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四十九歳で会社に辞表を出し、これからのことも決めないまま辞職をする なんて、心底、馬鹿のすることだ。世間一般から言えば、おまえは、もはや 無職の中年男という以外の何者でもないのだからというのが本心だろうと、 犬山は思った。 安田がこれからの待遇や条件や会社の実情をくどい説教調で話している間、 犬山は、自分の気持ちに焦点をあわせて突き詰めていくことに、集中した。 儲けと損失の中で日々をこれまで暮らしてきた俺は今、試されている。こ れまでの自分が身を置いていた世界は、果たして実体のあるものだったのだ ろうか? いったい自分はどこに所属していたのだろうか? そういう思い が込み上げてきた。 「で、いつ東京から引き揚げられますかな? こちらの都合で申し訳ないが、 来月中旬から来ていただくということで、いいですかな」と、安田は貧乏揺 すりをしながら上目遣いに犬山を見た。机にはアメリカとイギリスのミニチ ュア旗が飾ってあり、壁には「勝利」という言葉の額が掛かっている。 「支社長、私の家は農家なんですよ。証券マンの世界も十分経験しましたし ね、おふくろも高齢ですから。農業に惹かれていますよ。ほら、今流行のU ターン組ですよ」と、軽い調子の言葉が口から出た。 安田はすぐに「冗談がお上手ですな」と言って、高笑いをした。 つまらない男だった。犬山は丁重に頭を下げて、会社を後にした。その足 で再び東京に戻った。部下の吉田から留守番電話が何度も入っていた。 部下の残留と引き換えに辞職したことは、偽善的と見られそうだが、犬山 には決してそういう気負いも気取りもなかった。 犬山は、役員部長ではなかった。どちらにせよ早かれ遅かれ、支店長の言 うように、十年もしないうちに退職になる。酸いも甘いも噛み分けて、もう 十分に会社と共にしてきた。自分の代わりは、誰でもできるのだ。幸運なこ とに所帯もない。正直、そこまでして会社にしがみつこうとは思わない。 いまこうして、潮風に当たりながら海を見つめていると、犬山には一連の ことが、随分と、遠い昔のことのように感じられる。 事実は一つだけだ。もう自分は、五時半に起きて、新聞数紙に目を通す必 要もなければ、メールチェックやミーティングをすることも必要が無いとい うことだ。「去る者は日々に疎し」まさに、借り物の宿だと思える。 東京で友人になった田中は、大手銀行を辞めて、田舎に帰り、船頭になった。 周りの人間は、リストラに引っ掛かったのだろうと同情した。 「俺、船頭でもしようと思うよ。好きなんだよ。ああいうのは、誰にでもで きないよ。意外に似合うと思わないか?」と、焼鳥屋のカウンターで飲みな がら、しゃべっていた田中の顔が浮かんだ。田中の気持ちが今になって理解 できる気がする。 犬山は、テトラポットから腰を上げた。まんざら悪い気分ではない。 会社側にしてみれば、リストラは、当然の処置ではないが生き残りのため には、仕方のないことだろう。単純に、社員を三人減らせば、一億の儲けが それ以上になるという計算ではない。今まで大型船に乗っていた乗組員が座 礁して、救命ボートに乗って荒波の中を岸に辿り着かなければならない状況 では、乗組員がすべて平等に生き残るという意識にならなければそのボート も座礁する。大型船に乗っていたときと同じ気持ちでいる人間がいると、戦 力の面で船が重くなる。大型船に戻って、誰か助けに来てくれるのを待つか、 救命ボートに乗って危険を乗り越えて行くか、どちらがいいのかは、神のみ ぞ知るだ。とにかく、生き残るか、そうでないかという瀬戸際に、ああでも ない、こうでもないと、右往左往する時間はない。事を起こしていくには、 トップダウンも仕方ない。 四十、五十は、蓄積した経験もあれば、識別力もある。しかし、会社は、 生き残りを賭けて、一度、白紙にしなければならない時期だ。年を取って、 今までのやり方にしがみ付いていると、船は沈没する。いずれにせよ、誰に でも潮時は、公平にきっちりとやって来るのだ。 犬山からは、一週間経っても電話はなかった。 あいつは、典型的な商社マンの格好をしている。ホテルのロビーにはそう いう男は数多くいるだろう。それに、ボーッとして煙草を吸うなんてことを するだろうか? 待ち合わせなら、あいつは読書をしているだろう。それに、 俺のところに電話もよこさないことはないはずだ。やはり、里子の見間違い かと、濱田は独りごちた。 盆が過ぎ、八月も終わろうとする午後、事務所に戻ると、事務の女の子が、 「法廷に出かけられてから、先生にお会いしたいと、犬山さんという方がお 見えになりましたが、また後でと言われてお帰りになりました」と言う。 微かな不安を抱いていた気持ちが和んだ。犬山を待ちながら、里子の弁当 を食べていると、事務員がドアを開けた。 「犬山さんがお見えです」 勢いよく出ていくと、待合室には、白髪頭の犬山の母がソファーに腰を掛 けていた。
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