笠原瑠璃子の真骨頂なつぶやきダイアリー

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瑠璃子(小説連載)

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短編小説「月あかりの下で」   
              
                1

 車を駐車場に置き、両手に荷物を下げて玄関の鍵を開けると、テレビの音がやかましいくらいに鳴り響いていて、体の力がふっと抜け、ここで最初に疲れがでる。
 そして、いつものように、あーあと思う。
 友人と携帯電話で話しながら、鍵を開けることもあるが、それでも次のステップを考えると焦燥に駆られる。たいてい、荷物を一旦上がり口に置いて、「じゃあ、次の仕事があるからさあ」と言いながら、今度は、「はあ、は」と、深いため息をつきながら、電話を切る。電話の相手は、高校からの友人、みどりである。格好いいところを見せたり、気を遣う相手ではない。仕事が終わって家にたどり着くのは、十時近くも回っているので、彼女は、リラックスモードで、たいていベッドに横たわりながら綾子のしょうもない不毛の話に付き合っているが、彼女もため息の数は綾子とそう変わりない。
 空腹はすでにピークを過ぎ、なんともつかぬものになっていて、一人身なら、ここで何もせずにベッドに直行したいがといったところだ。 
 夫より早く帰宅し、と言っても数分違いの滑り込みセーフもあるのだが、そうすることによって、一日のバランスをかろうじて果たしている気もしている。
 マーケットで買ってきた食品を冷蔵庫に詰め、食事の用意に取り掛かる。そこには一服の猶予もない。
 大げさだ。しかし、鏡を見るなら何とかバトルのような形相をしているのではないかと思うと情けないが、気の抜けない時間なのだ。
 昼間買い物に行けないときは、たいてい夜十二時まで開いているマーケットに寄る。
夜食に近い夕食の献立を頭でイメージしながら、買い物かごに材料を放り込む。品質保持期間をちらりとは見るが、あまり吟味しない癖がついている。一日の流れが場面、場面でつながっていて、時間の流れがあまりない。
 ロボットに任せたい仕事って、やはりある。心を遣わないで仕事をするのなら、性能がいい限り、ロボットの方ほうが確実なこともある。人間は、心を遣ってなんぼのものだ。
 キッチンシンクには、皿が数枚浸かっていて、まな板には野菜を切った後があり、レンジには醤油がこぼれていたりする。ひょっとして、帰宅してから寝るまでのこの時間が、一日の中で一番瞬発力が試されるときではないかと思うと、苦い笑いさえ浮かんでくる。
 そうこうしているうちに、どこからか飼い猫の三匹が姿を現し、「腹がすいた」と足元にからまり、ケイジに入れられている室内犬が「出せ」と騒ぐ。犬だけではなく、猫も飼い主のエンジン音を覚えるらしい。彼らは、いつもジャンクフードなので、手は取らない。
台所に続くベランダには、斜めに月あかりが差し込んでいた。
 綾子は、魚の切り身を下ごしらえして、サラダと吸い物を手早くつくってから、母の部屋を覗きにいく。案の定、電気を赤あかと点けて、ベッドで眠りこけていた。
テレビにでているタレントが「あなたたちはいいわよね」と思うほど大口を開けて、キャッキャと甲高い声で笑っているので、テレビのコントローラーを探す前に、指だけでスイッチを切る真似をした。どうして、最近のテレビはこうウルサイ番組だらけなのか不思議で仕方がない。高尚な趣味などないが、画面の向こうにさえ耐えきれないことがある。しかし、それは瞬間的なただの感情なので、批判には及ばない。テレビを見るのは、寝る前の数分しかない。疲れているときは、テレビは雑音にしか聞こえないので、静寂には程遠い。連続番組を楽しみにしていたのはいつの頃だったろう。
 母は、またどこかにコントローラーを置いているようだ。探すのが面倒なので、元から絶った。
「お母さん、食事したの?」
「ううん、まだ。そんなにひもじくなかったからね」
「今から食べるんでしょう?」
「うん、なんでもいいよ」
「お母さん、こんなに遅いと体によくないから、またデイケアーセンターからのお弁当サービスを夕食だけまた頼もうか?」
「だけど、あそこもねえ・・・、はっきり言っておいしくないもんね。同じようなものばっかりで、飽きてくるんだよ」
「そう? けっこうおいしかったじゃない?」
最近、立場が逆転している。母が綾子に甘えるようになっている。それはそうだ。仕方がない。母は、今年八十六になるし、その子供は、四十の半ばになろうとしている。働き盛りだ。正確にいうと、働かねばやっていけないというのが本音だけど。
「ゆっくり起きてきてね、私は、食事を用意するから」そう言いながら、綾子は、トイレのチェックへ行く。母は、八十五を過ぎてから、失禁をするようになったのか、時どき大変なことをやらかしていることがある。汚いといえばそれまでだ。しかし、そういう事態は、自分をも含めてみんなの成れの果てだ。文句を言っても仕方がない。一日に何度か心がけて拭けばいいことだ。
 親戚のものは、「綾ちゃんも、一人兄弟がいたらよかったのにねえ・・・」と言うが、そうだったとしても、母は結局、娘のところに来たであろうと思う。
 母は、寝たきりではない。それどころか、通常の人と全く変わりない。耳も目も足も衰えているが、記憶力に関しては、綾子とそう変わらない。
最近になってからは、共有できる大事件がないということもあるし、例え、相談したい気持ちになっても、母の背中の曲がり具合を目にすると、綾子のほうに相談する気力が萎えてくる。しかし、母は、相談相手には最適だ。いや、最適だというより、最高だ。なにはともあれ、相談したときの綾子に対する、母の歯に衣を着せぬストレートの言葉が、たとえ、胸にぐさりと突き刺さるようなものでも、事実に向き合う気構えと姿勢を呼び覚ましてくれる。
「あんた、そんなこんな言っていても、死ぬわけにはいかないし、やってみるしかないでしょう。駄目なら駄目で、そんときまた考えたらいいじゃない。私なんか、何度も死にたいと思ったことあったけど、最後まで生きることが任務だろうと思って、自分に言い聞かせてきたからね。どうにかなるよ。誰だって、どうにかなっていっているじゃないの、そのうちいいこともあろうからね。どっかで、仏さまが救ってくださるよ」
弱気なのは、いつも綾子のほうだ。
 そういう、遠くに明かりを探すような母の強さは、今も変わらない。が、当然、現役から退いた母の視野は、狭くなった。
「自分の体を引きずって、やっとかっと生活するのも大変だねえ」
難儀そうに呟いているのだが、言葉にはピリリと効かせた母の独特な言い回し方がある。昔からそうだが、そういう言葉を娘に吐いて、傷つけるのではないかという気遣いは、あまりないようだ。
「母と同居しているのよ・・」と、仕事仲間に言うと、「あら、羨ましい。助かるわね。家事をしなくていいじゃない」と言う。とんでもない誤解だ。
 母という呼び方から、だいたい六十代か七十の初めだと思うらしい。
 最近の母は、家のことは何もしない。
 それどころか、留守中に転ぶんじゃないだろうかとか、具合はどうだろうかと心配する。女親が若いともうすこし気楽だったかもしれない。
 仕事仲間の四十三歳で独身の友人の亜希子は、快適に仕事をしている。ぎりぎりに起きて、母親の用意した朝食を食べ、お弁当を持って出勤する。仕事から帰ると、溜めてあるお風呂にゆっくり入り、これまた用意された夕食をビールを飲みながら食べて、テレビを見て、燦燦と輝く太陽に干されたふかふかの布団に包まって寝る。
「ああ、この生活からは逃れられないわね。もう結婚なんてできない。大変だったもん。再婚はナシにするわ。適当に相談相手がいればそれでよし」と、涼しい顔をしている。そりゃあそうだ。
働く女は、寂しさよりも快適な仕事ができる環境は捨てがたい。
それでも、結婚したいと思う人もいるが、なんだかんだと言っても、いまだに女の負担は大きい。
「それでいて、生活費を折半で出すなんて、正気の沙汰ではないよ。家事はあなたがするんでしょう?プラスアルファーの腹立ちだよね。それって、結婚のうまみがないじゃない。そんな夫はごめんなさいだわあ。こき使われた上に、メリットがない。ただの同居人って感じ・・・?」
 もっともだ。
 そのことを母に冗談で言うと、
「それ、正しいよね。あんたは、糞つかみだもん」と、さらりと言う。
「糞?」
「そうよ」
「そういうことね、そうかもしれない」と言うと、母は、さすがに苦笑いをした。
 

短編小説「風の音」3

 はっきり言って、庄野さんの言うボルビリスは、二の次

だ。行ったところで、何も解決しない。そういう考えでい

けば、風の道も同だが…。いや、風の道は違う次元のもの

だ。

 一度も行ったことのない風の道が、夢とぴったり重なれ

ば、それなりに納得するものになるだろう。納得? 自照

するが、それはなんの役にも立たない。

でも、そうだったとして、だからどうするのだ? 

 ハッサンセカンド空港の出口に並んでいるタクシーに乗

り込み、私は、深く深呼吸をした。

 車は、メクネスに向けて走り出した。

体のどこかが、はじけるような開放感を味わっている。

 この地のどこかで、あたかも誰かが私を待っているかの

ような感覚が体にかけめぐった。

懐かしいという言葉を使っていいのだろうか。 

体がぐらりとする。

タクシーの運転手が、私を振り返り「メクネス?」と言

って、困った顔をした。

「オテル ドゥ トランザトランティック」「ウィ マド

モアゼル」と、ほっとした表情で前を向く。

庄野さんがメクネスのホテルを予約してくれていた。五

時間はかかるはずだ。

私は、気を静めるために軽く目を閉じた。

 ホテルに着いたときは、とっぷりと日が暮れていて、私

は遅めの夕食を取ってベッドに横になった。ミントティの

甘ったるい味がいつまでも口に残っている。ホテルに庄野

さんから「無事に着きましたか?」とファックスが届いて

いた。

 翌朝、七時に目が覚めた。カーテンを開けると、ブーゲ

ンビリアが生い茂った庭園の向こうにメディナが広がって

いた。風の道のある方向だ。大きな太陽が昇っている。

「日本からは日の沈む国、最果てだ。ま、私には異国なの

よね」と自分に言い聞かせ、景気付けに、グラスワインで

も、と言いたいところだ。

 勿体をつけて、私は十時にホテルを出た。

風の道だけを目に入れたい。私はタクシーの中ではでき

るだけ目を瞑っていた。

風の道は通称だ。「ムーレイ イスマル」と言うと、分

かってくれたようだ。

 ムーレイ イスマル廟を出て、左に行くと風の門があっ

て…、とぶつぶつ言いながら下向き加減に歩いた。

 質素で大きい門…。どうやらこれだ。

 一呼吸入れる。あとは直線。

 私は、一、二、三と数えて目を見開いた。

 ああ。

「私はこの風景を見るためだけにここにいる」

そう思った。笑いたくなるような、泣きたくなるような不

思議な感覚。もう少し佇めば、風が吹くだろう。そして、

私は倒れそうになり、壁に寄りかかる。

 その後。聞こえてくるだろうか。

「風の道でまた会おう」

 そして、それから私に何が起きるのだろうか? 

そう思ったとき私の耳元にゴオーっと音がして風が吹い

た。

 私は、風に吹かれながら歩く。怖くはないと呟く。する

と、五十メートルくらいのところで、風はピタリと止んだ。

耳を澄ます。

「風の道でまた会おう、でしょ?」私は心の中で念じた。

が、何も聞こえなかった。風は凪いで、やわらかな場所

になっている。気が抜けた。やはり、それから先は見るこ

とができない。あとは、ボルビリスか…。

 庄野さんは、私の旅行の目的は遺跡だと思っている。行

かないわけにはいかないじゃない。入り口で、おじさんに

十五ディルハム払う。あってもなくてもいいような入り口

だ。
 カラカラ帝の凱旋門がずっと向こうに見える。庄野さん

が話したように四十ヘクタールもある巨大な遺跡だ。ロー

マ帝国の見果てぬ夢。観光客は誰一人居ない。独り占めだ。

私は、ゆっくり歩いた。そよ風が頬を撫でる。床のモザイ

クは、見事な保存状態だ。

中間あたりにペニスだけの石の彫り物があって、笑った。

一回りしてから、私は中間あたりの円形の石に腰をかけて、

かなり長い間、空を仰いでいた。青一色だ。風はどこでも

同じ匂いがする。居心地がよくて力がみなぎってくる。カ

メラは携帯する気分にならなかったが、MDプレイヤーは

バッグに入れている。

ラテンジャズを聴いた。遺跡にジャズか…。

意外に合う。いや、とても合うかも。私は、なんだか急

に笑いたくなって、一頻り笑った。

 メクネスは、ワインの名産地らしい。庄野さんが、ゲル

ワンというヤツがいけるよと言っていた。「頭の疲れには

ワイン」それっきゃない。

「ボリビリス? 美しいところでしたわ」と、庄野さんに

それだけ言ってやろう。

私は立ち上がった。

 翌日、私は、昼食にゲルワンを一本空けた。

それからメディナの中に連なる店をいい気分で回った。

子供たちが「ホンダ、スズキ、トヨタ」と私に挨拶する。

ほろ酔いぎみの私は、にこりとして、愛想を振りまいた。

引き返そうとしたら、ファテマの手のノッカーがぶら下

がっている古本屋があった。ドアはない。

丸い椅子に腰掛けたジュラバを着たおじいさんが、静

かな笑みを湛えながら私に手招きをしている。引き込ま

れるように入ると、おじいさんは、私から少しも目を外

さず、「ははは」と笑った。そして、ゆっくりとジュラバ

から手を入れて、その下に身につけているズボンのポケ

ットから煙草を取り出し、火をつけた。

 私は、その煙がフーッと口から吐き出されるのをじっ

と見つめていた。それから、おじいさんは、テーブルに

置いてあるティーの入ったコップを私に差し出した。

ミントの涼しい匂いがする。書棚の隅から痩せた子猫

がピョンと机に飛び乗った。それを左手で抱き上げながら、

おじいさんは、短くなった煙草を深く吸った。

 太陽の光が斜めに入ってきて、所狭しに積んである書籍

を金色に染めている。おじいさんは、そっと立ち上がり机

の傍から一冊の本を選んで、その手を私のほうへ伸ばした。

「あっ」目を凝らした。おじいさんの右手には、刺青なの

か、矢尻のマークのようなものがある。

おじいさんは、本を開けるように私を促した。壺やライ

オンや…。幾何学模様のデザイン集だと思ったが、そうで

はなかった。

どのデザインにも手が描いてあって、模様の位置が示し

てある。心臓の鼓動が速くなる。

体が熱い。

「おじいさんに私のことが分かるのだろうか。心が透けて

見えるのか」

おじいさんは、ぱらぱらとその本をめくった。

「ああ」と、私は心の底から祈った。

「そうではないように」

だが、おじいさんの手はぴたりと止まった。

 

モロッコ滞在五日目の発つ前の晩は、いつになくロマン

ティックな夜だった。

おじいさんから手渡された本が私の枕元にある。心は静

かだった。ホテルの外から最後の祈り、アザーンの呼びか

けが聞こえていた。

その夜、私は夢を見た。いつもの夢だったが、風の道を

私は最後まで歩いて行った。

そして、私は結末を見た。朝になって、私の枕が濡れて

いた。その結末は庄野さんが飛びついて喜びそうな話だ。

たぶん、庄野さんは、十分に頷きながら満ち足りた顔をす

ると思う。

 でも、私は庄野さんにもその他の誰にもすべては語らな

いだろうと思う。ただし、よく出来た嘘だと思われるなら

話してもいいかもしれない。

短編小説「風の音」2

全長二千三百五十九メートルの城壁で取り囲まれていて、

城壁には八つの門と四十以上の塔があり、カラカラ帝の凱

旋門、神殿、公共広場、浴場、邸宅が修復されているが、

床や壁に残るモザイクは、当時の状態のままに保存されて

いるそうだ。

庄野さんは、指示棒で指しながら説明した。

発掘されたモザイク、大理石柱、ブロンズ像、硬貨のう

ち重要なものは、ラバトにある考古学博物館に収められて

いるそうだ。

私は、実際「だから?」と、内心思っていた。

「さあ、下村さん、コーヒーでも飲みましょう」と、庄野

さんは満足そうに言って、暗幕を開けた。

 私は、おばさんが運んでくれたコーヒーを飲み干してか

ら、

「では、五時に約束がありますので、これで失礼します」

と、立ち上がった。すると庄野さんは、

「下村さん、恐れているんですか」と言う。

「え? 何をですか」

「謎が解けるのをです」

庄野さんは、コーヒー碗をテーブルに静かに置いて、す

っと立ち上がった。そして「もう一枚スライドを見るだけで

す」と私の顔を覗いた。

 その日以来、本当のところ私はそのことばかり考えている。

最後のスライドは、図書館で、見ず知らずの私に声をかけて

研究所に導き、庄野さんが見せようとした一枚だった。

「でも、不思議です。なにかの偶然としか思えません」

「僕も不思議だと思いますが、偶然というのはないのかもし

れませんねえ」

「でも…、だからといって」

「そうですよね、困りますよねえ」

 そう言って、庄野さんは白髪まじりの長髪を掻き上げた。

 庄野さんに出会ってから一週間が経つ。

 私は、以前となにも変らない生活をしているが、家の中で

は、立ってうろうろすることが多くなった。時には、調理

場で立ちながらご飯を食べる。新聞も立ちながら読んで、

切り抜きをしてスクラップブックに挟む(そうしたからと

いって読み返したためしはないが)

鍵を開けたら、他人の家でもすぐロックをしてしまう。

先ほどまで使用していたはさみやホッチキスが消えて、探

しまくっていると、いつの間にか元の位置に収めていたり、

ひどいときには貧乏揺すりをしている(他人がすると一番

嫌いな動作だ)すべては無意識の出来事だ。

今日も「摩夜、ちょっとお、聞いてるの?」と友人の梨

香に肩を叩かれ「なによ、ぼんやりして、貧乏揺すりなん

かしちゃって…」と言われて、我に返った。

 私は、焼き鳥屋のカウンターに座り、ビールを飲んでい

たのだ。「そうだ、コンパか」梨香が家まで迎えに来てくれ

たんだっけ…。

私は、いつの間にか「風の道」のことを考えていた。そ

のことを考えると、私はどこか遠くに行ってしまうようだ。

私は、梨香に気付かれないように、そっと親指と人差し

指の間を開いてみた。

 庄野さんは、最後のスライドを映したとき「これは、僕

が発掘したんですよ」と言った。

そして、庄野さんは遠慮せず、私の左手をそっと自分の

方へ引き寄せ、模様を確かめた。

 最後の一枚で、私は観念したような気分になっていたが、

いよいよいい気はしなかった。

 スライドは、左手の親指と人差し指の間に弓矢のような、

剣のような、盃のようなものが上中下と並んでいる。

 手は皮膚の加減でどうともとれるのに、庄野さんは「間

違いない」という顔をした。

「カラカラ族は、二世紀でしょう? 今の私と、どう関係

あるのか庄野さんは説明することができるんですか?」と、

挑んだ。

 庄野さんの性格がストレートだから、私も遠慮はしない

ほうがいい。

庄野さんは、「族」ではありません。カラカラ帝ですと

言い直して、「下村さんは、今の私と言われましたね。そ

れが答えではないでしょうか?」と、したり顔をした。

よくよく考えてみれば、「本当に馬鹿げたことだ」世の

中には、五万と偶然の一致はある。「気にしない、気にし

ない」と思う。

 しかし、私には、庄野さんのことよりも、もっと気にな

ることがあった。

 もっとも、それについては、庄野さんに出会うまで、ま

ったく気にしていなかった。

 庄野さんの考古学研究所に行った翌日、私は本屋に行っ

て、モロッコに関するありたけの本を仕入れた。

 ボルビリスの遺跡はメクネスにあり、カラカラ帝の凱旋

門が青い空に大写しになっている。

「今は昔、巨大な遺跡にローマ帝国の見果てぬ夢がしのば

れる」というキャッチだ。次のページには、遺跡の地図が

詳しく掲載されている。

 私は、日曜日の昼下がり、机に足を乗せてポテトチップ

をかじりながら、メクネス全域の地図を眺めていた。

 ムーレイ・イスマル廟は、壮大な王都建設を夢見ながら、

完成を見ずに死を迎えたムーレイ・イスマルの墓があり、

壁から天井にかけて施されているタイルのモザイクとしっ

くい彫刻の素晴らしさは、イスラム芸術の最高傑作だそう

だ。ムーレイ・イスマル廟の東にあるアル・リー門をくぐ

ると、両側を高い壁に囲まれた道が続く。その道の西側に

王宮があり、その道は、通称「風の道」と呼ばれていて、

名のとおり、壁に挟まれた間を、強い風が吹き抜けていく

…。

 私は、思わず飛び上がった。足を机から下ろした拍子に、

ポテトチップの袋までが一緒に落ちて、床に散らばった。

 なんという偶然だろう。

「下村さん、偶然というのはどうでしょうねえ」庄野さん

のしたり顔が目に浮かぶ。

 私は、長い間探していた風の道がモロッコのメクネスに

あることを初めて知った。

探していたわけではない。よく見る夢ではあったが、あ

れは、私にとって単なる夢に過ぎなかったのだから。

 その夜、私は熱にうなされた。

 夕食を食べてから、熱が出始め、バッファリンを飲み、

アイスノンを枕にして横になった。

私は、うつらうつらしながら夢を見ていた。

「風の道でまた会おう」

何度となく見た夢だった。

黄色に近い赤みがかった壁のある長い道。

私は、白いフードの付いた裾まである服を着ている。誰

かに会いに行くのだろう…。心が急いている。

  私? 私なのだろうか。それは、よく分からない。

強い逆風が吹いて、私は必死で前に進もうとするが風

に負かされて、壁にしがみつく。

ゴオーという音がして、その後ぴたりと風が止み、静寂

が戻るとすぐ「風の道で待っている。風の道でまた会おう」

と聞こえる。

そこで、いつも息苦しくなって目が覚める。

その続きを見たいと無意識に思うのだが、夢はいつもそ

こまでだった。私は真夜中に飛び起き、本をめくった。

風の道の写真がどれかに載っているはずだ。私は、なぜ

だか手が震えていて、ページを上手く開くことができない。

すべてが夢の中のことのようにも思えてくる。そして、私

は小さい写真を見つけた。

「王宮への続く風の道」

電話がしつこく鳴っている。

掃除機をかけていても電話が鳴ると、掃除機を放り投げ、

電話機をめがけて走っていた。今は、電話が鳴っても、間

に合わなければそれでいいか…、と思ってしまう。

「最近、摩夜ちょっと変よ。夢中遊行症みたいね、ホント、

大丈夫?」と梨香が私を見て心配そうに笑った。昨夜から

梨香が泊まっていたのだ。私は、朝になってすっかりその

ことを忘れていた。

「電話だよ。私が出る?」と梨香が言う。

「ああ、ごめんごめん」私は、へらへらとつくり笑いをし

ながら、受話器を握った。

 電話は、庄野さんからだった。

「あれから、どうしているかと思って、電話をしました」

と言う。元気な声だ。

「心配して下さっているんですか?」と嫌味加減に言った

後、自分の無礼さを思った。

 あの日のことは、思い出しても妙な感じだ。実は、庄野

さんのことをインチキなじいさんだと思っていた。思いつ

きで、ヤフーで庄野さんの名前を入れて検索したら、著名

な考古学者だった。権威を信用するわけではないが、考古

学の分野は、まったく分からない。

「あのお、私、行ってみようと思うんです」

ついと口から出た。

「やっぱりそうですか。そうなると思っていましたよ」と

庄野さんは、驚きもしなかった。

「いつですか?」

「いや、あの…、まだなにも決めていないんですけど」

「そうですか。行く前に私に連絡を下さい。いいガイドを

紹介してあげますから」と、さも当たり前のように言って、

電話は切れた。

 滑稽だが、庄野さんの電話の後、私はすっかりその気に

なっていた。その証拠に、私は、その足で旅行会社に出向

いた。そのためにすっかり貯金を叩くことになるけれど、

そういうことはどうでもよかった。

庄野さんは、私が見る夢の話は知らない。

 庄野さんの電話から二週間後、私はモロッコの土を踏ん

でいた。

「いまも月の時間を生きているミステリアスな異国への旅、

日常からものの見事に切り放たれる見知らぬ世界は、この

うえなくスリリングで刺激的」という雑誌の文のくだりが

頭のどこかで渦巻いている。

 私は、カサブランカからいきなりメクネスの「風の道」

に行きたかった。

短編小説「風の音」1

風の道
梅雨が明けたばかりだというのに、もういきなり夏だ。

汗ばんだ体をベッドで左右に反転させながら、私はふーっ

とため息をつく。そして、「そんな馬鹿な」と呟く。

 このところ、「そんな馬鹿な」という言葉を何度呟いた

ことだろう。

「風の道?」と、左手の甲を見つめる。

 私の親指と人差し指の間に赤みがかった痣がある。普通

の状態では見えにくいところにあるのだが、指を広げてみ

ると、表面の筋目の縮みよったものが伸びて、模様がはっ

きりする。

 私は、物心がついてからその痣に気が付いていたが、父

母に見せて、どうして痣があるのか聞こうとはしなかった。

 それは、ほんの体の一部ではあったが、他の人と違うと

いうことが、いつのまにか私のコンプレックスになってい

た。大人になってからは長年の慣れからか、それほど気に

しなくなってはいた。どうしても嫌なときは、形成外科に

出掛ければいい。痣の除去など容易なことだろう。

 ところが、ひょんなことから私は、この痣がまた気にな

りだした。

 それがそぞろ心になった原因だとすれば、きわめて馬鹿

らしいことなのだという思いがする。

 その日、私は、朝から図書館にいて、一日中調べ物をし

ていた。史学科修士課程修了のための論文に取り掛かって

いた。

 卒論にローマ世界の成立を手がけたので、ローマ帝国の

崩壊で締めくくりたかった。イスラム勢力圏に関して明る

くないので、参考文献を書き写していた。半分、まどろん

でもいた。

 図書館を下ったところにリーズナブルなランチを出して

くれるフランス料理のお店があって、そこでハーフボトル

を空けてしまった。満腹感で睡魔を堪えていると、背後か

ら失礼ですが、ちょっと横に座っていいですかと声がする。

私は、首を回して虚ろな目を向けた。机の上に、形質人類

学、発掘と安全対策、人骨と古病理と題された分厚い本と

擦り切れたバックパックをどさりと置く。

考古学でもやっているんだろうか。顎鬚を蓄え、上から

下まで完璧なサファリファッション。親しい間柄ならから

かうところだ。

「西洋史の調べ物ですか?」その男は、そう言いながら椅

子を引いた。

 ちょっと無神経なのではないかと思ったが「はあ」と言

いながら作業を続けようと、下を向くと、その男は、私の

方に完全に体を向けた。

 周囲のテーブルは、がら空きだ。わざわざ私の横に座る

という理由がなにかあるのだろうか。

 訝しげに男を見ると、男は、真面目な顔で私の手に視線

を落としている。

不用意にも私は、親指と人差し指を広げていた。痣が真

っ赤になって、模様が浮き出ている。昼食のワインのせい

だ。アルコールを飲むと、完治した傷口がはっきり見える

状態になる。私は、そっと左手を下に下ろした。

「あの、気を悪くしないでください。最初に申し上げます。

僕の無礼を許して頂きたい。単刀直入に申し上げます。実

は、先ほど帰ろうと出口に向かっていましたが、あなたの

後ろを通過する時に、左手が目に入りました。だから、こ

うして隣に座らせて頂いています」

 男は、遠慮がちに、しかし躊躇なく言った。

「私の左手があなたに関係があるのですか?」

 私は憮然として返答した。

 男は、胸ポケットから名刺を取り出した。

「無礼は、承知です。もう一度、あなたの左手を見せて頂

けないでしょうか。お願いします」と、男が頭を下げた。

「そう言われても困ります。私の手がどうかしたのですか」

私は、庄野考古学研究所という文字を目で追いながら答

えた。

 男は頷きながら、ちょっと失礼という手振りをして携帯

電話を取り出した。約束を断っている。それから、その男

は自信に満ちた顔をして「もし、よろしかったら、うちの

事務所に来て頂けませんか。きちんと説明します」と、私

の目を直視する。

まるで、立場が逆転している。いったいどういうことだ

ろうか。私はこの男を信用してのこのこ付いて行って、何

を聞かされるのだろう。

「あの、私があなたの事務所に行けば、何か私の利益にな

ることが聞けるのでしょうか?」

「有益かどうかは、あなたがどう思われるかに係っていま

すが、知っていて損にはならないと思いますよ」

「はあ」

「申し訳ない。まだ、あなたの名前を聞いていなかった」

と男は言いながらバックパックを肩に掛け、机の上の本を

抱えた。やけに事務的だ。

「下村摩夜です」

「下村さんは、学生ですか?」

「ええ、まあ」と言うと、

「それはよかった」と、男は私に握手を求めた。

 私は、なにがよかったのかわからないと思いながら結局、

男(庄野慶一)と一緒に図書館を出た。

 庄野考古学研究所は、大学から見える裏手にある小高い

森の中にあった。といっても、繁華街から車で十分程度の

ところだ。

 応接間に入るとすぐ、愛想がいい事務員らしいおばさん

がお茶を運んで来てくれたので、ほっとする。

「庄野先生の生徒さん?」と、おばさんは私に微笑んだ。

「先生?」

「ちょっと変人、うふふ。私にはちょっとだけど、初めて

の人には大層かな? だけど、その道の大家なのよ。知ら

ないの?」

 こういうところの事務員は気楽なのだろう。お盆をぶら

ぶらしながら、鼻歌まじりにドアを開けたまま出て行った。

壁には年表と矢じりのイラストがあちこちに張ってあった。

壁の鳩時計が電池切れなのか二回飛び出したところで止ま

った。腕時計を見たら三時をまわっていた。

「お呼びよ。後で、コーヒーをお持ちしますからね」と、

おばさんが私を上から見下ろして言ったのは、それからし

ばらくしてからだった。私は眠気に襲われていた。

応接間を出ると、庄野先生とやらが、奥のドアを開けて

手招きをしていた。

 部屋に入ると、庄野さんは手に指示棒を持っていて、そ

れでここに座れと言わんばかりにソファーを突付いた。か

なり強引だ。

 座るとすぐ部屋が暗くなり、スクリーンにスライドが映

し出された。

 円に内接、外接する多角形を基礎とする幾何学文様と唐

草模様が、緑色の屋根に覆われた建物に施されている。次

のスライドは、アラベスクの門の向こうに噴水が見える。

ミナレットがそびえている。モスクだ。

「どこか判るかな?」庄野のさんが講義でもしているかの

ように聞いた。

「さあ、イスラム美術ですよね」

「世界で最古の大学があるところですよ」と勿体振ってか

ら、「下村さんは、史学科の学生ではないんですか?」と不

機嫌そうに言う。

 だいたい最古の大学と私の手とどう関係があるというの

だ。私は、むっとしながら無視をした。

「ま、そんなあわてなさんな。物事には、導入というものが

ある。下村さんは、せっかちな人ですね。そんなんじゃ史学

なんかできませんよ、根負けします。考古学も同じですがね」

「私は、学者になろうとかさらさら思っていませんので」

「それじゃあ、ますますそうですよ。下村さん、煙草を吸い

ますか?」

私は「なんだ、この変人」と思いながら、愛嬌笑いを浮か

べ「ええ、頂きます」と庄野さんから受け取った煙草に火を

点けた。

 スライドは、カラフルなジュラバ姿の女性たちを映して

いる。それから庄野さんは、次々にスライドを変えた。荷

物を運ぶロバ、水売りのおじさん、香辛料のお店、軒並み

に続く絨毯、織物、スリッパ、革製品、銅製品、真ちゅう

製品、陶器、貴金属細工のお店。

「もういいですか?」と、庄野さんは私を見た。最後のス

ライドは、真ちゅうのランプだった。

 私は「アラジンのランプですか? 開けゴマですね」と

ふざけてから、「このスライドは、全部メディナですよね。

モロッコ、アルジェリア、チュニジア、それともエジプト

ですか?」と言うと、

「これは?」と、またスライドプロジェクターの前に立っ

た。

 ボルビリスの遺跡だった。「モロッコですね」

「行ったことがありますか?」

「いえ」私は、ふーっとため息をついた。今度は庄野さん

が無視をした。こころなしか、きつい顔つきをしている。

「カラカラ帝を知っていますか?」

「マルクスなんとかという、ローマ皇帝の通称ですね。増

税のために帝国内の全自由民にローマ市民権を与え、東方

遠征途上にメソポタミアで暗殺されたという…」

「在位は、二百十一年から二百十七年。二十九歳で暗殺さ

れた」と庄野さん。

「そうですか」

「三世紀末にベルベル人の圧迫で衰退しローマは撤退する。

八世紀になってムーレイ・イドリスの支配下となりイスラ

ム教の町となる。もともと紀元前二世紀のころからモーリ

タニア王国の一都市として人が住んでいたんですがね。十

八世紀の地震で崩壊して、千八百八十七年から発掘が開始

されていて、僕は、その最初の発掘に参加したんですよ」

「えっ? 百年以上も前…」

 先生は、横目で私をチラと見て「下村さんの注意力を試

したんですよ」と、からから笑って、

「いやね、僕が発掘に行ったのはつい最近のことですよ」

と言って、ボルビリス遺跡の地図を広げた。

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アイーシャは言った。
ね、ママ、このお人形のひとり、ひとりに私名前をつけたのよ。
聞いてくれる?
アンでしょ。 マリアでしょ。 トムでしょ。マークでしょ。
エドワードでしょ。エミリーでしょ。ノエルでしょ。オリバーでしょ。
ブレンダでしょ。フロンティアおじさんでしょ。
クリスティーンおばさんでしょ。ハッサニアでしょ。

アイーシャは、楽しそうにひとつ、ひとつの人形にくちづけをしなが
ら、「みんな私の大切な友だちなの。だからみんなが仲良くなるよう
に同じところにいてほしいの」と、愛らしい手でボードの中に仕舞った。

私は、彼女の小さい体を抱きしめた。
アイーシャは、栗色のやわらかい髪をしている。そしてあどけない顔。
目は茶色で大きかった。

瑤子「風の音」より。

コメント欄もないのに、ゲストブックに皆様コメントを残して頂きまして
どうもありがとうございました。沢山の励ましに感謝しています。
出先には行けないときもございますが、ここの紙面のコメントはとても
楽しく書かせて頂いております。これからもどうぞ宜しくお願いします。

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