笠原瑠璃子の真骨頂なつぶやきダイアリー

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短編小説

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短編小説「朧月夜」八

四十九歳で会社に辞表を出し、これからのことも決めないまま辞職をする

なんて、心底、馬鹿のすることだ。世間一般から言えば、おまえは、もはや

無職の中年男という以外の何者でもないのだからというのが本心だろうと、

犬山は思った。

安田がこれからの待遇や条件や会社の実情をくどい説教調で話している間、

犬山は、自分の気持ちに焦点をあわせて突き詰めていくことに、集中した。

 儲けと損失の中で日々をこれまで暮らしてきた俺は今、試されている。こ

れまでの自分が身を置いていた世界は、果たして実体のあるものだったのだ

ろうか? いったい自分はどこに所属していたのだろうか? そういう思い

が込み上げてきた。

「で、いつ東京から引き揚げられますかな? こちらの都合で申し訳ないが、

来月中旬から来ていただくということで、いいですかな」と、安田は貧乏揺

すりをしながら上目遣いに犬山を見た。机にはアメリカとイギリスのミニチ

ュア旗が飾ってあり、壁には「勝利」という言葉の額が掛かっている。

「支社長、私の家は農家なんですよ。証券マンの世界も十分経験しましたし

ね、おふくろも高齢ですから。農業に惹かれていますよ。ほら、今流行のU

ターン組ですよ」と、軽い調子の言葉が口から出た。

 安田はすぐに「冗談がお上手ですな」と言って、高笑いをした。

 つまらない男だった。犬山は丁重に頭を下げて、会社を後にした。その足

で再び東京に戻った。部下の吉田から留守番電話が何度も入っていた。

部下の残留と引き換えに辞職したことは、偽善的と見られそうだが、犬山

には決してそういう気負いも気取りもなかった。

犬山は、役員部長ではなかった。どちらにせよ早かれ遅かれ、支店長の言

うように、十年もしないうちに退職になる。酸いも甘いも噛み分けて、もう

十分に会社と共にしてきた。自分の代わりは、誰でもできるのだ。幸運なこ

とに所帯もない。正直、そこまでして会社にしがみつこうとは思わない。

いまこうして、潮風に当たりながら海を見つめていると、犬山には一連の

ことが、随分と、遠い昔のことのように感じられる。

事実は一つだけだ。もう自分は、五時半に起きて、新聞数紙に目を通す必

要もなければ、メールチェックやミーティングをすることも必要が無いとい

うことだ。「去る者は日々に疎し」まさに、借り物の宿だと思える。

 東京で友人になった田中は、大手銀行を辞めて、田舎に帰り、船頭になった。

 周りの人間は、リストラに引っ掛かったのだろうと同情した。

「俺、船頭でもしようと思うよ。好きなんだよ。ああいうのは、誰にでもで

きないよ。意外に似合うと思わないか?」と、焼鳥屋のカウンターで飲みな

がら、しゃべっていた田中の顔が浮かんだ。田中の気持ちが今になって理解

できる気がする。

犬山は、テトラポットから腰を上げた。まんざら悪い気分ではない。

会社側にしてみれば、リストラは、当然の処置ではないが生き残りのため

には、仕方のないことだろう。単純に、社員を三人減らせば、一億の儲けが

それ以上になるという計算ではない。今まで大型船に乗っていた乗組員が座

礁して、救命ボートに乗って荒波の中を岸に辿り着かなければならない状況

では、乗組員がすべて平等に生き残るという意識にならなければそのボート

も座礁する。大型船に乗っていたときと同じ気持ちでいる人間がいると、戦

力の面で船が重くなる。大型船に戻って、誰か助けに来てくれるのを待つか、

救命ボートに乗って危険を乗り越えて行くか、どちらがいいのかは、神のみ

ぞ知るだ。とにかく、生き残るか、そうでないかという瀬戸際に、ああでも

ない、こうでもないと、右往左往する時間はない。事を起こしていくには、

トップダウンも仕方ない。

 四十、五十は、蓄積した経験もあれば、識別力もある。しかし、会社は、

生き残りを賭けて、一度、白紙にしなければならない時期だ。年を取って、

今までのやり方にしがみ付いていると、船は沈没する。いずれにせよ、誰に

でも潮時は、公平にきっちりとやって来るのだ。



              *

              

犬山からは、一週間経っても電話はなかった。

あいつは、典型的な商社マンの格好をしている。ホテルのロビーにはそう

いう男は数多くいるだろう。それに、ボーッとして煙草を吸うなんてことを

するだろうか? 待ち合わせなら、あいつは読書をしているだろう。それに、

俺のところに電話もよこさないことはないはずだ。やはり、里子の見間違い

かと、濱田は独りごちた。

 盆が過ぎ、八月も終わろうとする午後、事務所に戻ると、事務の女の子が、

「法廷に出かけられてから、先生にお会いしたいと、犬山さんという方がお

見えになりましたが、また後でと言われてお帰りになりました」と言う。

微かな不安を抱いていた気持ちが和んだ。犬山を待ちながら、里子の弁当

を食べていると、事務員がドアを開けた。

「犬山さんがお見えです」

勢いよく出ていくと、待合室には、白髪頭の犬山の母がソファーに腰を掛

けていた。

短編小説「朧月夜」七

「人生の目標って、やはり夢を持ち続けて前に進むことじゃない? ホーム

レスの人は、どこかでそれをほかしてしまったのよね。仕事をやって、どう

にか生きていこうと思えば、それは可能なことでしょう。リストラされた人

も、一時は、自分という人間を全否定されたのと同じ感覚になるのだろうと

思うけど、足かせから心が完全に離れてしまったら、なんだか、あぶないね。

侘しさや人情も、歳を重ねるごとに足かせにもなるわね。猫のタマだって、

歳をとってから、新米のモモに威嚇されているのよ。動物の世界も強いのが

威張っているわ。…ああ、疲れちゃった。私、先に寝るわね。あなたも、た

まには早く休んだら?」

「今日は、うまくいったのか?」

「ええ、上出来」という言葉を残して、里子は軽やかに二階の寝室へ駆け上

がった。

 カサブランカの花の甘い匂いが、まるでインベーダーのように部屋中に充

満し始めた。

濱田は、しばらく天井を見ながら、寝転がっていた。

 この世が戦国時代なら、当然、有能で個人パフォーマンスをできる人間が

勝ち組だ。救世主を選んでこの経済状態を打破するしかない。そういう意味

では、リストラも経営者側からすると、極めてノーマルだ。組織の統合で戦

った時代は終わり、組織は、崩壊する。はじかれた人間は、負け組だ。あく

までもこの世での…。

「男は、陣地取りが好きだからな。とことんやってみて、どうなるかだよ。

失敗したら、落とし前は自分だけでつけるしかないだろう。所詮そういうも

のだよ」

須郷の口癖だった。

       

        *

              

犬山はテトラポッドの上に座って、煙草を吸いながら海を見ていた。

海は凪いでいて、時折、小魚が青く光る背びれを見せながら跳ねては、波

紋を描いている。人生の座標点は、一瞬にして黒点になったが、不思議なこ

とに、何の未練も残っていなかった。

むしろ、体中の毛穴という毛穴からすべて薄汚い汗が流れ出てしまったか

のような、爽快感さえ覚えている。そういう自分を幾度となく確認し、ここ

一ヶ月の間、苦笑しながら、体が自由になっていくのを感じた。これを、人

間らしい生活、そういう言葉で表すことができないのだろうか。

 役付きになる前の三十五歳の頃だった。犬山は、為替ディーリングの部門

に席を置き、大舞台で活躍する醍醐味を味わっていた。商社や輸出入企業の

為替取引を必要とする機関投資家からの注文を受け、市場でのカバー取り引

きと銀行の勘定で自ら陣地を持ち、差益を追求していた。世界政治の動向は、

相場を読むのに欠かせないシナリオで、いざ相場が動き出してしまえば、売

りか買いかは、ディーラーの手の中に任され、一瞬で売り買いが決まる。

七時前に出社をして、七時過ぎには、シドニーやニューヨークの支店と連

絡を取り、情報収集をする。九時には、東京市場が開始され、香港市場やシ

ンガポール市場が開始されると、海外の銀行とも頻繁に連絡を取り合う。

 五時に、市場の中心が東京からロンドンに移り、相場の動きを確認する。 

十時過ぎにマンションに帰る。夜中の二時頃、ニューヨークから相場の動向

の電話が入る。完全にベッドで就寝できるのは、毎日二時過ぎだった。

 世の中の金がどう流れているかを体で掴む仕事は、現場にいて闘争の連続

だった。それでも必死でやって来られたのは、やはり、トッププレイヤーに

なりたかったからだ。

犬山は、それから債権トレーダーになり、その部署の役付きになり、その

後、現場を離れ、資本市場グループの部長になった。

今年の春、常務執行役員から、部下の海外ディリバーの失敗で損失を与え

たことで、部下のリストラ候補のリストを渡された。

 その部下は、新入社員の頃からの直属で、一から教え込んで育てた人材だ

った。彼らは三十代前半で、入社した当時から将来を有望視されていた。

中でも吉田という男は、郷里が同じで、高校の後輩に当たった。

彼は、今年、子供が生まれ、郊外に家を建てたばかりだった。

最終的な決定が下される前に、犬山は、自分の辞職届と引き換えに吉田を

残すように取締役に談判した。 

辞職をしてから、すぐ取引先の常務から電話があった。福岡市にある出先

の支店長代理にどうかとオファーがあって福岡まで出向いたが、気が向かな

かった。体がオブラートで包まれているかのようにしゃっきりしなかった。

「あと十年でしょう。今は大変ですからなあ、部署があるだけでも幸運です

よ。部下もあなたのような上司で救われましたなあ、一生頭が上がらないで

しょうな。しかし、思い切ったことをされましたな。エリートコースを歩ま

れていたんですからな、もったいない。いやあ、普通の人じゃできませんよ。

まさしく立派というしかありませんな」

安田と言う支店長は、余裕のある表情で呟いた。

短編小説「朧月夜」六

「あら、あなた、今日はお休みなの?」と、バスローブを羽織りながら、濱

田の肩をポンと叩いて、里子がクーラーの下に立った。

 時計を見ると、九時半を回っている。自分の事務所といえども、完全な遅

刻だ。あわててクローゼットを開けようとすると、里子が鼻歌を歌いながら

首に手を回して、頬にキスをした。体からシャンプーの甘い香りがふわりと

濱田を包み込んだ。勤務意欲が萎える気がする。まったく極楽トンボの妻を

もったものだ。靴を履こうとすると、「はい、お弁当」と、里子がにっこり笑

った。

 

八月ともなれば、どこのビアガーデンも混んでいる。同業者の友人が、事

務所を出ようとしている時間に、「よう、一杯やろうか」と誘いの電話を掛

けてきたが、生暖かい風に吹かれながらホテルの屋上あたりでビールを飲む

気にはならなかった。早朝から痛かった胃の具合は良くなっていたが、「最

近、調子が悪くてね」と体よく断った。

 京子の店の前で、ちょっと立ち止まったが、それもよしにした。たまには

まっすぐ家に帰り、熱いお湯にでも浸かってから、横になってビデオでも見

るのもいいかと、地下街で、おいしいと評判の餃子と焼きそばを包んでもら

い、電車に乗った。

 風呂から上がって、クーラーの中で涼んでいたら電話が鳴った。もしかし

てと思ったが、「俺、友達の家に泊まってくるから。マージャン」

俊介からの電話である。

「今時の学生もマージャンをするのか?」

「まあね。じゃあ、おふくろにもよろしく」と言って電話は切れた。

 マージャンも本当だろうが、彼女のところにでも泊まるのだろう。

「大学生は、ディズニーランドのようなものだからな」と呟いて苦笑する。

しばしの非生産者階級だから、大いに遊ぶことも一つの時代だろう。

 濱田は、ブリーフケースから手帳を取り出して、犬山の電話番号を探した。

 犬山のマンションには、東京時代、何度も立ち寄ったことがある。部屋は

きちんと整頓されていて、壁一杯に置かれた本棚には文学書が並んでいた。

 何度か電話を掛けてみたが犬山は留守だった。まだ、十時だ。宵の口だろう。

またにしようと思う。

「あら、今日は早いのね。ご飯は食べたの?」

里子がコンサート用のドレスのまま、カサブランカの花を抱えて立ってい

た。濱田は、俊介が借りてきたサスペンスもののビデオを観ていたが、途中

で寝てしまったらしい。

「ああ、そこに餃子とやきそばがあるよ。俊介の分まで買ったんだが、あい

つ、泊まりだとさ」

「あの子は、遊び過ぎね。今日はあなたにニュースがあるのよ。犬山さんに

会ったわ。打ち上げの会場は、西鉄グランドホテルだったのよ。コーヒーラ

ウンジから出てきたら、犬山さんがロビーのソファーに座って、静かに煙草

を吸っていたわ」

「犬山が? それは、人違いだろう」

「そんなことないわ。私、犬山さんには、何度か会ったことがあるのよ」

「それで、挨拶はしたのか?」

「それが、先生たちと花束を分けていたら、もう、ソファーには居なかったの。

]明日にでも電話が掛かってくるんじゃない?」

「それ奇遇だな。ほんのさっき犬山に電話をしたら、留守だったよ」

「それはそうだわね。携帯電話の番号知らないの? …それよりさ、駅にい

るホームレスの数、最近増えたわね。なんだか切なくなっちゃった。ゴミ箱

の中をあさっているの。一歩間違えば、誰だってああいうふうになるのかも

しれないと思うと、ぞっとしちゃった。まるで、世捨て人よね」と里子はカ

サブランカの花の水切りをしながら呟いた。「ねえ、濱田さん、ホームレス

について考えたことがある?」

 里子は、真面目な話をしたい時、あなたという呼び方から濱田さんという

呼び方に変える。

「ああ、彼らは、家族とも社会とも縁を切ったアウトサイダーで、個人その

ものは、完全なインディペンダントだからね」と、濱田は寝転がりながら、

生返事をした。

「あの人たちは、貧乏だからああいう生活をしているのではないのよね。い

くら不況と言ったって、仕事を選ばなければ、何かできるでしょう。社会の

保護の恩恵にも与りたくないのかしら? 要するに、一般的な価値観を基準

にして生活をしていない人たちでしょう? そういうことを拒否して生きよ

うと決めた途端に、仕事をする必要もないと思ったってことかしら?」

「社会で必要とされていないってことは、追っかけて来る人もいないという

ことだ。社会というのは、みんなの足かせが絡まっているところだからね」

「そうよねえ、社会のルールのなかで生きていないということは、足かせは

いらなくなるわよね。ムカデ競走でみんなが同じ方向に走っているのに、そ

んな競走には、参加しませんと意思表示をしてドロップアウトした。だって、

今の世の中は、九十パーセントのことがお金で解決できるでしょう。お金が

何もいらない世界に住むと、十パーセントのことでしか悩まなくてすむわ。

お金という言葉の足かせってことかな」

「金がなくて生活できれば、犯罪も無くなるだろうね。ムカデ競走で一番の

ヤツは、地位を獲得し、いい車に乗って、いい家に住む。ぺんぺん草は、輸

入物の雑草に追いやられて、行き場を無くし、屋根の上に生えるように、自

分の居場所を見つけるのさ」

短編小説「朧月夜」五

「知美ちゃん、ちょっとした話をしようか。猿の話なんだけどね」

知美は、一瞬目を丸くして小柴を見つめる。

「猿ってさ、頭がいいんだよ。そりゃあ人間の次に頭脳が働くからね。赤ち

ゃん猿を抱いた母親猿を檻に入れて下から火を焚くとね、母親は、懸命に子

供をかばいながらがまんするんだよ。偉いだろう? だけど、だんだん自分

が耐え切れないほど熱くなるとね、どうすると思う? 赤ちゃん猿を自分の

下に敷いて、窮地を免れるんだよ」

小柴は、勢いがついたようにまくしたてた。

知美という少女は、何も言わなかったが、明らかに顔が歪んだ。

 猿の話が今頃になって小柴に蘇るのは、結局、捨て身にならないと、火中

の栗は拾うことができないということが、あの雨の夜以来、胸の奥に蠢いて

いたからだと思う。



              *      

               

 濱田は、リビングのソファーに座って新聞を広げた。

「あなた、朝食はトーストとオムレツでいいかしら?」と、妻の里子が弁当

を作りながら振り返る。息子の俊介の分と濱田と自分の弁当を作るのを、こ

こ十年間欠かさない。

「大学生になって、弁当ってのはないぜ」と言いながら、息子は、口ほど嫌

がっている様子もなく、「サンキュー」と言いながら弁当を持って出る。

 多分、食べたくない時は、弓道クラブの連中にでも食べさせているんじゃ

ないかと思う。濱田は、事務所の隅にある冷蔵庫に入れっぱなしで、弁当の

存在を忘れていることすらある。

 仕事の書類を掻き分けて、机で弁当を開いていると、事務の女の子が「あ

ら、愛妻弁当なんですねえ」などと言うので、腹が空いている時に適当に食

べ、ランチタイムは大抵、外で済ますことが多い。

里子が「お弁当って、なんだか郷愁にかられるわ。作っていると、母が台

所に立ってお弁当をこしらえてくれていた小学生の頃のことを思い出す。お

弁当箱には夢があるのよね」と言うのを、何度となく聞いた。

そういうことで、夢を見ることができるということは、小柴が言うように、

心の乾きを払拭しようと、地面すれすれのところを浮遊したり、浮上したい

と願ったりするわけの判らない矛盾を抱えている男は、女という生き物とは

違うのだということだろうか。

口の中がねばねばして、煙草に火を点けて一口吸ったら、酸っぱい胃液が

戻ってきた。二日酔いだ。小柴と飲んだ夜から、灰色の小さい芯のようなも

のが体のどこかで渦巻いている気配がして、この数日は、深酒をした。

「ねえ、今日はピアノ教室の発表会の日ですから。打ち上げで遅くなります

からね」と、里子が柄の付いたモップでリビングをすいすい拭きながら、濱

田を覗いた。

「あなた、最近、飲みすぎですよ。昨夜は高いびきをかいて、夜中に叫び声

をあげてましたよ。ウオーッってね、熊みたいに…」

濱田が新聞から目を離すと、里子が、「おまえはいいよな。何の悩みもなくて、

好きなことができて、でしょう?」と濱田を先取りして真似ながら、彼の足

元にすっとモップを通した。

音大を出てからすぐ結婚した里子は、ピアノの教師をしていて、午後から

は教室に出かける。五歳年下で、里子が二十四歳の時、上司から薦められた

見合いで結婚した。東京育ちで、学生時代の友人は、福岡市に一人もいなか

ったが、仕事仲間の友人関係もうまくいっているようで、自分の世界を築き

ながら四十四歳を謳歌している。

口喧嘩もするが、険悪なムードにならないのは、里子がマイペース型の楽

天家だからだろう。時折、賢いのか無神経なのか判らないなと思いながら、

あっという間に二十年が経った。可もなし不可もなしと言ったら、罰が当た

るというものだろう。

里子がシャワーを浴びに行ってから、濱田は薬箱から胃薬を探して飲んだ。

新聞もこのところ明るい話題を探すほうが難しい。いつからこういう世の中

になってしまったのだろうか、それとも自分が歳を重ねてきたために、身に

こたえる記事が目に留まるようになってきたのだろうか。

 新聞のフロント面の見出しが、寝起きの濱田に訴えてくるように映った。

県内の離婚過去最多。実年世代も増加傾向。

離婚件数は、十年前の二倍。離婚による母子家庭の急増で、経済的支援と

なる児童扶養手当の受給が増える。しかし、国は児童扶養手当を抑制する代

わり、自立支援に力を注ぐ傾向にある。どの企業もリストラでぎりぎりの人員。

母子家庭の自立の道は険しい。

濱田も現在、離婚訴訟を四件抱えている。いずれも泥沼だ。たとえ、最高

裁までいって勝訴したとしても、慰謝料を払わないやつは払わない。離婚は

できても、結局、泣き寝入りということも多い。籍を入れたために、地獄の

ような生活を強いられる場合もある。どの道、合法的な処置は、人間を救う

場合もあるが、そうでないこともあるのだ。

 社会面を開くと、自殺者四年連続三万人台、家出も十万人突破。

 負債や失業など経済・生活問題による自殺は、年齢別では、六十代以上が

一万八百九十一人、次いで五十代の七千八百八十三人、四十代の四千六百四

十三人。職業別では無職が一万四千四百四十三人とほぼ半数を占めている。

 不用意にコーヒーカップを口に運んだので、危うくこぼしそうになった。

胃の辺りがきりきりと痛む。調子がよくない。二度目の胃薬を氷水でぐいっ

と飲んだ。ついでに顔を水でざぶざぶ洗った。顔を拭いていると、須郷がど

こか遠くから叫んだような気がした。そのうちあいつは俺にも連絡してくる

だろうか、俺が弁護できるようなことは何もないのだろうか。頭の中は靄が

かかったようにすっきりしない。

短編小説「朧月夜」四

「残業をして、一杯ひっかけようか、電車に乗るために地下の階段を下りよ

うかと思案している時だった。ふっと、ホテルに下がっていた映画の広告が

目に入って、たまには映画もいいかもな、と思った。その瞬間だったよ。真

理が俺の横を子供の手を引いて通り抜けたんだ。まるで、夢の中の出来事の

ようだったよ。あの頃とちっとも変っていなかった。ワンピースを着て、髪

を後ろで止めていた。子供は小学生低学年くらいだろうか、女の子だった。

もちろん、向こうは俺には気が付いていない。心臓が止まるかと思うくらい

驚いて息をのんだ。もちろん、追いかけて行く勇気もなく、俺はボーッと立

ち竦んでしまった」

「真理って、東京女子大に通っていた」

「ああ。俺は、何度も頭を振った。外国人と結婚してイギリスに住んでいる

はずだし、故郷も秋田だったからな。それに子供が小さいということがな、

やっぱり人違いだと思ったよ。でも、何らかの事情で帰国して、偶然にもこ

の町に居てもおかしくない。とりあえず、バス停のベンチに腰掛けた。そし

て、何で俺は、あいつと別れる羽目になったのかと、馬鹿なことを考えたよ」

「卒業前は、小田急の喜多見だったよな。俺も真理さんにはお世話になった

からね。切りたんぽを何度かご馳走になった。英語が堪能で、レポートを手

伝ってもらったりもした。卒業と同時に真理さんのアパートに訪ねたときに

は、真理さんは、居なかった」

「ああ。そして、俺は故郷に帰った。だからいまさら、やあ元気かい? も

ないもんだよな」

 沈黙が流れた。小柴は、しばらくマティーニの中に浮かぶオリーブを楊枝

で突付いていた。

あの日小柴は、魂を抜かれたような状態になって歩くことを忘れていた。

取りあえず、バス停のベンチに腰掛けて、真理のことを回想した。もう遠い

昔のことなのに、真理が台所に立ちながらあれこれ話しかける姿である。

「それでな、話はもう一つある。ベンチに座ってボーッとしていたら、横に

制服を着た女子高生が座った。そして俺の耳元で囁くんだ。『おじさん、私

が慰めてあげようか』俺は苦笑したよ。その子が言うんだ。『おじさん、泣

きそうな顔をしているよ』って。我に返ったよ」

小柴は、静かにため息をついた。

「それで、俺はふらりと立ち上がり、バス停の前にあるバーのドアを開けた」

「そういうことか」

 話を聞いた濱田は、小柴の気持ちを観念的にではなく、胸の奥のほうで共

有できると思った。真理がもうあの時の真理でないと分かっていても、小柴

は、いつかまたここで真理に会えるかもしれないと思っているのではないだろ

うか。男には、そういう優しさの混じった弱さがあるのかもしれない。

「過去ってのは、残酷なものだよな。いつか自分の目の前に叩きつけるよう

に現れる」と小柴は吐き出すように言った。

「誰だって、偉そうにしていても、叩けば埃が出るし、弱さもあるもんだよ。

俺は因果な商売をしているからな。一人で寝る前にウイスキーを飲んでいる

と、これでいいのかと自問自答することがあるよ」

濱田は、被告の妻から唾を吐きかけられたことや、クライアントが自殺し

たことを思い浮かべた。

「俺の悩みなんて、別段なんてことないのかもしれないが、滅入る夜もある

さ」

 そう言いながら、濱田は胸が痛んだ。本当に俺は本心からこの言葉を言っ

ているのだろうか、そう思った。

「去年も、犬山が上京する前の日に、四人で飲んだよな」

「ああ」と、濱田は答える。

「あの時に、須郷が連れて行ってくれたショットバーで、おいぼれたじいさ

んと出会ったのを覚えているか?」

「ああ。犬山と須郷が俺の事務所に六時頃訪ねて来て、俺はあわてて仕事を

終え、背広を掴んで事務所を出た。おまえは、職場からまっすぐ店に来た。

あのことが、どういうふうに始まったのか、俺は記憶がないのだが、あの一

瞬の情景はくっきりと瞼に浮かべることができるよ」

「おまえもそうか。俺も、どういう訳か、あのじいさんのことをふっと思い

出すことがあるよ。真夏というのに、秋物の古めかしい背広を着ていた。野

武士のような顔をして、浮世離れした足取りですっと入って来て、すでに決

められていたかのようにおまえの横に座って、静かな声でウイスキーを注文

した。おまえは、何も気にしていなかった。じいさんが口を開くまでは。あ

れから一度もその話をしたことはないが、須郷も犬山もそのことを覚えてい

るような気がするよ」

「そうか。キザな言い方だけど、俺も胸の奥に畳んだままで、深くは考えた

ことがなかったけどな」

「真理と出会った夜も、あのじいさんと出会った時のようなぼんやりした月

夜だった。朧月夜というのか?」

「…………」

「あのじいさんの言ったことを覚えているか?」

「ああ。考えれば、あのじいさん、この世のものではなかったような感じが

するよ」

《おい、そこの出世したおにいさんよ。バッジをつけたおにいさん。俺は、

戦争中に人肉食ったことがあるんだ。それは、罪になるのかい》

「たったそれだけのことだったが、衝撃的だったよなあ。そして、空になっ

たグラスを一振りした。氷がカラリと音を立てた。おまえは無言だった。そ

れから、いつの間にか、そのじいさんは隣にはいなかった」

「…………」

あれは、俺に対する何かの戒めだったのかもしれない。はっきり言って、

俺は、挫折を知らない。それを恥じることがある。確かに、あの目は正気だ

った。俺をかっと見つめ、真正面から挑んで来たように思えた。そう思うのは、

俺の勝手な妄想かもしれないが。そう濱田は心の中で呟いた。

 二人のカクテルグラスは、すでに空になっている。だが、沈黙が時を忘れ

させた。白いリボンをひらりとさせ、知美という少女がにっこりとして「も

う一杯いかがですか?」と言うまで。

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