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こんにちは、ゲストさん
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「そうだったの」と、私は答える。 この現象はほんの夢だと思えば、それでいいことだ。 …そんな気もする。観念することだ。 今年の夏、旅好きの早苗に誘われて、チベットを旅行し た。早苗はいたって元気なのに、私は高山病にかかり、ホ テルでチューブを鼻に突っ込んで吸ったり、嘔吐したり、 頭痛と目眩と呼吸困難で意識が朦朧となり大変な目にあっ たが、病院まで運ばれ点滴や酸素吸入してもらったことや、 金魚のように口をぱくぱくさせたことも、恐怖で眠れなか った夜でさえ、今となったら夢だったのかもしれないと思 えるのだから。現実が遠のくのが早いのは、私の得意とす るところだ。 チベットに行く三ヶ月前、右足首を蛇に咬まれた。医者 がマムシだと納得したのはずっと後のことだったが、私は、 咬まれた瞬間にそう思った。 真夜中だった。脱出常習犯の室内犬、リリーが玄関から 出て行こうとしたので、追いかけて道路に出たところでや られた。体温を察知して飛びかかって来たのだろう。歯型 だけが残っていた。足はたちまちはれ上がり、脈打つよう に痛みが襲う。あいにく家には誰もおらず、自分で車を運 転して救急病院に行くと、 「これ、マムシじゃないよ。住宅地でしょ?」 と野暮医者が言う。 「ええ、でも、間抜けにも舗装してある家の前の道路でマ ムシから咬まれたんです」 「あのね、マムシはこの辺にはいないよ」 「じゃあ、なんですか?」 「ちょっとした虫でしょう。念のため点滴をしておきまし ょう」 その日は、そのまま家に帰り、翌日も病院で点滴をして、 仕事に行った。足が二倍に腫れているので、ヒールなど履 けない。草履でも無理だ。夜になって、いつものように仕 事を終え、車に乗って路上に出ると、一台のはずの対向車 が何台も来ている。 瞬間、蛇はこんな風に物が見えるのかなあと思う。 てかりがある見え方で、平衡感覚がない。 私は、救急車でまた病院に舞い戻り、三週間の入院とな った。 入院して一週間は、目がやられて、肝機能が低下した。 ほとんど見えないというほうが正しかった。狭い範囲でし か見えない。目が少しずつ回快復してからも、以前と平衡 感覚が戻らず、まっすぐ歩くことができなかった。 「あぶないとこでしたねえ」と看護婦が言う。 母から聞いたのだが、この体験は初めてではないそうだ。 幼稚園の頃、父と山歩きをしていてマムシに咬まれたそう だ。 「その頃は、血清を打ってもらったけどねえ」と母が言っ た。 蛇に二度も咬まれるなんて、なんてことだと思う。 毒蛇といい、今夜の女といい…。 私の身に忌忌しきことがおきつつある? 女に出会って数分も経っていないのに、また先のことが 読めるような気になっている。 前方を歩く、女の着物の柄の白い部分がうす青く光って いる。 車は壊れていないとあの女は言った。 「すべては、女の仕業にちがいない」 ルイという女は、私を車のところで待っているだろう。 こうなると、どんなことをしてもこの訳を聞かかねばな らない。 私が車まで行くと、女はしゃがんで花を摘んでいる。髪 飾りがきらり光る。束髪のひさしを張り出し、高く結ぶス タイルで髪を結っっている。 「姉さん、この花知っているでしょう?」 「知らない」 「あら、姉さんの好きだった花よ。シマカンギク」 「そう」 「悲しいけど、覚えていないからいいのよね…」 女は、そう言いながら私に黄色の花を手渡した。 車のドアを開けてキーを回すと、なにごともなかったよ うにエンジンは掛かった。 ラジオから先ほどと同じ出演者の声がする。 女は、助手席に静かに座った。 「今日が最後だから」 低い声で呟く。 女は、私に道を指示しなかった。精神感応で伝達してい るかのようだった。 私は、山に向かって静かに車を出した。 車の中に、月明かりが射し、甘い匂いが漂う。懐かしい ような気がする。 「私は、いつの時代が前世だったの?」 「明治五年生まれ。誕生日は三月。東京に暮らしていた」 「私はなにをしていたのかしら?」 「それは知らないほうがいいと思う」 女は、静かに答えた。 「じゃあ、私はいつ死去したのかしら?」 「明治二十九年の十一月」 今度は、すらりと答えた。 「生まれは、五年。ということは、私は二十四歳で死んだ ということね」 「ええ。私が最後まで姉さんの手を握っていた」 女の声が現実を帯びている。 「病気だったのね?」 「姉さんは、肺結核に冒された」 「私は、幸せな生活をしていたのかしら?」 「私は姉さんじゃないからわからない…。姉さんは、失恋 と生活難に苦しんではいた。だけど、精一杯生きたと思う。 姉さんは、栄光の絶頂にあったときに逝った」 「わけがわからないわ。生活に苦しんでいて栄光の絶頂?」 「私は、姉さんに一度だけ会いたかった」 女はそう言って、私の手を両手でしっかりと握った。 車は、止まっていた。 目の前は、深い森が広がっている。森の先には家はなさ そうだ。やはりこの女は狸か狐なのだろうと思った 瞬間、睡魔が私を襲う。 気が付いたときは、私は自分のベッドで寝ていた。そっ と足を動かすと、愛犬リリーがいつものように足元で寝そ べっている。 慌ててベランダから駐車場を覗いた。 車は所定の場所にちゃんとある。 「なんだ、夢か」と嬉しくなる。 ぐっすり寝たのだろう。体の疲れが取れている。 秋晴れのすがすがしい朝だ。 今日の午前中は、月一度の短歌の会の日だ。石松先生に 夢の話でもしようと思った。 新聞を読み、軽く朝食を済ませてからリビングの掃除だ けをして、車に乗り込んだ。 サイドブレーキを下ろす時に、やわらかいものに触れた。 「あっ」 そうでないことを祈る。 私は左下を見ないで運転する。 車を降りる際にもそれを見ないようにして、バッグだけ を手探りで引っ張った。 ドアを開けたところに、タイミングよく石松先生が笑っ て立っていた。 「千夏君、山にでも行ったんですか。野生のシマカンギク ですね」 先生の声を聞いた途端、私は足の力が萎えて、へなへな となって、先生にしがみついた。 「あれ、千夏君も人に抱きつくことがあるんですね」 私はかまわず、「先生、水を下さい」とかすれた声を出 した。 先生の家の上がり口で水を一気に飲み干し、 「先生、山の蕎麦屋の話、本当ですか?」 「あれれ、千夏君は意外に純真なんですね。僕のつくりご とです。僕のひそかな妄想のようなものです。いけなかっ たですか?」 私は、上がり口でしばらくじっと座っていた。 「今日は、短歌の会は失礼します」と言いながら、ものに 憑かれたように、その足で私は図書館への道を車を走らせ ていた。 私は、ひっそりした図書館の机の上で突っ伏して泣いて いた。 本名なつ・奈津、夏子ともいう。明治五年三月生まれ。 六人兄妹の次女として東京に生まれ。肺結核に冒され、妹 にみとられて二十四歳で死去。 ひとしきり泣いた。 体をひきずるようにして、家に着く。 夫が出張から戻り、キッチンで肉を焼いている。 「神戸牛は、焼け方から違うね、千夏も食べるだろ? 今 回は、田辺のおじさんがわざわざホテルまで届けてくれた よ。スペシャルだと思うぞ〜」 私は、夫の背後にぴたりよりそった。 「おいおい、なんだよ、」と夫はおどけながら、「あっそ うだ、書類を届けてくれたぞ、キッチンテーブルの上に あるよ。僕が今までに見たことない女性だったなあ…、 出版社に勤めているようでもなかったしなあ…」 私は、テーブルに目を移した。変哲もない茶封筒だ。 私は、その茶封筒をそっと開けた。 中には、一枚のセピア色の写真と、昨夜、妹がしていた 髪飾りだった。 紙切れには≪一夜の夢、誄より≫と記されていた。 私は、妙に神妙な気持ちになった。 夫がステーキをベランダのテーブルに運びながら、「あ のさ、彼女は、着物を着たきれいな女性で、ちょっとそ そられるような美女でさ、」と、おどけて言いかけた時、 人差し指で夫の口を塞いだ。 夫は、「やきもちやくなら、彼女ともう一度会ってから にしてくれよ」と、上機嫌でナイフで肉に切れ目を入れた。 ジューシーな肉からじゅわっと肉汁が出た。 私は切ない気分になる。 その夜は、満天の星。 二人でワインをしこたま飲んだ。テーブルのローソクが ありがたかった。際限なく泣ける気分だった。 本当に切なかった。 セピア色の写真は、たぶん私と誄だ。 誄の顔はすぐわかったが、私の顔は今と違う。だけど見 たことある顔だった。 そんなはずはない。本当にそんなはずはないはずだが、 写真はそれを告げていた。 でも、もうずっとずっと過去のことなのだ。体は借り物 かもしれないけど、私はナツのような人間ではない。魂は、 すべてを忘れるというけれど、そうでなければ生きてはい けない。誄は私に何を言いたかったのかは、一緒にいた時 には、以心伝心で理解できた。だけど、今となったら、も う一度、誄に会って話をしたい。切にそう思う。 私はベランダの手すりにワイングラスを置いて、大きく 深呼吸をした。 私は、テーブルの上の茶封筒から髪飾りを出して、手で さすった。べっ甲のカンザシだった。 誄の「姉さん」という声が心の中で渦巻く。 写真の私は、右手に風呂敷を抱えていて、なんだか生意 気な感じだった。 誄という女が私の妹だったということを、私は信じた。
終
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