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「あら、あなた、今日はお休みなの?」と、バスローブを羽織りながら、濱
田の肩をポンと叩いて、里子がクーラーの下に立った。
時計を見ると、九時半を回っている。自分の事務所といえども、完全な遅
刻だ。あわててクローゼットを開けようとすると、里子が鼻歌を歌いながら
首に手を回して、頬にキスをした。体からシャンプーの甘い香りがふわりと
濱田を包み込んだ。勤務意欲が萎える気がする。まったく極楽トンボの妻を
もったものだ。靴を履こうとすると、「はい、お弁当」と、里子がにっこり笑
った。
八月ともなれば、どこのビアガーデンも混んでいる。同業者の友人が、事
務所を出ようとしている時間に、「よう、一杯やろうか」と誘いの電話を掛
けてきたが、生暖かい風に吹かれながらホテルの屋上あたりでビールを飲む
気にはならなかった。早朝から痛かった胃の具合は良くなっていたが、「最
近、調子が悪くてね」と体よく断った。
京子の店の前で、ちょっと立ち止まったが、それもよしにした。たまには
まっすぐ家に帰り、熱いお湯にでも浸かってから、横になってビデオでも見
るのもいいかと、地下街で、おいしいと評判の餃子と焼きそばを包んでもら
い、電車に乗った。
風呂から上がって、クーラーの中で涼んでいたら電話が鳴った。もしかし
てと思ったが、「俺、友達の家に泊まってくるから。マージャン」
俊介からの電話である。
「今時の学生もマージャンをするのか?」
「まあね。じゃあ、おふくろにもよろしく」と言って電話は切れた。
マージャンも本当だろうが、彼女のところにでも泊まるのだろう。
「大学生は、ディズニーランドのようなものだからな」と呟いて苦笑する。
しばしの非生産者階級だから、大いに遊ぶことも一つの時代だろう。
濱田は、ブリーフケースから手帳を取り出して、犬山の電話番号を探した。
犬山のマンションには、東京時代、何度も立ち寄ったことがある。部屋は
きちんと整頓されていて、壁一杯に置かれた本棚には文学書が並んでいた。
何度か電話を掛けてみたが犬山は留守だった。まだ、十時だ。宵の口だろう。
またにしようと思う。
「あら、今日は早いのね。ご飯は食べたの?」
里子がコンサート用のドレスのまま、カサブランカの花を抱えて立ってい
た。濱田は、俊介が借りてきたサスペンスもののビデオを観ていたが、途中
で寝てしまったらしい。
「ああ、そこに餃子とやきそばがあるよ。俊介の分まで買ったんだが、あい
つ、泊まりだとさ」
「あの子は、遊び過ぎね。今日はあなたにニュースがあるのよ。犬山さんに
会ったわ。打ち上げの会場は、西鉄グランドホテルだったのよ。コーヒーラ
ウンジから出てきたら、犬山さんがロビーのソファーに座って、静かに煙草
を吸っていたわ」
「犬山が? それは、人違いだろう」
「そんなことないわ。私、犬山さんには、何度か会ったことがあるのよ」
「それで、挨拶はしたのか?」
「それが、先生たちと花束を分けていたら、もう、ソファーには居なかったの。
]明日にでも電話が掛かってくるんじゃない?」
「それ奇遇だな。ほんのさっき犬山に電話をしたら、留守だったよ」
「それはそうだわね。携帯電話の番号知らないの? …それよりさ、駅にい
るホームレスの数、最近増えたわね。なんだか切なくなっちゃった。ゴミ箱
の中をあさっているの。一歩間違えば、誰だってああいうふうになるのかも
しれないと思うと、ぞっとしちゃった。まるで、世捨て人よね」と里子はカ
サブランカの花の水切りをしながら呟いた。「ねえ、濱田さん、ホームレス
について考えたことがある?」
里子は、真面目な話をしたい時、あなたという呼び方から濱田さんという
呼び方に変える。
「ああ、彼らは、家族とも社会とも縁を切ったアウトサイダーで、個人その
ものは、完全なインディペンダントだからね」と、濱田は寝転がりながら、
生返事をした。
「あの人たちは、貧乏だからああいう生活をしているのではないのよね。い
くら不況と言ったって、仕事を選ばなければ、何かできるでしょう。社会の
保護の恩恵にも与りたくないのかしら? 要するに、一般的な価値観を基準
にして生活をしていない人たちでしょう? そういうことを拒否して生きよ
うと決めた途端に、仕事をする必要もないと思ったってことかしら?」
「社会で必要とされていないってことは、追っかけて来る人もいないという
ことだ。社会というのは、みんなの足かせが絡まっているところだからね」
「そうよねえ、社会のルールのなかで生きていないということは、足かせは
いらなくなるわよね。ムカデ競走でみんなが同じ方向に走っているのに、そ
んな競走には、参加しませんと意思表示をしてドロップアウトした。だって、
今の世の中は、九十パーセントのことがお金で解決できるでしょう。お金が
何もいらない世界に住むと、十パーセントのことでしか悩まなくてすむわ。
お金という言葉の足かせってことかな」
「金がなくて生活できれば、犯罪も無くなるだろうね。ムカデ競走で一番の
ヤツは、地位を獲得し、いい車に乗って、いい家に住む。ぺんぺん草は、輸
入物の雑草に追いやられて、行き場を無くし、屋根の上に生えるように、自
分の居場所を見つけるのさ」
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