Chapter 1 「望郷」
形あるものは、すべて壊れ、あるいは、形を変え、人は忘却する。
坂を登ると、高台にお寺がある。
境内に入ると、真向かいに納骨堂があり、左手に本堂がある。その中央に三百年にもなる銀杏の木があり、山手には墓地がある。
本堂の前の階段に座り、軽く目をとじると、かすかに風が吹いており、やわらかな日差しが瑤子の体に降り注ぐのがわかる。
さらに目をとじると、今は亡き先人たちの亡霊が姿を現し、静かに歩いているのが見えてくるようだ。
ここが、瑤子にとって唯一の望郷の場所であり、ここに、自分の存在を確かめられる宝が残存し、幸せを感じる瞬間がある。
体を自然にまかせて座っていると、過去の自分の分身が華やかに飛び出し、どこまでも懐かしい旅ができる。ひとしきり、旅が終わると、先人の仕草のひとつひとつ、そして歩き方まで覚えていることで、心が静まり、おだやかな気持ちになれるのである。
寺で生まれ、仏飯で育った瑤子がしなければならないことは、昔から変わらぬお顔でいらっしゃる仏に語りかけることと、先人に対しての語りかけであるのだということに心が向きはじめている。
どちらかと言うと、お参りというよりは、じっとそこに座っていることもあれば、ただただ先人を思いおこしているだけの時も多いのだが、おもいおこすということが、形式だけの御供養より、どんなに気持ちのいいものだろうと思うのである。
その昔、瑤子の母の多枝がF市のお寺から温泉地の寺へ移って来た。もっとも、その当時、多枝は十歳であったから、多枝の意志ではなく、多枝の両親の考えであった。移って来た当時、寺はすでに五年も無住であり、破れた障子が風でかたかた鳴っていた。多枝は、何故こんな所に来たのだろうかと、父母を心の底では恨んだと言う。
瑤子の父が五十年住職を務め、病気で西方したので、多枝と瑤子は寺を出た。
寺というのは、跡継ぎがいなくなった段階で、後継人に譲って出ていかなければならない。しかし、そこで生まれ育ったものは、いつまでも自分の特別な場所として心に沁みついているもので、代が替わった後、境内に佇むと、一抹の寂しさもあるものだが、先人たちと会話をすることで、瑤子の思惑や感情は、すでに浅はかなものとなって水に流れるものであり、いずれは、生きとし生けるものは、公平に形のないものになっていくのであるということが、身にしみてわかるのである。
最近、瑤子の父が亡くなってから、父の学生時代のクラスメートであった和尚さまたちからお手紙を頂き、瑤子の知らない父の一面を知ることができて、ありがたく思っている。その和尚さまたちと自然にお手紙を交わすようになった。瑤子の父の年齢であるから、老僧である。流れるような墨字で、とおり一辺の文面ではなく、てらいもなく、世の無常、人の無情をしたためて下さることは、ご縁があってのことだと感じて、気持ちがあつくなるものである。
仏に仕えて来られた和尚さまが、自分の死を、きわめて自然に、当たり前のこととして表現され、和尚さま御自身の死への覚悟のようなものを文脈から読み取る時、改めて、ようやっと、この世を大きくとらえることができる気がするのである。
生前は、何気なく聞いていた父の言葉も、今頃になって心に染み入るものであり、それが瑤子の指針になっていたりもするもので、「散る桜、残る桜も散る桜」という父の声が聞こえるようである。めずらしいことに、この日は私の目の前に鳩が降り立った。なんとも言えぬ気持ちになったのは言うまでもない。仲間とはぐれたのだろうか。高台から真正面に見える街並みが、小雪で白くなっている。
子供の頃に通り慣れた道もきれいに舗装されて、昔と同じ面影はあまり見られないが、緑の多い山並みは変わっていない。古くなった家の前を通ると、その家の戸口に腰の曲がったおばあさんが立っていたりする。声をかける。瑤子にとっては、懐かしい近所のおばさんであるが、おばあさんは、「どなたですか」と目を細めて瑤子を見るのだ。
その隣にある家の中からも先人が今にも出てきそうだが、そういうはずはない。
月日は着実に経つものである。
そして、静かにすべての道のりを教えてくれるものである。
心の中には、三十年前は現存するが、実際にはもう現存しないものである。
一瞬の過去の思い出ということになる。
未来とて同じだ。
一つ一つ、今、この一瞬でさえも、
過去にこぼれていくものであるからだ。
時間の存在は心にあり。
そして、自分の存在の理由も心にあり。
望郷への思いは、それを教えてくれるものである。
文★瑠
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