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写真提供・Mr.ティディ ★ 音楽タグが出てくるのは時間がかかります。 ★ ▲をクリックして下さい。 明治十八年にお鶴という女の子が東京の片隅で生まれました。
女の子の目は切れ長で美しく、鼻筋も通り、色も白く、玉のようだったそうでございます。母は、お鶴が生まれてこの上なく幸福でした。
母は没落士族の娘ではありましたが、事情があって、柳橋の芸妓でありまして、お鶴は、いわゆる妾の子として生まれたのであります。そういう事情で、お鶴は生後七日目に立派な血族の旦那様のところに引き取られました。明治十八年と申しますと、尾崎紅葉らが硯友社結成し、山田美妙や石橋思案らが近代文学の確立した時代でございます。ともかく、お鶴は、旦那様の家に引き取られ、その正妻の次女として入籍されました。 当時の血族の良い家系の習慣として、いったんお鶴は里子に出されて、再び旦那様の家に戻り養育されました。生母は嘆き哀しみました。そして病の末、お鶴が小学生に入った年にあの世の人になりました。お鶴は、自分が結婚するまで自分が妾の子とは知りませんでした。旦那様には、お鶴の母の他にも妾がおり、その妾は子宝に恵まれませんでしたので、その妾はお鶴を妹のように可愛がり、お鶴の生母の死後は我が子のように大変可愛がったそうです。 明治三十三年にお鶴は結婚をしました。お鶴、十四歳でした。男の子を出産しましたが、その結婚は五年と続きませんでした。そしてその後、お鶴は実家に戻りました。明治四十一年にお鶴は、女子だけの高校に入学し、寮生活を送ります。そこで、短歌を学びました。その年にお鶴は短歌集を出版します。お鶴の歌人としての第一歩でした。 明治四十四年、お鶴の二十七歳の頃、財閥の旦那様と再婚します。祝福された結婚であったのです。しかし、そこには複雑な家族模様がありました。妾の子、義父の妾の子、妹の子、母方の従兄弟などが同居しているのです。それに、数十人の女中や下男もおりました。更に旦那様にも数人の妾もおりました。 そのような苦労にも耐えながら、お鶴は、ひたすらに歌を書き続けました。その歌に自分の心を託したのです。そして文壇に作品を発表し続けました。 涙も尽き果てた頃、お鶴は、一人の男性に出遭いました。大正九年のことです。その時からお鶴は恋する女になりました。そして、彼の子を宿しました。その当時は、姦通罪がありました。情人のところに走ります。その時代の恋は命がけでした。 大正十年、お鶴は「私は今あなたの妻として最後のお手紙を差し上げます」という文字から始まる手紙を書きました。「結婚当初から私たち夫婦には愛と理解が欠けておりました。・・・・私はあなたの元を離れます」と。 お鶴、三十六歳の秋のことでございます。 その後、お鶴は、その人とは最後まで添い遂げ、それから八十二歳で他界するまで人を惹きつける心の歌を書き続けております。波乱に富んだ人生でした。 文★瑠璃子 参考文献 日録20世紀 講談社 wikipedia 転用不可
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