笠原瑠璃子の真骨頂なつぶやきダイアリー

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エッセイ

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写真提供 写真家・オルガ








  散文エッセイ   「某月某日」 夢という夢





なんだかんだと言いながら、また年末を迎えている現実に、今更ながら感慨深い感じがしています。年の終わりはいつも忙しさにかまけ、時の流れを考えたりすることもないのですが、今年は心持ち違う気分です。
 

それは、やはり自分の人生の重要な地点を向かえ、ここいらで、生き方をまた考え直さなければならないと思っているからだろうと思っています。
 

古代インドの思想に、人生の「四住期」というのがありがすが、人生を八十年とすれば、まさに私は「林住期」に突入しており、今までのように、ただ忙しいだけの生活に「いや、ちょっと待てよ」とブレーキを掛けている状態なのかもしれません。


ちなみに、人生を八十年として考えるならば、二十歳までは、一人前になるために、いろいろと学ぶ期間である「学生期」があり、二十歳から四十歳までは、一家の主として妻子を養い、社会的な仕事をなす期間である「家住期」。
四十歳から六十歳までは、出家して精神的な修行生活に入る「林住期」。そして、六十歳から八十歳までは、それら一切を超えた境地である期間「遊行期」に分けられている四住期という考え方があります。

その四つの節目を考えると、日本の場合は、家住期がとても長いのではないかと思います。


私の父は、八十二歳で他界しましたが、まさしく臨終まで、家住期という時期を過ごしました。他界してから、父の手帳を見ると、翌年のスケジュールがびっしり書き込まれていました。それを見た時のため息を、今でも忘れることができません。
 

悲しいかな、実際のところ何も働かなくては、生活が成り立たないのですが、これからは、何をどうしていけば、自分の歩みたい道に到達できるのかを考えながら、ブルトーザーのごとく走り回るのを止めようと思っています。
じっくり自分の時間を使って、ゆっくりとやりたいことを成していければ幸いだと考えています。


「時間を哲学する」という本の中に、「邯鄲の夢」という古い中国の話が記述されていました。



盧生という名の若い男が都に出て、一旗あげようと、故郷を後にする。そして、ある村を通りがかった時、白髪の老人に「お若いの、そんなに急いでどこまで行くのじゃ」と呼び止められる。
 

青年は、貧相な老人を見下し、立身出世する自分の野望を語る。それを聞いて、老人は「ほう、それは大儀なことじゃ。ではこの枕でちょっと休んでいきなされ」と老人は答える。そして、旅籠の主人がキビを炊いているあいだ、つい、若者はうとうとと眠り込んでしまう。そして、美しい妻とかわいい五人の子供たちに囲まれ、広大な邸宅に住む夢を見る。
 夢の中で若者は、波瀾に富んだ人生を送り、思い通り大出世をした。すると、どこからか「もしもし」という声がする。
「さあ、ご飯が炊けました」
 若者は、はっと目を醒ますのです。


妻も子供も邸宅をかき消え、自分が元のむすぼらしい一人の若者であることを悟る。「自分の見た大ドラマは、ご飯が炊ける間の夢だった」
若者は、大変ショックを受けるのですが、何もかも見通している老人は、ただにこやかに若者を見ている。若者は、自分の抱いていた野望の虚しさを悟り、その足で故郷に戻っていくという話しです。

 
この物語は、人生が夢のように虚しいというのではなく、人生というのは、老人の目から見ると、この若者が見た「一炊の夢」のようなものだという、豊かなヒントがあります。

 

時というのは、とても不思議なものです。
十年前の出来事でも、あたかも昨年に起こったことのように感じます。
しかし、客観的には、十年という歳月が経ったという事実から「推測」していけば、時間はあっという間に過ぎたという感覚に陥ります。
客観的時間と印象時間との差異を了承することが、時間の了承ということになるのかもしれません。


「新鮮な体験」は、時間を遅らせ、それに慣れると時間を速く過ぎ去らせるというのも納得できます。楽しい時間は速く過ぎてしまうのに、退屈な時間はとても遅く過ぎていくのですから。仏教では「無常迅速」と説いています。子供の頃は、1日がとても長く感じられるのに、大人になると時間がいつの間にか滑るように過ぎていくようです。そして「一炊の夢のようだった」と思うのでしょうね。


しかしながら、人間の考えは留まるところを知らず、多方面に伸びて行くものです。ひとところに留まらないから、また面白いということです。 


ふとしたきっかけで、昔のメモや日記に出くわすと、全く身に覚えのない自分がいたりします。そういうときに、自分のことなのに、他人が書いているような気になったり、感覚の違う文章に妙に感心してしまったりするものです。やはり、「時間」という正体は何なのかということは、永遠のテーマであります。

人は日々少しずつ変化します。また、変化しないほうがなにか違うのではな
いかと思います。成長していなければ疑問に思うということです。
実行がすべてを表面化させます。
実行のない夢は虚しいということでしょう。





瑠璃子のメモ

アップ時の行の乱れをお許し下さい。
しばらくコメント欄なしの、休止中のつもり・・ブログでしたが
今日はコメント欄を出させて頂きました。


年末になりました。みなさまお体をご自愛下さいませ。


追伸  転載・転用はなさいませんよう お願い申し上げます。


 

汝の隣人を愛せよ

汝の隣人を愛せよ

 毎日仕事から帰って

からポストを覗く。昔

のようにポストを覗く

ことに魅力はない。ど

うせ配達された郵便物

というと、ダイレクト

メールが主だ。頼みも

しない雑誌や、支払い

請求書も占めている。

だから、その中からな

にかすばらしいものを

見出そうという期待は

ほぼ裏切られるのが昨

今だ。

 先日は、気持ちを動

揺させられる郵便物が

届いた。なんと、裁判

取り下げ最終期日ぺけ

月ぺけ日と大きく印字

されたものである。

差出人は、法務局認

定法人民事訴訟管理セ

ンターだ。管理コード

の明記もある。内容は、

貴方の未納されました

民法指定消費料金につ

いて契約会社、ないし

は運営会社から民事訴

訟として、訴状の提出

されました事をご通知

致しますという云々が

あり、原告側の主張が

全面的に受理され裁判

後の処置として給与の

差し押さえ及び不動産

の差し押さえ執行官の

立会いのもと強制的に

履行させて頂きますと

いう具合に続く。

 ふむ。私に? と思

うと、母宛だった。

 あぶなかった。どん

な人でも、こういう通

達を手にすると、いっ

たいなんの支払いを忘

れていたのだろうかと

一瞬不安を覚えるだろ

う。

 母の手に渡らなくて

よかったとほっとした。

相手先に電話をしたら

飛んで火に入る夏の虫

というところだ。話に

は聞いていたが、なか

なかもっともらしく、

よくできている文章で

あった。しかし、こう

いうことを考えている

人たちは、楽しいだろ

うか。四六時中、人を

どうやって騙そうかと

案を練っている姿を思

い浮かべると、滑稽だ

が、けっこう真剣に取

り組んでいると思うと

ため息がでる。

 先月は、車に尖った

針金のようなもので線

傷を入れられた。本人

は、通りすがりの落書

き程度の感覚なのかも

しれないが、やられた

ほうはたまらない。数

年前にも2度あったっ

け…。ああ、もう許さ

ないと一人で地団駄踏

みそうになったが、そ

こでまた、こういうこ

とをしている人も楽し

いんだろうかと考えて

しまった。でも、単な

るスリルだったらたま

らないなあ…。自分の

ストレスやいらいらの

処理がこういう手段し

かないとすればゆゆし

きことだ。アイデンテ

ィティを自分自身で汚

していることになる。

 どうしようもない気

持ちを抱きながら家に

着く。こういうときは

熱いお風呂にゆっくり

つかり、ブランデーを

飲みながら、三大オペ

ラのDVDを見る。

 私の座ったソファー

に、猫2匹と犬1匹が

寄り添って来る。無条

件に愛せる生き物だ。

妙なもので、彼らには

しっかりと愛されてい

ると思うのだから不思

議だ。時折かかる私の

人間不信病だが、やは

り「汝の隣人を愛せよ」

を振り返り生きて行く

しかないか…。

抱きしめたい

抱きしめたい

ストレスから来る躁

鬱病になる人が増えて

いるらしい。しかも、

年齢の幅も広いという

ことだ。どうしたこと

だろうか。

 ストレスというのは、

誰しもあるのだろうが、

特に、過労、睡眠不足

などの生物学的なもの

と精神緊張、不安、恐

怖、興奮などの社会的

なものから来ていると

いうことだ。

 欝の時は、突然会社

に行きたくないという

気分になり、部屋を暗

くして一日閉じこもる。

また、躁の時は、自分

はなんでもできるのだ

という気分で喋り、そ

れを行動に移す。

 その周期は、一日で

躁と欝の状態が変わる

こともあれば、半年ご

とに変わることもある。

本人の自覚症状とし

ては、気分が悪かった

り、頭痛がしたりする

ので、外に一歩出るこ

とができなかったりす

るのが初期段階だそう

だ。

 ふっとこういうこと

を書いたのは、私の生

徒が有名大学に入学す

るために猛勉強をして

この春合格した。

 しばし大喜びしてい

たのだが、しばらくし

て悲痛な様相で私に相

談をしに来た。

「先生、人生の目的っ

てなんでしょうか? 

僕には夢がありません。

将来なにになりたいか

もわかりません」

 私は驚いた。彼のよ

うなこれから有望な青

年が、どんな頼もしい

男になるだろうかと期

待を寄せていたからで

ある。

 私自身を振り返ると、

大学時代は、とにかく

楽しかった。高校を卒

業して自由になること

が待ちきれなかったし、

楽しいことだけに目を

向けていた。将来の目

的は? などと考えて

もいなかったと思う。

とにかく毎日わくわく

していたことは間違い

ない。いわゆる、中年

期の人から見ると「い

いね、若いのは」と皮

肉の一つも言いたくな

るような…。

 近頃気に成ることが

ある。生徒のほとんど

がよくため息を吐く。

「疲れた」「嫌になる」

という言葉が多い。

 何故だろう?

 彼らも、学校、家庭

社会の中でストレスを

感じていることは間違

いない。このストレス

は、まぎれもなく、競

争社会の中で、自分を

人と比べる、あるいは、

誰かの期待に押しつぶ

されそうになっている

自分を感じているから

である。

 ありのままの自分を

素直に表現したいのだ

が、まわりとのギャッ

プに負けている。それ

は、自分が正しいと思

えば思うほど大きくな

る。

 自分らしく生きると

いう術をみつけてほし

いと心から思うが、そ

れは時間の掛かること

なのだろうと思う。

 ここ十年、このよう

な青年の悩みを聞いて

きた。

 若い青年たちの悩み

は尽きないかもしれな

い。処世術を身につけ

た大人は、なす術はな

い。しかし、大人とし

て言ってあげたいこと

がある。「あなたはこれ

からの人、どんなでも

なるじゃない?」

 老年のような青年の

表情を見ると、青年も

中年も、老年もあまり

変わりがないようで、

本当に複雑な気持ちに

なる。

変わる楽しさ

本屋に行くと、脳を

鍛えるというタイトル

の本が並んでいる。そ

れに相当するのが、精

神を鍛えるという種類

の本。以前は、本屋に

行くと、そういう本の

前でぴたりと足が止ま

っていた。

 しかし、最近は違う。

脳や精神というのは、

鍛えなくても生きてい

れば鍛えられるのだ。

怠けながらも五年日

記というものを付けて

いる。

 それを見て驚いた。

 これが果たして同じ

人間か…。

 人の嗜好はそうそう

変わらないが、思考は

相当変わるということ

に気づいたからだ。

 物事の処理の仕方、

自分と他人との距離の

取り方、責任の取り方

など、極端に方向性に

違いがある。こう書く

とよほど微に入り細を

うがつ書き方をしてい

ると思われるだろうが、

そうではなく、週の3

日は、「ぼ〜っ」だの、

「はっ、嫌」だの「腹

が立つ」などという、

一行呟きもある。自分

でもなんのことだかさ

っぱりだ。

 そもそも私の日記か

らは、誰と会っただの

どこへ行っただのの記

録がないので、我なが

ら、去年の今日はこう

いうことをしたのね、

などは知るよしもない。

 しかし、一昨年のそ

の同じ日、「生きること

って辛い」と書いてい

るかと思えば、去年の

その日「なんて幸せ」

などと書いているのだ。

 そういう記録を見る

たびに、なんていい加

減な奴だと笑ってしま

う。だが、これは救い

ともいえるのではない

かと思い始めた。

 だから、例えば、2

年前の同じページに、

例えば、「恋愛なんてく

だらない」と記してい

て、年が変わって「恋

心ってすばらしい」と

書いていたとしてもち

っとも驚くべきではな

い。

 普遍的なものへの憧

れは、変化の中に存在

しているから感じるこ

となのだろう。

「あなたってちっとも

変わっていないね」と

言われて、嬉しいと思

うのは、年齢が変化し

ないという意味合いだ

けで、それ以外は由由

しいことなのだと思う

ことにしている。

 むしろ変化を感じ取

れないというほうが私

は怖い。

 これだけの人や物が

刻一秒変化している中

に、自分だけ動かず留

まるなんて不可能だ。

最低限の自分の品性に

関わるような、譲りえ

ないなものだけを、ど

う守り得るのかという

ことだけを考えること

にしている。

 それ以外は、変化と

いうものが、ありがた

く、かなりの楽しみが

ある。

 それが、日記だけで

はないということがわ

かり愕然とすることも

ある。エッセイもそう。

20年前の自分のエッ

セイを見ると、「えっ?

誰がこんなことを書い

たの」だ。

 でもそれにめげては

いけない。そういう風

に考えると、恋文など

は最たるもの。ああ、

いとも恥ずかしだ。
「なんと美しいのだろう。いまいま
しい」
毎年この頃に再認識させられ、心
の中でボソリ一人思いながら目を細
めて眺める物体に対しての所見であ
ります。
 それは可憐で、(いや、可憐という
言葉が似合うのだから、本人が純情
であろうとなかろうとその言葉遣い
でかまわない)まさしく芳しい花の
香り、風に揺れるピンクの花びらの
ようではないか…、と心打たれ、羨
望の眼差しで見詰め直すのでありま
すが、決して大げさではないのが、
ちょっと癪でもあり、大いに嫉妬も
混じっていて、甘酸っぱい思いに駆
られたりもしますが、仕方あります
まい。彼女たちは、これからの人た
ちなんですから。
高校三年生のAちゃんやBちゃん
やCちゃんが大学に入学し、あわた
だしい時期が過ぎ、学生生活にも慣
れた頃、私のところに顔を見せる季
節なのです。
 高校三年生の頃の彼女たちからは
想像できないイデタチに、はじめは
誰だかわからない。
「あっ、男ができたな?」と詮索す
るのは野暮というものでしょう。ぐ
っと唾を飲み込むことが必要です。
 目の前に立っているかつての生徒、
高校三年生だった彼女たちは、ほの
かに色気の漂わせる、見惚れるくら
いの別人に変身しているのですから。
 女の私がそうなのだから、世の男
だったらヨロリときてよだれを出す
か、グラリときて身を滅ぼす羽目に
なるというもんです。
 男の子だってそうです。
「あれ? A君ってこんないい男だ
ったのね」
 ああ、いけないいけないです。
 お年頃というのは、本当にあるの
ですね。つぼみが膨らみかけた頃の
彼女や彼たちは、おばさんを圧倒す
る、そういう輝きを放っているので、
我が身の老いを感じさせるのであり
まして、ドッキリするのであります。
「全く、罪だ。許せん」
 ま、おばさんたちは、熟練してお
りまして、知性も教養もありますで
しょう? そういう自信は大いにあ
るものですから、ニコリと笑って済
ますものです。軽い嫉妬も感じなく
なれば、女を捨てたということでし
ょう。
 これが、自分の所有物(想像にお
まかせします)が色目でも送った際
には、気持ちは複雑です。
「ふざけるんじゃないわよ。まだ、
あの子たちは人生を知らないのよ。
私と一緒にしないでよね」
 などと訳の分からないことを呟き、
プライドを傷つけられるのでありま
す。もやもやとした嫉妬心が意地悪
な気持ちを繁殖させ、ますます醜い
中年に仕立て上げるのであります。
 いいじゃありませんか。誰だって
そんな眩しい時代を経てきているん
ですから…。
 やたらとモテタ時代って、やはり
花だったんですねえ。
 若いということは、やはり嫉妬に
値します。若いだけでいいんです。
特に女はそうでしょう。
 昨日、ちょっと洒落たラーメン屋
に行ったんです。久しぶりに旨い札
幌ラーメンを食べました。
 ふと、若くて美人のウエートレス
の首筋に目が止まりました。なんと、
堂々とキスマーク。でも許せます。
若気の至りでしょう。でもおばさん
なら、「いいかげんにせんかい」で
す。
世の男性を眺めてみると、一目瞭
然でしょう。私が男なら答えは決ま
っています。若いブスとおばさんの
美人では前者を選びます。
 ところが、若くてブスで馬鹿と美
人で賢くいおばさんでは、究極の選
択ですが…、ムムム、仕方なく後者
を選びます。
 若くて、可憐で花のよう、でも見
境いなくアホじゃ困ります。まして
やおばさんのアホじゃ話になりませ
ん。
 そう思いませんか。ねえ、男性諸
君、アホの男もケチの男もケツの穴
の小さい男も遠慮しますが、この世
の中はやはりおばかは困ります。
(注)これが困ったことに、勉強の
できるおばかが一番困りますよね。
そういう方たち、くれぐれもどうか
間違っても世の中を動かさないで下
さい。あああ、それから皆さん、私
に石を投げないで下さい。お願いし
ます。

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