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一日中、なんだか気ぜわしく、いろいろとやっているのだが、しばしの体やすめをしなければやっていられないくらいの勢いのある太陽が昇っている。それによって、体が何かに目覚めたような気分になっている。もともと自然と人との関係は、共存だが、人がそれに従うということは、当たり前のことなのだ。暮らしという中の満足は、そうたいしたことではない。好きな植物が元気にしていること、灼熱の太陽の下のほっとする場所と喉を潤す何か。たまに吹く涼しい風と、光溢れる目の前に広がるベランダ。読みかけの書物、バックミュージック、生きてきたプロセスのその時々のそれぞれの風景は、まさしく乗り越えてきたもの。それぞれの場面で、それを支えてきてくれた友人たちの存在。居心地の良い部屋の中の自分との客観性など…。贅沢な時間を持って過ごしたいと思う。生きていれば、何かある。生きてさえいれば…。光がそれを物語っている。そんな夏の昼下がり、おのずから口元がゆるむ。贅沢な時間とは、自分を豊かにするものを見つけるだけのほんのちょっとした能力だろうと思う。 人はいつも新しくなっている。そんな感じがしてならない。常に脱皮しているようだ。その所以は、自分の書いた日記などを見ると、なんだか、乗り越えてクリアーしたものばかりだ。当然、過去のことだからそうだろうと思ってしまうが、それはちょっと違う。その時々で、ずいぶん悩んだこともある。しかし、その時の自分とは明らかに違う自分を見出している。昔に心から信奉したものは、もう血肉になって自分の一部となっていて、そのことにさえ気がつかないが、その時々のプロセスを踏んで、今があるということに気がつくと、どんなことにも感謝したくなる。それは数えられないくらいの細胞の死と再生のたまものだ。 誰にでも愛している人がいるだろう。愛というとそれぞれの概念があるのかもしれないが、愛は、その人の面影が最も輝いてほしいと思う気持ちだと思っている。もともと、愛は、所有するものでもなく所有されるものでもなく、風のようなものだ。ふと、その人の存在を思い出したり、感じたりする時に、その人の幸せを祈ることができるといい。気持ちを自由にしていると、やはり、光あるものに目が行くようになる。不思議なことでもなんでもないが、とらわれるものが何もない状態になることは、とても難しい。たまたま幸運にもそういう時期が来たら、喜ばしい状態だと私は思っている。それは、外から見るありようではなく、心の中の有り様なのだろう…。実人生が決まりきったルーティーンだと思うと実にもったいない。生きることの刺激になるもの、それをうながす物や人は、自分のまわりに存在しているものだ。人と常に群れるのは好きではない。自分と他者との距離感は、その人自身の生き方そのものなのかもしれない。 恋をする女性は、一日中、彼のことをのべつまくなしにお喋りしても飽きない。一日二十四時間の一分一秒が彼中心にまわっている。しかし、そういう恋をしたことのある女性は、幸せだと思う。あとから、いかに熱にうかされていたかも分かるが、自分がその彼を本当に好きだったということも同時に分かる。その、「本当に彼が好きだった」と、心から言えることが大切だと思う。 一週間に一度、かやぶきの家で英語を教えている。そこは江戸末期の漁師さんの家を復元したもので、土間があって、どことなくひんやりしている。土間は、専門的には「庭」と言うそうだ。当時は、その土間を地域に住む人々の通路にしていたそうだ。つまり、他者の家の中を通行して、目的地に行くわけだ。夏には、納戸で昼寝をしていることもあるだろうが、プライベートな仕切りはない。現代は、物騒で、そういう訳にはいかないだろうが、入り口に鍵をかけなかったということが分かる。地域の人たちが密接に寄り合っていたことも想像できる。現代は、他者を家にあげることを敬遠する。キッチンなども見られることを嫌がるのかもしれない。日本に住む外国人が、口を合わせて言うことは、「家に招かれると窮屈で仕方がない。応接間から出ることができない…」。その状態が想像できるので、思わず笑ってしまった。外国では、けっこう見せることに抵抗がない。ここがキッチン、寝室、書斎だと案内してくれる。見せるということを考えていれば、お部屋を片付けることも楽しいし、センスも磨かれるのかもしれない。家族だけのための家か、それとも招く人たちのことも自分たちのライフスタイルに入れているかで、風通しが違う。私は、「ちょっとあがってコーヒー飲まない?」のお付き合いが好きだ。 ボランティアについて…。究極的には、自分の成長のためにすることがボランティアだと考える。その認識は、日本のものとはちょっと違うかもしれないが…。私もひそかにやっている事がある。それをすることによって、私自身が安心感に包まれる。ちょっとでも役に立てているのではないかと思うと、嬉しくなる。そんな気分の安心感と自己教育のようなものだ。ボランティアというのは、やらせて頂いたことがありがたいことで、密かにするものだと思っている。 話せる友人の存在は、常に嬉しい。会話の中に必ず触発されることがある。お喋りは、ただのお喋りとはちょっと違い、ご機嫌伺いなどはパスだ。話をしているうちに、自分の考えが自分の内部でまとまってもくるし、課題を増やすこともある。だから、友人は私のセラピストの役割を充分に果たしているし、相手の存在で成長をしているとすら思っている。もちろん素の状態でのことだ。 むらさきの衣を着たり桔梗花母の着物の懐かしい影★瑠 演劇を見に行った。つまらなかった。それは何故だろうかと今は考えている。翻訳物というのは、翻訳でしか知りえないという宿命があり、その宿命を考えた上での判断をしなければいけないのだろうが…。 瑠璃子のメモ★今日はウイッキーが上手く作動してくれず、字がはみ出しており、読み辛いと思います。ごめんなさい。 ★ブログは文字【最大】で編集しております。文字列は最大にするときちんと整列すると思います。
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