笠原瑠璃子の真骨頂なつぶやきダイアリー

過去の記事は写真のすべての表示 からが簡単です。音楽は重なりません。 良き日をお過ごしください。感謝★

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光が戻った君の目に
ゲーテの大きな「告白の断片集」よりももっと
ゆるぎのない告白をするために跪く


ボードレールやハイネの詩集にある
どの愛のフレーズよりも
真実であり
永遠の広がりがなくては
口をひらくものではない


彼女の
首が左十五度に傾き
目を伏せぎみにしたら


君はどうするのか
それから
数秒は心を海の底より深く
静かに沈ませ



愛していると
真面目な口調と態度で
言い



彼女のその十五度の傾きを
やさしくととのえながら
愛らしい娘よ!
そう心運して
やさしく抱きしめることだ


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君が思うよりずっと
一突きできる尖ったナイフを
溶かす
彼女の思いの流れを
止めてはならない



それは
月にとっても
太陽にとっても
草花にでさえ
影響を与える


音楽が
彼女を称え
深く震撼させることを



知るなら
そのときこそ
時!


足元に跪き
それ以上の
喜びを
何で称えるか




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8月15日終戦記念日

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 この八月はまるで蝶番のようだった――
だから気違いじみた努力ですべての束縛から逃れる前に、
思わずほっと大きな息をついてしまう。プロヴァンス、
そしてぼくの心のなかでとざされているなにか。
まるでなにかによりかかる女のようなプロヴァンス……
 生きなければ、そして創造しなければならぬ――ちょうど
糸杉が植えられた岡の上の円屋根のあの青い鎧戸の家を目の前
にしたときのように。




 フィレンツェの昔の画家たちが描いた顔が、われわれが
毎日街頭で見かける顔そのままだということに気がつくまでには
時間がかかる。それはわれわれが、ひとの顔の本質を見抜く習慣を
失ってしまったからだ。





アルヴェール・カミュの数行の反芻するのも
体に沁み込んでくるくらいのぼくの日常的な祈りとすれば
言葉に言い表せない、最愛の母の深くふかく――気の遠くなるような――
海の底に沈んだ思いも同じく
ぼくの綱渡りのような日々の思いに重なる
美化され
愛され
無理やり――そう
無理やりどうしても納得させようとするぼくの
日常的な祈りの時間





不条理の母の時間を愛しむように糸を紡ぐ――





糸を紡ぐのは
ぼくの仕事のようなものだったけれど
糸はとぎれ
いつの間にかもうぼくのものではなくなり
乗り移ったかのようにぼくを苦しめた時間すら
穏やかな時を刻み
墓場を揺らすほどの情念に打ち震えた怯えも
どこかに行ってしまったのではないかと思える





危険にさらされた人たちの
あやうい魂の――どうしようもない悲しみと苦悩には
理由がある





夏の盛り
戦争の終結
なぜ終結したのだろう
血の燃えたぎる――終結





母は正気を保ち
ずっとずっと正気を保ち


ただ「遅すぎる」
そう言った。








百日紅の燃えるような8月15日
終戦記念日・母に捧ぐ

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かもめの群れが餌をめがけ飛んでくる
その姿は
戦闘態勢にはいった優雅な飛行
正確な計算をしながらいとも簡単に食を奪い
つかのまの享楽と迎合する



唖唖
おろかなのはどっちだ
てなずけているのは私たちでもなく
てなずけられているのはまして彼らではない







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よくよく見るがよい
一ミリの媚もなく
自信のある動きに
なんの恐れもない



かもめたちに交じって
どこからともなくとんびも急降下してすきを突く
少女の手が驚き
餌の袋が宙に舞う



鳥たちの興味は
もうすでに海に散らばった餌
泣き出す少女に急いで父が近寄り
母は抱いて慰める





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ほれ

やはり
言わないことではない



対局の風景が湧きあがり
わたしはおぼろに目を閉じた



太陽の讃歌
一行も読めなかったこの二か月


だからと言って覚えていないわけではなかった
「体験という言葉の空しさ。体験とはためしえぬものだ。
それは人為的にひき起すこともできぬ。ひとはただ。
それに服するのみだ。それは体験というより、むしろ忍耐だ。
ぼくらは我慢する――というよりむしろ耐え忍ぶのだ。
あらゆる実際上の行為、ひとたび経験を積むと、ひとは
もの識りにはならなくとも熟練するようになる。だが、
一体なにに熟練するのだろう?」




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ブログ七周年に記す

エッセイメモより★

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つい最近までタラの芽に夢中になっていた。その前は蕗味噌だった。タラは日本の各地に自生するウコギ科の落葉低木でタラの木の若芽だ。私が手に入れるのは栽培物で、どこかで天然物を見つけたら嬉しいだろう…。桜の咲く頃は天然物のタラの芽の旬になるというので探しに行くのを楽しみにしている。天ぷらにすると最高だ。ほろ苦さがたまらない。その他にも心待ちにしている山菜があり、山歩きのことを考えるとわくわくして、眠る前にもにっこりとできるのだから単純だ。




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 歩く前から料理が目の前に浮かぶ。つくしの卵とじ、ツワブキと牛肉の煮物、ぜんまいと油揚げの煮物、物、わらびのお浸し、ふきご飯。山菜ではないが、自然薯のとろろ飯がもうそこまで来ていうという感じだ。
 そうやこうやで、休日、今日こそ家でじっとしていようと思いながら出かけてばかりいる。今年は冬山も楽しんだ。雪解けから始まり、大地に少しずつあたたかさを与えられ山全体が眠りから覚める芽吹きの騒がしさが始まる。
 梅は二月の下旬から長く楽しめる。欲張るときりがない。そうこうしていると、桜の出番で、川面に映った映し絵もだが、静かに流れる花筏まで楽しめる。
 場所によって桜の花びらは色味も表情も雰囲気が違う。傘のような形に見える奈良公園の桜を不思議に思っていたら、どうやら鹿が身の丈の届く範囲の花びらを食べてしまうようだ。鹿たちが桜の花びらを好きだとは知らなかった。
 これからの山歩きも神社仏閣や公園の散策は、梅、桜、牡丹、紫陽花、ツツジと続く。花暦と祭事が重なって人出も多くなる。




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 三月の夕暮れ、路地を曲がった所で手を叩く音を聞いた。小さな神社の前で制服を着た女子が一礼をしたところ。受験の時期だった。合格を祈っていたのだろうか…。彼女は、カバンに付けた鈴を鳴らし、立ち去った。その姿とふるさとの風景が重なった。一面のレンゲ畑、菜の花が揺れる道。その道を下った土手の斜面に、つくしがたくさん生えていた。
 つくしだけではない。わらびも。…今も人知れず生えているかもしれない…。そう思うとその場所にも行ってみたくもなった。



エッセイメモより
  
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 新年を迎えようとしている。
 窓の外に、雪が音も立てず落ちている。温度計はないが、零度以下であろう。こんな物音ひとつしない世界があっただろうかと改めて感じるくらいの静けさである。静寂に包まれた空気の波動だけがじっとしている私の細胞に少しずつ入り込んでいる。透き通った
寒さ、お炬燵に差し込んだ足先だけにほんわりと温かさが伝わってくる。先ほど入れてもらったコーヒーがもうふるぬくい。







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 七時になったころ、お風呂を頂き、精進料理を済ませた。
 宿坊は、寺院で僧侶が生活する場所であり、高野山の町に宿坊はざっと百十三、僧侶の数は八百人以上と聞く。いつのころからかは知らないが、コンビニエンスストアが一軒だけあり、街並みは寺に囲まれ、その並びに数珠屋や高野豆腐を食べさせてくれる食堂や小間物屋がある。まさしくお山に参るという言葉がしっくり来る場所である。いつもは日帰りのお参りにしているが、縁あって今年の師走は宿坊に留まることになった。宿坊は初めてではない。精進料理の「五味、五法、五色」は、それぞれの宿坊ごとで工夫を凝らされていて焼き物、揚げ物、酢の物、豆腐類、汁物が出る。色と味のおもむきが遜りの精神を思い起こさせる。
 寒中、町中を歩くと衣を羽織った僧侶としばしばすれ違い、高野山大学に通いながら宿坊で修行している寺生さんたちが早朝に素足で凍てつく長い廊下を雑巾がけに励まれている姿を目にする。








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 寺の境内の砂に梵語模様を描かれてる。薬師如来や不動明王、阿弥陀如来の守護梵字を眺めるのも楽しみの一つである。明け方の勤行はたいてい六時から。本堂に向かうとすでに灯明が点き香が漂っている。お参りする前に塗香で心身を清めると、しだいに自分の体温によって香りが立ち上がり、得も言われぬ落ち着いた気持ちになる。寺に生まれたこともあって、どの寺の本堂に座わらせていただいても言葉では言い表せない黄泉の世界との繋がりがあると思っている。死生観の曖昧であった子供の頃とはまた違った自分だけの世界もかけがえのない時間になっている。

 そういう時間を持つために毎月決め事のように大阪難波から極楽橋への電車に乗り、ケーブル駅への連絡橋をくぐり高野町へ出かけている。もう一つの目的は、高野山から更に上にある標高千二百六十メートルの立里荒神へのお参りがある。数えてみると、この師走で二十八回目、冬の高野は、これで三度目になった。最初の頃は、高野山までの距離が難儀に感じられたが、春夏秋冬の高野山の佇まい感じながら歩くのがいつの間にか習慣の一つになった。
 






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 記憶をさぐると、昨今お参りする人たちの数が急に増えたような気がする。震災以後休日はかなり多いと寺生さんが言っていた。最近では、ガイドさん付きの観光バスもひっきりなしで、信仰の場の霊場と観光地との微妙なアンバランスを感じる時もある。
 霊場は、仲間と連む場所ではなく、仏と語り、嘘をつけない場所である。やはり霊場として静かで美しい所作の伴う場所であってほしいのが理想だろう。

 宿坊の部屋に入れ直したばかりのコーヒーから湯気が立っている。
 夕刻から降り出していた雪は漆黒に白。依然として天からまっすぐにやわらかい様相で落ちている。もう深夜近くの時刻。山間の雪の落ちる静かな宿坊で師走を迎えられ、ぼちぼちと原稿を書けることを感謝しながら、年の締めくくりに相応しい場所だとしみじみ思っている。







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みなさま、あと数時間で新年ですね。
来る年がみなさまにとって善き年になりますよう心から祈ります。
2014年もどうぞ宜しくお願いします。












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