見直したが、やはりそうだ。彼女 は、出て行ったのではなく、下を向いたまま、私の向かい にいる。 見てはいけないと目を伏せる。無視が一番。 芳江は目の前から消えたはずなのに、問題を埋めていた。 私の頭は混乱する。あまりのことに、私は吐き気を催し た。むかむかを抑えながら、次の生徒のレッスンを終え、 外に出ると、秋風が吹いていて、いつもの向かいのおいし そうな焼き鳥屋の匂いがまた吐き気をさそった。 「ちぇ、季節は最高なのに、最低の気分」と言える元気も ない。 このところどうもよくない。なんだか、そんな予感はあ った。よくないのは、体の調子だけだと思っていたが、ど うやらそうではないらしい。 芳江に「先生、最近おかしいんじゃない?」と言われた 時、本当は、はっとしたのだ。 薄々は感じてはいたが、また私に何かの力が加わり始め ているのだ。 最近、3Dを見るときのように焦点を軽く合わせると、 レストランのテーブルクロスとか洋服の柄が立体的に見え て、気分が滅入ることがあった。 それから、何も考えないでテレビを見ていたり、景色を 見ていると、物体の陰で見えないはずのその後ろが見える ことがあった。透けて見えるのだ。木の後ろの花、テレビ の後ろにあるコード…。 はじめは、「えっ?」「へーっ」「なんで?」 そういう感じしかなかった。だからと言って、特別怖く はなかった。テレビの後ろに回って実際に何があるのか確 かめたことはあったが。 一頃、3Dに夢中になったことがある。なかなか見える ようにならない人もいるようだが、私は至近距離からなら 一瞬にして立体図を浮かび上がらせることができる。 足を骨折して入院したとき、「三次元の世界でも見たら?」 と友人が3Dの本を持ってきてくれたのが最初だ。 しばらくしたら、すぐ飽きたが、最近また目がよくなる とか、集中力がつくとかで、本屋に並ぶようになっている ようだ。 ある日、考え事をしながら、無意識のうちにスリーダイ メンションを見るときのように目の焦点を合わせていたら しい。 ふと気が付いたら、人間が二重に見えだしていた。 私たちの認識する空間には、連続体の広がりの次元が三 つあるということなのだろうが、それを意識するのは、決 まって私が構えていないときだ。 「あら、千夏ちゃん今日はお休みなの?」と、近所のおば さんがマーケットでレタスを選びながら私に声をかけた。 すると、おばさんのすぐ後ろに、同一人物のもう一人のお ばさんがニンニクを選んでいて、別の行動をしているのだ。 私は、一瞬「えっ!」と思うが、やはり、「へーっ」「な んでよ」「まさかあ」と思う。そして、ぼんやり、その出 来事が通り過ぎるのを待つ。 たいていそういう時は、頭の中が空白になって、冷や汗 がじわりと出る。そして、絶対に半信半疑になるのだ。 「そういうことはないよね?」「うん、ない」という具合 に自分で自分を納得させてしまうのだ。 その後、私はレジの列に並んだ。レジの女性は、籠から 商品を出しながら、バーコードを読みこませていた。する と、レジの女性の背後に、もう一人の同じ女性が、料金を 受け取って、つり銭を渡している。 しかし、それにはっきり気が付いたとき、いきなり頭痛 がして、しゃがみ込んだ。 後ろに並んでいた人が「どうかしたのですか?」と顔を 覗いた。 私の番がきた。私は精一杯の気持ちで挑戦してみること にした。レジの女性の背後にいる女性が言う金額を渡す。 すると、レジの店員は、はっきりとした声で、「まだ計 算中です」と言う。 計算が終わってレジが示した金額は、後ろの影が先ほど 言った金額と同じだった。 私の半信半疑は、その日に現実となった。 次に起こることが、現在とだぶりで見えるのだ。 そんなことを人に言えるはずがない。気味悪がられて、 たちまち仲間はずれだ。 はてなマークが空中に浮かぶ。 ショックだ。これから同じことが起きたら、後ろの奴は、 未来の影なのだと認識するしか方法はない。 道理など解き明かそうとするほうが間違っている。理解 などしたくなかった。私は、科学者でも超能力者でもない。 証明できないことは、理解するのを拒否すべきだ。 しかし、その日を境にぱったりそういうことは起きなく なった。ほっとして、憂鬱な日々に陽が射してくれたと言 ってもいい。 それでも、しばらく用心していた。だが、いつのまにか 警戒をしなくなっていた。 十年も前のことだ。 しかしまた、今、それが違う形で起きたのだ。それは、 芳江によってまた惹き起こされた。 芳江が答案を書く前から、彼女の答えが見えていたのだ。 私は寒々とした気分で塾の階段を下りた。 駐車場に、私の車だけがぽつんとある。 車を出して、しばらく走ったところに格安で、無農薬の 野菜を売っている八百屋がある。 十時過ぎだというのに、めずらしく今日は電気が明々と 点いている。 店の前に車を止めて、りんごとなしを買う。ツバメが営 巣して、忙しそうに雛に大きなミミズを運んでいた。 「おや?」日本には春飛来するのではなかったか? 「おじさん、ツバメって、今の季節でしたっけ?」 「ああ、そうだよ。これが来ないと商売繁盛しなくてね。 心待ちにしていたら、三週間前に来たよ」と、嬉しそうな 顔をした。 今日は、入れ歯をちゃんと入れているせいか、十歳は若 く見える。 「いつも遅くて大変だね。あれには内緒だよ」と、隠すよ うに、缶コーヒーをくれた。 あれというのは、妻のことだ。おじさんに女房がいたの だろうかと思ったが、お腹が空きすぎて、そんなのはどう でもよかった。りんごをかじりながら運転した。 三十四号線に出ると、工事中のサインが表示され、廻れ とある。 なに言ってるの? メインロードだぜ。 家に帰るには、この道しかない。いや待てよ、反対側か ら山越えするしかない。 夜更けに帰宅する時間は、朝からの疲れがどっとでてい て、不機嫌で、早くシャワーを浴びて、ゆっくりしたいと 気が焦る。 「もお、全く嫌になる」 仕方なくUターンした。 繁華街を抜けて、人里はなれたところから山道に入ると、 ひんやりとした空気が車内に流れ込んだので、ぞくりとす る。 「なにも出てこなければいいけどな」 私は対向車が来るのを気にしながら、アクセルに力が入 る。 この山道は狸や狐がいると聞いたことはあるが、怖いの はなんと言っても人間だ。 ライトをハイビームにする。去年の夏に植物研究家の石 松先生と鷺草を見に来た沼地のところまで来て、嫌な予感 がする。 ガソリンゲージを確かめる。よかった。まだ半分以上は あると思った時に、車がストリ、停止した。
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