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少女革命ウテナ

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人を大切にする気持ちを忘れ、誰かの犠牲の上に得る力に何の意味があるのだろう。

世の中に特別な人っていますよね、
スタイルが良いとか美人だったり、格好良い、
スポーツができたり、頭が良い人とか。
いわゆるどこかオーラがあって、輝いてる人。
私のようないわゆる“普通”の人には中々なれそうもない、“特別”な人って。
例えば、ゲームとか漫画・アニメだとかの主人公。
大抵実はすっごい能力があるってパターン。

今回、そんな“普通”の人として登場した、
篠原若葉という子に焦点を当てたいと思う。

話の筋としてこの黒服の子(篠原若葉)は、ピンク髪の子(ウテナ)と親友で、
途中に出てくる学校で人気のワカメヘアーの先輩に惹かれていたのだが、
ラブレターを人の目に付くところに捨てられ、他の無粋な男子生徒に笑われてしまう。
その後、この先輩が諸事情によって退学処分になるが、彼を彼女は過去のことは気にせず、
全寮制で他の生徒や部外者を止めてはいけないはずだが、彼女の部屋に匿う。
大好きで憧れの先輩が私を頼って自分自身がすべてになっている。
しかも、せめてものお礼ということで髪飾りを憧れの先輩の手作りで創ってくれるという。
そんな時、彼女は自信に満ち溢れ、もう一歩で“特別”な人になるような輝きを放っていたが、
“普通”の人、多くの人にとって、“特別”な時間は長くは続かないのである。

ただ、徐々に学校のことや以前から先輩が思いを寄せていた
紫髪の(姫宮)アンシーの事を気にするようになり、
いずれこの2人だけの世界から出て行ってしまう。
それに気付いたある日、その先輩が創ってくれていた髪飾りを、
あの、姫宮アンシーが着けて颯爽と歩いていたのである。
先輩の思いも、彼が出て行ってしまったら、
唯一の繋がりとなる髪飾りをとっていったのである。
それを見た時、彼女の何かが爆発した…。

そこでまず、この「少女革命ウテナ」の神回の一つと言われる
第20話「若葉繁れる」の決闘シーンをご覧頂きたい。

お聴きになられただろうか。
「お前には分からない!分かる資格などない!!」
「お前も、その女も、生徒会の連中も。みんな私を見下しているんだ!
 何の苦労もなく、生まれ持った力を誇ってな!だからお前たちは平然と」
「人を踏みつけにできるんだぁ!!」

『お前には分からない! わかる資格などない!』
つまりウテナにはわかる「資格」がないのである。
普通だったら『分かる必要などない!』となるはず。
しかし、「資格」とすることで、
“特別”な人生を生きるウテナと“普通”の人の自分との大きな隔たりを表しているのでしょう。
自分自身がどんなに頑張っても手に入れられないものを持っているウテナに対し、
今まで溜めていた妬みなど、心の奥底にあった心の闇が出てきたのでしょう。

『もって生まれた力を誇ってな!』
この言葉にも憎しみ、そして悲しみが詰まっています。
自分はどんなに努力をしても「普通」のままなのに、
“特別”なやつらは多分に努力をして今の評価を受けているんだろうけど、
元から努力しなくても“特別”な存在でいられる。
そのことへの悔しさなのだろう。


『おまえたちはみんな平然と……、他人(ヒト)を踏み付けに出来るんだ!』
このセリフは若葉の心の叫びではないでしょうか。
“特別”な人は、知らず知らずの内に“普通”の人を傷付けるだと思います。
別にさらっと難しいことをやってのけるとか、ではなく、
天才の人の中にはたまに

「自分と同じように全ての人が須らくできる」

と思っている人がおり、特にそういう人に対する言葉なのだろう。
“特別”な人は、“普通」の人の気持ちがわからない。


彼女はいわゆる“普通”の人、その他大勢の人の象徴として描かれているが、
そもそも“普通”の人とは何だろう。
一人ひとり違う人間(いきもの)なのに、
いわゆる“特別”な人でない大勢の人を“普通”の人と言うのだろう。
おそらく、“特別”な人がもつ特別な何かを持たない人を
“普通”の人と言うのだろうと思う。

“普通”の人が“特別”な人になるのは非常に難しい。
今からどんなに努力しても安室奈美絵さんやB'zの稲葉浩志さんのような
カリスマなることはまず不可能。
“特別”は生まれつきのもので、どうこうしてもなれるものではない。
「コードギアス反逆のルルーシュ」にこんな台詞がある。

人は!平等ではない・・・。
生まれつき足の速い者、美しい者、親が貧しい者、病弱な体を持つ者、
生まれも育ちも才能も、人間は皆、違っておるのだ。
そう、人は、差別されるためにある!
だからこそ人は争い、競い合い、そこに進歩が生まれる。
不平等は!悪ではない・・・。平等こそが悪なのだ!
(後略)


ここで言う、「足の速い者、美しい者」がいわゆる特別な人である。
例えば、体の弱いものが、足が速くて体が丈夫な子と徒競走をしたら、勝てるだろうか。
答えは、否である。

ただ、“特別”な者になるよりもっと難しいのは、
“普通”の人になることだと私はおもう。
先程、私は個人的な“普通”の人の定義を

“特別”な人がもつ特別な何かを持たない人を“普通”の人と言う。

としたが、その人がいる世界の中(学校、その人が住む地域、会社など)で
(要領よく)仕事/勉強ができる人、みんなから好かれるなど“特別”がなければ、
みんな“普通”であり、“普通”の定義がみんなバラバラだからだ。

だが、他人から決められた“普通”なんて御免被る。
その人の“ふつうにしてくれる”人という意味ならどうだろう。
それは、とても素敵なことではないだろうか。
若葉は、親友であるピンク髪の子(ウテナ)が精神的に追い詰められた際、
ウテナの“ふつう(=普段)”を取り戻すきっかけを作っている。
それを考えれば、若葉自身気付いていないだけで、
その人の“ふつう”を引き出してくれる”特別”な人ではないだろうか。
同じ“普通”なら、相手の“ふつう”を引き出せるような人になれ、
との暗示も彼女の存在には含まれているのだろうか。

相手がどう感じるかを重点に考えて、
相手を想う気持ちのない力(言葉の暴力も含む)は、何も産むことはない。
若葉の言う「(“特別”な人は)生まれ持った力を誇り、平然と人を踏みつけにできる」人の
“特別”な力は、人を大切にする気持ちを忘れ、
誰かの犠牲の上に得る力に何の意味があるのだろうか。

それは、否だと私は想いたい。

少女革命ウテナ知らない人はごめんなさい。
前提を含め、書き書きしますゆえ。


このアニメの主人公、天上ウテナは鳳学園に転校してきた。
その転校してきた理由は幼い頃救ってくれた白馬の王子様(ディオス)に憧れて、
逢ったときに貰った薔薇の刻印(と言う指輪)によるものである。

ウテナはちょっとしたトラブルに巻き込まれて、
薔薇の花嫁(姫宮アンシー)ひいては世界を革命する力を巡る決闘に巻き込まれることとなる。
実はその決闘を主催しているのは薔薇の花嫁である
姫宮アンシーの実の兄の鳳暁生であった。
この鳳暁生と言う人物、幼少だったころのウテナを救った王子様であった。
しかし、ディオスは人々の願いを叶えすぎて倒れ、
アンシーを魔女にさせた上に世界の果てに成り下がってしまい、
人を大切にする気持ちを忘れ、誰かの犠牲の上に得る力に骨子してしまうようになった。

その鳳暁生とウテナは、世界を革命する力をかけて決闘することとなる。
アンシーは当初ウテナのような自立した“個”としての生き方を受け入れられなかったが、
結局受容して鳳暁生を見限って自立して生きていくことを選んだ。
が、その代償として新たにアンシーの王子様になったウテナは死んだ。

ウテナが経験した決闘のうち、有栖川樹璃(ありすがわじゅり)と言う女生徒と
世界を革命する力に奇跡を託していたものがある。
彼女は叶う見込みの少ない恋をしていたからだ。
その思い人と言うのは女性だったから…。

そこに現れたのが土谷瑠果(つちやるか)という樹璃にとって先輩に当たる人物であった。
瑠果は、樹璃の想い人(枝織 しおり)を知っていた。
その上で、その想い人である女生徒と樹璃にとって手酷い対応をする。
が、しかし、その行動は樹璃をその女生徒の呪縛解き放つための
不器用ながらも優しさからくる行動であった。

なぜなら、彼は登場した際、不治の病で余命いくばくもない状況を知っていたからだった。
自分にとって大切で愛する者が苦しんでいるのを知ったら、
自分自身の命を削ってでも助けたいというのが人情ではないだろうか。

瑠果の死亡が暗に知らされたラストにあった台詞に
『愛する人に奇跡の力をあげたいって。 あの人を解放してあげたいって』とあった。
それが実際、樹璃に変化があったかということだが、
この台詞が話された前後に樹璃の日常の映像が流れる。
そこには当然、瑠果は出てこない。
だが、樹璃は忙しいけれども安らかな日々を送っている様子が分かる。
あの決闘以後、決闘(ひいては勝負)において勝ち負けだけではない、
ということに樹璃は気付いた様だった。
なおかつ、28回&29回を見た人はお気づきになられただろうか?
樹璃・瑠果・枝織の座っていた椅子の向きに変化があったことを。
そして、樹璃が瑠果へ心からのメッセージを話すとき、
枝織が樹璃を追いかけていくシーンがあるが、樹璃はそれまでと違い、振り向く様子はなかった。

これらの樹璃の変化を見ると、樹璃は自分の命をかけて樹璃の価値観に変化を与えたようだ。

ウテナとアンシーにおいても、男にこびたりせず、自分自身の意思を持ち、
自立して歩いていけるような女性は素敵であるという生き方を受容させた。

ウテナも瑠果もはアンシーもしくは樹璃のの価値観を変え、鳳学園と言う鳳暁生の世界から出て行った。
そう考えれば、ウテナ≒瑠果、アンシー≒樹璃といえるだろう。

ガーネットオフ途中抜け後、
テアトル新宿にて「少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録」見てきました。

アニメ版と映画版の最大の違いはラスト、
ウテナとアンシーが一緒に外の世界へ出ると言うこと。
アニメ版では、ウテナがアンシーの価値観を変革することや引いては視聴者に対して

・大人になることとは(引いては自立することとは)何か
・相手を思いやる大切さ
・女性は素敵な王子様と結ばれることが本当に幸せなのか
・未だ残る男尊女卑(女は男に付き従い、でしゃばらない美徳みたいなもの)

ということを考えさせていたのかと思いますが、
映画版では、過去や既知のものに束縛されず、新しい自分の一面を発見し、
それを認めることを続ける永遠の前進をウテナも外の世界に行けたのだろう。

アニメ版の場合、ウテナがアンシーの新しい王子様として、アンシーの世界を変えた。
誰かに宿り木のように頼ってばかりではなく、
大人になって自立してくことの大切さを伝えるのに肝心な
革命される者へ多大なる影響力のある王子様が今後もずっとそばにいれば、
その王子様の世界の中に深く影響されることとなる。
そしてアンシーはウテナの生き方を受け入れ、ウテナを必要としなくなった。
アンシーはウテナによる決闘や共にいることで感情が芽生え、またその中で生きている。
だからこそ、ウテナは(アニメ版)では「死ね」と……。


映画版では、ウテナの王子様は冬芽であり、アンシーの王子様はウテナになった。
上でも書いたが、過去や既知のものに束縛されず、新しい自分の一面を発見し、
それを認めることを続ける永遠の前進することがテーマになっている。
ウテナもアンシーも冬芽や暁生という王子様を結果的に殺したという過去に
ウテナは冬芽のような生き方に共感して、アンシーはウテナの生き方に共感する。
そして、お互いの足りないところを補いながら生きていく…。
個々で大切なのは、ウテナも過去のことに決着を冬芽と再会した後しているということだ。

アニメ版では、親の死から生きることに無気力さを感じるが、
ディオスからアンシーの体感時間による永遠の苦しみを知り、
ここで親の死という過去に決着をつけ、
アンシーという女性を救うという新しい強い自分の一面と共に永遠の前進を手に入れた。
そのため、アニメ版では死に、映画版では共に生きるという形にしているのであると思う。

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