笠原瑠璃子の真骨頂なつぶやきダイアリー

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 翌年。五月になって最初の日曜日だった。大きなダンボール箱が二箱届い

た。

里子がしゃがんで、土のついたじゃが芋と人参を触りながら、「神様ってい

らっしゃるのね」と呟いた。それは、自分だけの胸に留めるような低い声だ

った。後ろ向きなので、濱田にはよくは見えないが、里子は、エプロンで顔

を押さえていた。

「差出人の名前はないけど…」

よく見ると、それは、一つが玉ねぎ、もう一つがじゃが芋と人参の入った

箱だった。

 その時、俊介が音を立てて走って来て、「小柴さんから電話」と叫んだ。

 濱田は、その一瞬で、すべてが理解できた。犬山だ。小柴も差出人のない

ダンボールの箱を今しがた受け取ったのだ。

濱田は、俊介に「居ないと言え」というジェスチャーを送った。小柴の感

極まる声を聞くと、電話口で泣いてしまいそうだった。

 濱田は、勝手口にあった突っ掛けぞうりを履いて、外へ出た。目の前がゆ

らゆらと揺れて霞んだ。そして、彼の足元に熱いものが落ちた。

空は青々と広がり、流れていく風が心地よい。塀越しに、向かいの自転車

屋のおやじが、「ちわ」と挨拶をしたので、ドキリとした。見られまいと、顔

を伏せた。

すると、よく茂った赤いいツツジの根っこに白いものが落ちている。濱田は、

そっとそれを拾った。葉書だった。郵便受けから落ちて、風が運んだのだろ

うか。

湯煙の上がる蔵王温泉の旅館の絵葉書を、ゆっくりとひっくり返した。

「前略 心配をかけました。元気です。かみさんと一緒です。小柴と犬山に

も宜しく伝えて下さい。いつか、また会おう」

須郷の字だ。昨夜の一雨で、インクが滲んでいる。消印は山形だった。

小柴に電話したい衝動に駆られた。家に入ろうと、向きを変えると、掃除

機をかけている里子の姿が見えた。

濱田は、もう少し、この時間に浸っていたいと思い直した。そして、もう

一度、庭の方を向いて、空を仰いだ。


FIN

短編小説「朧月夜」九

七十歳の半ばになるのだろう。最後に会ったのは、かれこれ二十年も前の

犬山の父の告別式の日だった。

「いやあ、お久しぶりです、お元気でしたね」と、不安を隠して言うと、犬

山の母はすまなさそうに立ち上がって、深々と頭を下げた。

「あの、こんなことをお伝えすることは筋違いなんですが、利彦の一番親し

い友人でいらっしゃる濱田さんに、どういうことなのかとお聞きしたいと思

って、出掛けて来ました。利彦は、何か濱田さんに話していたでしょうか」

 背筋がひやりとした。

「いえ、もう帰省する頃だと思って、僕は心待ちにしていたところです。犬

山に何かあったのですか?」

「それが、実は、利彦は二週間前に帰って来たのです。私は、いつもの帰省

とばかり思っていました。それが、一週間経っても帰らないので、東京には、

いつ帰るのかと聞いたら、もう、帰らないよと言うんです。私はびっくりし

て、そしたら、いまからどうするつもりなのかと聞いたんです。利彦は、私

をじっと見ながら、百姓するよ。母さん土地ほったらかしで、荒れ放題だろ

うって。なんだか訳が分からなくなって。利彦は、リストラされたんでしょ

うかね」と言って、犬山の母は、ハンカチを目に当てた。

「じゃあ、濱田さんには、利彦は何も言っていないんですね。私たちは百姓

で苦労をしましたから、あの子には苦労させたくなくて、大学を卒業して、

会社に入ってくれることだけが望みだったのに、こんなことになって。どう

したらいいかと考えあぐねて、濱田さんの事務所におじゃましました。あま

り気にせんで下さいね。驚かせましたね、すみませんでした」

犬山の母は帰り際、気の毒そうに、「あの、濱田さん。利彦には、私がこ

こに来たことは、黙っていてくださいね、お願いします。勝手を言ってすみ

ませんね」と、再び、深々と頭を下げた。



 濱田と小柴は、大濠公園のベンチに腰を掛ける。

 濱田の話を聞いてから、小柴は、「なあ、生きることってキツイな」と言

ったっきり、目の前で泳ぐアヒルを見つめた。

そして、「俺たち、一度に二人無くしてしまったなあ」と、また口を開く

と、今度は男泣きに泣いて、ばつが悪そうに、「すまん、笑うな」と言った。

二人は、缶ビールを手にしていたが、ほとんど口はつけなかった。

 その日は、台風の去った翌日で、まだ明るいのに、森の向こうにぼんやり

月が浮かんでいた。

「朧月だな」と、濱田は胸の中で呟く。

 小柴と別れてから、京子の店で、一杯だけ飲もうと思った。繁華街を過ぎ

て小さい路地に入ると、痩せた猫が濱田の足元に擦り寄って来た。妙に侘し

い感情が込み上げてきた。小柴が泣いたのを初めて見たからだろうか。

バー「紫」のドアを開けようとしたら、白い紙が風にあおられひらひらし

ている。ライターの灯りで見ると、小さい字で、「都合のため、閉店します。

皆様ありがとうございました」と記されていた。

 京子の顔が浮かんだ。小柴の「もう、二度と会えないんだろうな」という

言葉が蘇ってきた。濱田は、京子の店の二軒隣のカラオケバーで、バーボン

を三杯立て続けに飲んだ。

 地下鉄に続く地下道を下っていると、暑さと酔いでぐらりとくるような気

分に襲われた。下りきったところで、芋虫のように丸っこくなって体を横た

えたじいさんに突き当たりそうになった。濱田の爪先が当たったのだろうか、

じいさんは、むっくり起き上がって、顔を見据えて、濱田の胸の辺りを指さ

して、カカカと笑った。野武士のような顔だった。

 家に帰ると、俊介がボリュームを最高にして、ラップ音楽を聴いていた。 

「おい、おまえ、将来どうするんだ」

「なんだよ、いきなり。母さんは、風呂だよ。明日は日曜だろう、三人で海

にでも出かけたいね、だってさ…。もうクラゲがいるよ」

「そうか。それよりおまえは、ちゃんと授業を受けているんだろうな?」

「まあね。でも、大学卒業したってちゃんと就職できるとは限らない時代だ

からね。俺、大学院に残ろうかと思ってるよ」

「なんだ、司法試験はどうするんだ?」

「親父の頃のように、六法全書を暗記して紙まで食べる時代とは違うよ」

「どういう意味だ」

「複雑怪奇ってこと」と言いながら、息子は自分の部屋に上がって行った。

「なにが複雑怪奇だ。格好つけやがって…」

横になると、ぐらりと酔いが回った。

短編小説「朧月夜」八

四十九歳で会社に辞表を出し、これからのことも決めないまま辞職をする

なんて、心底、馬鹿のすることだ。世間一般から言えば、おまえは、もはや

無職の中年男という以外の何者でもないのだからというのが本心だろうと、

犬山は思った。

安田がこれからの待遇や条件や会社の実情をくどい説教調で話している間、

犬山は、自分の気持ちに焦点をあわせて突き詰めていくことに、集中した。

 儲けと損失の中で日々をこれまで暮らしてきた俺は今、試されている。こ

れまでの自分が身を置いていた世界は、果たして実体のあるものだったのだ

ろうか? いったい自分はどこに所属していたのだろうか? そういう思い

が込み上げてきた。

「で、いつ東京から引き揚げられますかな? こちらの都合で申し訳ないが、

来月中旬から来ていただくということで、いいですかな」と、安田は貧乏揺

すりをしながら上目遣いに犬山を見た。机にはアメリカとイギリスのミニチ

ュア旗が飾ってあり、壁には「勝利」という言葉の額が掛かっている。

「支社長、私の家は農家なんですよ。証券マンの世界も十分経験しましたし

ね、おふくろも高齢ですから。農業に惹かれていますよ。ほら、今流行のU

ターン組ですよ」と、軽い調子の言葉が口から出た。

 安田はすぐに「冗談がお上手ですな」と言って、高笑いをした。

 つまらない男だった。犬山は丁重に頭を下げて、会社を後にした。その足

で再び東京に戻った。部下の吉田から留守番電話が何度も入っていた。

部下の残留と引き換えに辞職したことは、偽善的と見られそうだが、犬山

には決してそういう気負いも気取りもなかった。

犬山は、役員部長ではなかった。どちらにせよ早かれ遅かれ、支店長の言

うように、十年もしないうちに退職になる。酸いも甘いも噛み分けて、もう

十分に会社と共にしてきた。自分の代わりは、誰でもできるのだ。幸運なこ

とに所帯もない。正直、そこまでして会社にしがみつこうとは思わない。

いまこうして、潮風に当たりながら海を見つめていると、犬山には一連の

ことが、随分と、遠い昔のことのように感じられる。

事実は一つだけだ。もう自分は、五時半に起きて、新聞数紙に目を通す必

要もなければ、メールチェックやミーティングをすることも必要が無いとい

うことだ。「去る者は日々に疎し」まさに、借り物の宿だと思える。

 東京で友人になった田中は、大手銀行を辞めて、田舎に帰り、船頭になった。

 周りの人間は、リストラに引っ掛かったのだろうと同情した。

「俺、船頭でもしようと思うよ。好きなんだよ。ああいうのは、誰にでもで

きないよ。意外に似合うと思わないか?」と、焼鳥屋のカウンターで飲みな

がら、しゃべっていた田中の顔が浮かんだ。田中の気持ちが今になって理解

できる気がする。

犬山は、テトラポットから腰を上げた。まんざら悪い気分ではない。

会社側にしてみれば、リストラは、当然の処置ではないが生き残りのため

には、仕方のないことだろう。単純に、社員を三人減らせば、一億の儲けが

それ以上になるという計算ではない。今まで大型船に乗っていた乗組員が座

礁して、救命ボートに乗って荒波の中を岸に辿り着かなければならない状況

では、乗組員がすべて平等に生き残るという意識にならなければそのボート

も座礁する。大型船に乗っていたときと同じ気持ちでいる人間がいると、戦

力の面で船が重くなる。大型船に戻って、誰か助けに来てくれるのを待つか、

救命ボートに乗って危険を乗り越えて行くか、どちらがいいのかは、神のみ

ぞ知るだ。とにかく、生き残るか、そうでないかという瀬戸際に、ああでも

ない、こうでもないと、右往左往する時間はない。事を起こしていくには、

トップダウンも仕方ない。

 四十、五十は、蓄積した経験もあれば、識別力もある。しかし、会社は、

生き残りを賭けて、一度、白紙にしなければならない時期だ。年を取って、

今までのやり方にしがみ付いていると、船は沈没する。いずれにせよ、誰に

でも潮時は、公平にきっちりとやって来るのだ。



              *

              

犬山からは、一週間経っても電話はなかった。

あいつは、典型的な商社マンの格好をしている。ホテルのロビーにはそう

いう男は数多くいるだろう。それに、ボーッとして煙草を吸うなんてことを

するだろうか? 待ち合わせなら、あいつは読書をしているだろう。それに、

俺のところに電話もよこさないことはないはずだ。やはり、里子の見間違い

かと、濱田は独りごちた。

 盆が過ぎ、八月も終わろうとする午後、事務所に戻ると、事務の女の子が、

「法廷に出かけられてから、先生にお会いしたいと、犬山さんという方がお

見えになりましたが、また後でと言われてお帰りになりました」と言う。

微かな不安を抱いていた気持ちが和んだ。犬山を待ちながら、里子の弁当

を食べていると、事務員がドアを開けた。

「犬山さんがお見えです」

勢いよく出ていくと、待合室には、白髪頭の犬山の母がソファーに腰を掛

けていた。

短編小説「朧月夜」七

「人生の目標って、やはり夢を持ち続けて前に進むことじゃない? ホーム

レスの人は、どこかでそれをほかしてしまったのよね。仕事をやって、どう

にか生きていこうと思えば、それは可能なことでしょう。リストラされた人

も、一時は、自分という人間を全否定されたのと同じ感覚になるのだろうと

思うけど、足かせから心が完全に離れてしまったら、なんだか、あぶないね。

侘しさや人情も、歳を重ねるごとに足かせにもなるわね。猫のタマだって、

歳をとってから、新米のモモに威嚇されているのよ。動物の世界も強いのが

威張っているわ。…ああ、疲れちゃった。私、先に寝るわね。あなたも、た

まには早く休んだら?」

「今日は、うまくいったのか?」

「ええ、上出来」という言葉を残して、里子は軽やかに二階の寝室へ駆け上

がった。

 カサブランカの花の甘い匂いが、まるでインベーダーのように部屋中に充

満し始めた。

濱田は、しばらく天井を見ながら、寝転がっていた。

 この世が戦国時代なら、当然、有能で個人パフォーマンスをできる人間が

勝ち組だ。救世主を選んでこの経済状態を打破するしかない。そういう意味

では、リストラも経営者側からすると、極めてノーマルだ。組織の統合で戦

った時代は終わり、組織は、崩壊する。はじかれた人間は、負け組だ。あく

までもこの世での…。

「男は、陣地取りが好きだからな。とことんやってみて、どうなるかだよ。

失敗したら、落とし前は自分だけでつけるしかないだろう。所詮そういうも

のだよ」

須郷の口癖だった。

       

        *

              

犬山はテトラポッドの上に座って、煙草を吸いながら海を見ていた。

海は凪いでいて、時折、小魚が青く光る背びれを見せながら跳ねては、波

紋を描いている。人生の座標点は、一瞬にして黒点になったが、不思議なこ

とに、何の未練も残っていなかった。

むしろ、体中の毛穴という毛穴からすべて薄汚い汗が流れ出てしまったか

のような、爽快感さえ覚えている。そういう自分を幾度となく確認し、ここ

一ヶ月の間、苦笑しながら、体が自由になっていくのを感じた。これを、人

間らしい生活、そういう言葉で表すことができないのだろうか。

 役付きになる前の三十五歳の頃だった。犬山は、為替ディーリングの部門

に席を置き、大舞台で活躍する醍醐味を味わっていた。商社や輸出入企業の

為替取引を必要とする機関投資家からの注文を受け、市場でのカバー取り引

きと銀行の勘定で自ら陣地を持ち、差益を追求していた。世界政治の動向は、

相場を読むのに欠かせないシナリオで、いざ相場が動き出してしまえば、売

りか買いかは、ディーラーの手の中に任され、一瞬で売り買いが決まる。

七時前に出社をして、七時過ぎには、シドニーやニューヨークの支店と連

絡を取り、情報収集をする。九時には、東京市場が開始され、香港市場やシ

ンガポール市場が開始されると、海外の銀行とも頻繁に連絡を取り合う。

 五時に、市場の中心が東京からロンドンに移り、相場の動きを確認する。 

十時過ぎにマンションに帰る。夜中の二時頃、ニューヨークから相場の動向

の電話が入る。完全にベッドで就寝できるのは、毎日二時過ぎだった。

 世の中の金がどう流れているかを体で掴む仕事は、現場にいて闘争の連続

だった。それでも必死でやって来られたのは、やはり、トッププレイヤーに

なりたかったからだ。

犬山は、それから債権トレーダーになり、その部署の役付きになり、その

後、現場を離れ、資本市場グループの部長になった。

今年の春、常務執行役員から、部下の海外ディリバーの失敗で損失を与え

たことで、部下のリストラ候補のリストを渡された。

 その部下は、新入社員の頃からの直属で、一から教え込んで育てた人材だ

った。彼らは三十代前半で、入社した当時から将来を有望視されていた。

中でも吉田という男は、郷里が同じで、高校の後輩に当たった。

彼は、今年、子供が生まれ、郊外に家を建てたばかりだった。

最終的な決定が下される前に、犬山は、自分の辞職届と引き換えに吉田を

残すように取締役に談判した。 

辞職をしてから、すぐ取引先の常務から電話があった。福岡市にある出先

の支店長代理にどうかとオファーがあって福岡まで出向いたが、気が向かな

かった。体がオブラートで包まれているかのようにしゃっきりしなかった。

「あと十年でしょう。今は大変ですからなあ、部署があるだけでも幸運です

よ。部下もあなたのような上司で救われましたなあ、一生頭が上がらないで

しょうな。しかし、思い切ったことをされましたな。エリートコースを歩ま

れていたんですからな、もったいない。いやあ、普通の人じゃできませんよ。

まさしく立派というしかありませんな」

安田と言う支店長は、余裕のある表情で呟いた。

短編小説「朧月夜」六

「あら、あなた、今日はお休みなの?」と、バスローブを羽織りながら、濱

田の肩をポンと叩いて、里子がクーラーの下に立った。

 時計を見ると、九時半を回っている。自分の事務所といえども、完全な遅

刻だ。あわててクローゼットを開けようとすると、里子が鼻歌を歌いながら

首に手を回して、頬にキスをした。体からシャンプーの甘い香りがふわりと

濱田を包み込んだ。勤務意欲が萎える気がする。まったく極楽トンボの妻を

もったものだ。靴を履こうとすると、「はい、お弁当」と、里子がにっこり笑

った。

 

八月ともなれば、どこのビアガーデンも混んでいる。同業者の友人が、事

務所を出ようとしている時間に、「よう、一杯やろうか」と誘いの電話を掛

けてきたが、生暖かい風に吹かれながらホテルの屋上あたりでビールを飲む

気にはならなかった。早朝から痛かった胃の具合は良くなっていたが、「最

近、調子が悪くてね」と体よく断った。

 京子の店の前で、ちょっと立ち止まったが、それもよしにした。たまには

まっすぐ家に帰り、熱いお湯にでも浸かってから、横になってビデオでも見

るのもいいかと、地下街で、おいしいと評判の餃子と焼きそばを包んでもら

い、電車に乗った。

 風呂から上がって、クーラーの中で涼んでいたら電話が鳴った。もしかし

てと思ったが、「俺、友達の家に泊まってくるから。マージャン」

俊介からの電話である。

「今時の学生もマージャンをするのか?」

「まあね。じゃあ、おふくろにもよろしく」と言って電話は切れた。

 マージャンも本当だろうが、彼女のところにでも泊まるのだろう。

「大学生は、ディズニーランドのようなものだからな」と呟いて苦笑する。

しばしの非生産者階級だから、大いに遊ぶことも一つの時代だろう。

 濱田は、ブリーフケースから手帳を取り出して、犬山の電話番号を探した。

 犬山のマンションには、東京時代、何度も立ち寄ったことがある。部屋は

きちんと整頓されていて、壁一杯に置かれた本棚には文学書が並んでいた。

 何度か電話を掛けてみたが犬山は留守だった。まだ、十時だ。宵の口だろう。

またにしようと思う。

「あら、今日は早いのね。ご飯は食べたの?」

里子がコンサート用のドレスのまま、カサブランカの花を抱えて立ってい

た。濱田は、俊介が借りてきたサスペンスもののビデオを観ていたが、途中

で寝てしまったらしい。

「ああ、そこに餃子とやきそばがあるよ。俊介の分まで買ったんだが、あい

つ、泊まりだとさ」

「あの子は、遊び過ぎね。今日はあなたにニュースがあるのよ。犬山さんに

会ったわ。打ち上げの会場は、西鉄グランドホテルだったのよ。コーヒーラ

ウンジから出てきたら、犬山さんがロビーのソファーに座って、静かに煙草

を吸っていたわ」

「犬山が? それは、人違いだろう」

「そんなことないわ。私、犬山さんには、何度か会ったことがあるのよ」

「それで、挨拶はしたのか?」

「それが、先生たちと花束を分けていたら、もう、ソファーには居なかったの。

]明日にでも電話が掛かってくるんじゃない?」

「それ奇遇だな。ほんのさっき犬山に電話をしたら、留守だったよ」

「それはそうだわね。携帯電話の番号知らないの? …それよりさ、駅にい

るホームレスの数、最近増えたわね。なんだか切なくなっちゃった。ゴミ箱

の中をあさっているの。一歩間違えば、誰だってああいうふうになるのかも

しれないと思うと、ぞっとしちゃった。まるで、世捨て人よね」と里子はカ

サブランカの花の水切りをしながら呟いた。「ねえ、濱田さん、ホームレス

について考えたことがある?」

 里子は、真面目な話をしたい時、あなたという呼び方から濱田さんという

呼び方に変える。

「ああ、彼らは、家族とも社会とも縁を切ったアウトサイダーで、個人その

ものは、完全なインディペンダントだからね」と、濱田は寝転がりながら、

生返事をした。

「あの人たちは、貧乏だからああいう生活をしているのではないのよね。い

くら不況と言ったって、仕事を選ばなければ、何かできるでしょう。社会の

保護の恩恵にも与りたくないのかしら? 要するに、一般的な価値観を基準

にして生活をしていない人たちでしょう? そういうことを拒否して生きよ

うと決めた途端に、仕事をする必要もないと思ったってことかしら?」

「社会で必要とされていないってことは、追っかけて来る人もいないという

ことだ。社会というのは、みんなの足かせが絡まっているところだからね」

「そうよねえ、社会のルールのなかで生きていないということは、足かせは

いらなくなるわよね。ムカデ競走でみんなが同じ方向に走っているのに、そ

んな競走には、参加しませんと意思表示をしてドロップアウトした。だって、

今の世の中は、九十パーセントのことがお金で解決できるでしょう。お金が

何もいらない世界に住むと、十パーセントのことでしか悩まなくてすむわ。

お金という言葉の足かせってことかな」

「金がなくて生活できれば、犯罪も無くなるだろうね。ムカデ競走で一番の

ヤツは、地位を獲得し、いい車に乗って、いい家に住む。ぺんぺん草は、輸

入物の雑草に追いやられて、行き場を無くし、屋根の上に生えるように、自

分の居場所を見つけるのさ」

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