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			<title>音楽芸術の日々</title>
			<description>できるだけ、現場（歌劇場・音楽院）の音楽専門家からみた音楽の本質を書き留めていきます</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>音楽芸術の日々</title>
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			<title>音楽のための教育</title>
			<description>音楽教育の現場について、よくある表現で「音を楽しみなさい！」と教師が言うことがあります。果たして「音を楽しむ・・」とはどんなものか。まず、たいていの場合は自分が楽しんでいるように弾く演奏者は、聞き手（聴衆）に対して心地よい音を発していないことが多い環境に出くわします。もちろん、自称プロという人々にもたくさんその現象がみられます。「聞くに堪えない・・」と思っても、我々日本人は笑顔をたやさないで、演奏者を褒め讃えるシーンもよく見受けられます。とくに、音楽学校関係の先生方の発表会では、見ていて恥ずかしくなるくらいの花束とお土産が舞台上に届けられたり・・さて、さりげないことですが欧米でお花をもらうとき、演奏者は誰からもらうか、その花束をどう扱うか、これらの一つ一つに注意をはらいます。主催者から儀礼上もらうものに関しては、ときに他の女性の演奏者に渡してしまうことは許されますが、たいてい舞台そでまで有り難く持って帰ります。そのあとは、旅行で移動するときなどは、地元の関係者に感謝をこめて置いていくこともあります。しかし寒い地域、たとえばロシアなどでは花は貴重品ですから、一本一本に思いをこめて別れをつげている様子などが見かけられたり・・花束の意味に、良い演奏者たちは心を傾けるのが常です。花を愛する・・そのような演奏を彼らは聴衆に残します。花一つとっても、音楽に携わる人々の心が表れてしまうのも皮肉なものです。当然、花に託された感謝の気持ちを、音楽家は認知しなければなりません。軽々しく人に渡す行為は戒めなければいけないと考えます。音楽にそのまま影響していくのです。では、最初のテーマである音楽を楽しむとはどういうことか・・やはり良い演奏をめざし、プロの演奏家ならば客席に感動を届けることが誇り高い喜びといえるでしょう。その会場での感動の根拠はどこからくるのか・・それは「美」です。美しい音楽をいかに表現するか・・とはいえ、発展途上の音楽学生などに、そのことを要求するのは厳しすぎるかもしれません。しかし、少なくとも「ひたむきさ」は提供できるはずです。舞台では、演奏者の生き様がすべて出てしまいます。高慢な生き方をしていると、鍵盤をたたきつけたり、喉でどなったり、偉そうに楽器を演奏したり・・気弱な人は、心細い音を出してしまったり、客席を不安にさせたり・・音楽と生き様は、まさに連動します。このように音楽教育は本来、深い人間教育にもつながっているのです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/3437930.html</link>
			<pubDate>Mon, 03 Mar 2008 18:41:51 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>音楽のプロデュース</title>
			<description>まさに「制作」という言葉が当てはまりますが、音楽の中でもさらにジャンルが細分化されるところでしょう。とりわけ、ＣＤやＤＶＤといった聴覚と視覚を織り交ぜた商業ベースの世界でもプロデューサーが必要でしょうか。その任務としては、まずやりたいことが何かあり、そのために財政的な計算を計画することが優先事項かもしれません。興業主（インプレサーリオ：伊語）がいて、音楽業界の人脈を動かして聴衆の趣向とのバランスを図りながら企画を立てていく。ディアギレフというバレエ界の興行主がいましたが、彼はニジンスキーという天才バレエダンサーを見いだしたことでも有名です。当時のあらゆるアーティスト、たとえばピカソ（画家）やストラヴィンスキー（作曲家）などとの交流もあり、当時の社会への鮮烈な働きかけは目をみはるものがあります。プライベートな部分では何かと問題があったことは否めません。ただ彼のスタイルが、今の興行界のリーダーシップ的位置づけになっていると言っても過言ではないと思われます。また、テレビ局内のプロデューサーは比較的、サラリーマン的要素が強いのはやはり制約が多いせいでしょうか。とはいえ、プロデューサーの条件としてやはり人間的な魅力を掲げないわけにはいかないはずです。知識とある種の品格・・人を引きつける魅力や相手に対する説得力など。ちなみに、財政収入の部分で大きく左右するのは、経済界との人脈が作れるかどうかも大切な要素でしょうか。かつての日本は財閥のような大金持ちが存在していましたが、今はそのような貴族的な階級は出現しない時代になりました。せいぜい広告収入を得るぐらいの金銭的やり取りはあるでしょうが。むしろ、地方行政や国の文化事業費に群がることぐらいでしたが、今やそれも衰退の一途をたどっています。チケット収入は、ミュージカル公演などでは大きいです。会場の提供や広告スポンサーになってもらうだけでも相当な経済効果があります。その意味で広告代理店の仕事はこれまで羽振りをきかせてきました。一般大衆へのアプローチとして、情報操作を含めて、メディア媒体を通じて様々な欲望を注ぐ、という言い方は強烈すぎるかもしれません。これから知識と良識、さらに高度な人類発展をめざす大物プロデューサーの出現を待ち望んでいます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/3407355.html</link>
			<pubDate>Mon, 03 Mar 2008 00:24:41 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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			<title>作曲の技法</title>
			<description>音楽大学の作曲科に入学すると、作曲することが義務になります。まして、そこで教職に就くとなると、作品を書くのは出世のため、昇進のためであって、書きたいものを書けるとはかぎりません。しかも、評価されるものしか書いてはいけないので、必然的に書くべき内容は決まってきます。つまり、上司もしくは仲間の作曲教員に良く思われることを前提にしなければならないので、本来の目的が見えなくなることが常です。誰のために書くのか・・もちろん、自分のためです。良い曲を提供したい、という思いはあっても評価が気になることによって、「現代音楽とはこうあるべき・・」という形式で、一般人からは理解にほど遠い不協和音の連続になりかねない雰囲気になります。へたに和声的なメロディーを書くと、安っぽい、という評価にもなりかねません。さて、メロディー（旋律）は横のラインを表現し、ハーモニー（和音）は縦のラインを表現します。リズムや拍子は、あたかも心臓の鼓動のように、そこにエネルギーを与えていきます。あとは、表現するための手段として、どの楽器あるいは歌を選ぶか・・誰のために、どのような場所と条件で発表されるか・・様々な要素に影響を受けながら、作品は生まれていきます。しかし、一番大切なことは、作曲家の魂がどのように社会にうったえ働きかけていくのかでしょうか。独りよがりな発想で、聞き手に対し良い影響を与えない作品は、何もしなくても消えていきます。かつて、作曲家たちは生きていた時代の要求に合わせて仕事をしていました。ヴィヴァルディは孤児のために作品を書きました。ハイドンは、仕えていた君主のために作品を書きました。シューベルトは友人たちに作品を残しました。ワーグナーは借金に追われて逃げ回りましたが、最後にルートヴィッヒ二世に好かれて、国の財政を破綻させました。ヴェルディは出版社との良い関係に恵まれました。しかし、あまり急速に作品を残していこうとした才能ある作曲家たちは、若くして生命を終わらせてしまいました。たとえば、ペルゴレージのように・・　ロッシーニはそれが嫌やで、途中で美食家に転身しました。モーツァルトは最後まで頑張りました。多くの貴重な残された作品を糧に、現代の音楽家は生計を立てています。しかしながら、これから後世に残るような作品が出てくるかは、とても難しい社会情勢です。お金がすべての世相の中で、お金にならない作品は生まれるのか・・作曲する目的が純粋な心から発し、才能ある作曲家が才能をつぶさないで作品に没頭できるか・・そんな世の中になることを期待します。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/3226211.html</link>
			<pubDate>Fri, 29 Feb 2008 00:58:04 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>音と調の特徴</title>
			<description>西洋音楽には一般的に長調と短調があり、さらに短調には旋律短音階と和声短音階がある、と楽典の授業で習います。シャープ系の音階とフラット系の音階によって、イメージもかなり変わります。シャープ系は明るいイメージ、フラット系は重厚なイメージがともないます。弦楽器は楽器の特徴からシャープ系が弾きよいといわれています。管楽器はフラット系が主流ですが、例えばクラリネットはＢ♭管やＡ管などの記譜によって楽器を使い分けることもあります。作曲家によっては微妙なニュアンスが変わってくることがあり、変ト長調と嬰へ長調を使いわけることもあります。しかし、確かに演奏者泣かせではあります。同じ音でもシャープ系またはフラット系で違って表現することで、音色や歌い回しが随分と変わってきます。一つ一つの音に特徴があることは、太古の昔から言われています。ハ長調は神の音階と多くの作曲家が表現しているのは良い例でしょう。変ホ長調は英雄的な響きである、とか・・作曲家は演奏する場所や、演奏楽器の特徴で、調を決めなければなりません。近代の超絶技巧をめざした作曲家たちは、意図的に複雑な調を選んで演奏者の技量を見せつけることを良しとしたこともありました。時には無調のこともありますが、現代音楽といわれるジャンル以外は、一般的に調が存在します。また、歌手の歌う音域によって調を代えることもあります。声楽の発声練習は、トレーニングのために半音ずつ上がったり、または下がったりして一定の音階的メロディーを歌っていきます。その時も微妙な調の変化によって、明るい響きにしたり、暗くしたり身体全体を使って、音色を変えていきます。管楽器はたいていにおいて、運指によってピストンやキーを押さえることで響きが決まっていきます。トロンボーンはスライドの調整でかなり音程表現の可能性にチャレンジできます。弦楽器は押さえる場所で響きの変化を出せますが、音程をきちんと取るまでにかなりの練習が必要になります。音感が悪いと上達しません。一般に、音痴といわれる方々は、声帯を含めて肉体のコントロールが理解できていないことが原因としてあります。その人への音感修正のためのトレーニングは丁寧に行なえば、かなり良くなることがありますが、歌うことが好きになれないことが多くなると、生涯を通じて音痴でいなければならないでしょう。先天的な肉体の特徴が原因のこともあるようですので、様々ですが・・　音楽家を志す方々には、これらの様々な音程にデリケートな関わりを持つことは当たり前です。しかし、そんなに際どい追求をせずとも、適当な態度でも音を楽しむことはできます。ただし、人に音を楽しんでもらうことは難しいでしょう。つまり、プロとして音楽を提供するには、音程についてもかなりの修練が必要ということです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/3224305.html</link>
			<pubDate>Fri, 29 Feb 2008 00:12:33 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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			<title>音の彫刻</title>
			<description>彫刻家は、木材や金属などを使って形のあるものを作ります。陶芸家は土を使って作品を作ります。音楽家は音を使って、ある種の造形をほどこします。もちろん、目に見える形を作るのではありませんが、高度な耳を持つ芸術家にいたると、音をあたかも彫刻を創作していくかのように聞き分けます。ある時は、音を色で置き換えたり、薫りに感じたりしながら表現します。指揮者の場合は実際に音をださないで、手や身体の動きで音の形を示していきます。一般的には、俗に交通整理といわれる拍子をきざむことが第一の任務でしょうか。もちろん、性格に拍を刻むのは実にたいへんな作業です。一泊目と二拍目、さらに三泊目が同じテンポで進んでいるか、指揮者当人が判っていないことも多いのです。他の演奏家に指示する以前に、自分を見つめる力が必要です。しかしながら、たいていの場合は自分に酔いしれている感情過多タイプ、もしくはナルシスト型の人が指揮者になりたがるものです。当然、オーケストラ団員から好意的に受け取られる指揮者は、ほんの少数です。さて、音には固有の方向性があり、例えばＨ(Si)音はＣ(Do)音に向かって進む習性があります。たとえ下降する音階の中の経過音であっても、あまり太い音を出すと全体の調和が乱れます。ただし、Ｃes(Do♭)音として扱う場合は、太めの響きにすることになります。それと、ベルカントを勉強されるときは、声区の転換（チェンジ）の場所が、規則的にだいたい決まっていることを理解しなければなりません。その音を通過するときは、声がひっくりやすくなります。怒鳴るように歌う歌手は、声区の転換（パッサッジョ・伊語）の声が引っかかってうまく出せなくなるようです。またオペラ歌手が、おおげさな手振りで歌うことがありますが、それは声の動きを助けるためのこともあります。もちろん、単にクセだけの場合もありますが。音の造形に関して、オーケストラともなると複雑な音の動きがいろんな方向に組み合わさって全体の形を作っていきます。ですから、指揮者はオーケストラを素材にして彫刻しているといえましょうか。もちろん、ひどい指揮者にかかったら、大量生産のハンバーガーと同じになることもあります。良い指揮者は、ひょっとして素晴らしい彫刻家、あるいは絵描きになれたかもしれません。しかし、優れた画家たちは生活がたいへんだったようですから、同じように優れた指揮者もけっして楽な人生ではないはずです。有名な指揮者が優れた指揮者であるかどうかは要注意です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/3118682.html</link>
			<pubDate>Tue, 26 Feb 2008 23:25:26 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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			<title>音の造形</title>
			<description>人間によって作られる芸術としての音には、内部にたくさんのメッセージが入れられていきます。ただしCDなど再生されたものは、あくまで限られた情報しか入っていませんし、たいていは操作されたものになっています。有名なカラヤンの演奏の場合も、録音に関してかなり意図的に修正されたりして、格好良く演出されています。面白いことに日本の指揮者のほとんどはカラヤンを模倣する時期があり、その録音のテンポがバイブルのようになってしまってもいます。良いか悪いかは別にして・・　ＣＤやＤＶＤで見たり聞いたりするものは、やはり生の演奏とは印象が違って当然です。あくまで歴史的な参考資料であって、真実の音とはいえません。しかし、生演奏にはミスも含めてすべてが真実であり嘘がないのです。それだけに日常の生活から人生観まで舞台上であからさまに見られてしまいます。もちろん楽器や歌声は、長い時間をかけたトレーニングによってサウンドが生産されていきます。舞台で優れた芸術家が創り出す美しい音は、多くの人に感動を与えます。自然から生み出される音とは、また違った感動です。人間以外の動植物が発する音と人間が創造する楽音の決定的な違いは、音の中に意思が入ることでしょうか。音には伝わっていく方向がありますし、スピーカーから流れる一方通行のものとはまったく違っています。いろんな方向に音は散っていきます。また音の中に吹き込まれる意思は、演奏者が作曲家の作品をどう読みとるかによっても変わってきます。作曲家においても、それぞれの生い立ちからの経験と、その時の心情によって音の選択も違っていきます。たとえば、ハ長調を「神の調性」として扱っている作曲家が多いのは不思議な現象です。変ホ長調は英雄的な響きとしていたり、へ長調は自然界または田園風景を聞き手に連想させます。歴史に残っている作品の多くは、人間の持つ普遍的な感情や哲学を永久に伝えることができます。これらの優れた作品を、深い理解で再現する音楽家は日に日に少なくなってきています。俗に言う巨匠の不在です。売れるかどうかのＣＤが販売される昨今の現象について、生演奏についても同じことが起こっています。かつて大きな歌劇場には、選ばれた聴衆が存在しました。しかし、歌劇場の残念なレベル低下は音楽教育の現場の問題からもきています。もちろん、優れた教師が良い演奏家であるかどうか、一概には言えません。しかし、これから世に出ようとする音楽家たちに、目に見えない「音による彫刻」を創り出す演奏家を育てる環境を真剣に考えなければ、拝金主義につぶされる使い捨ての演奏家ばかりが、次から次に通過するばかりになってしまうでしょう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/3063780.html</link>
			<pubDate>Mon, 25 Feb 2008 22:26:10 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>数学的な音楽</title>
			<description>音楽は中世には、キリスト教会の学問のひとつでした。他に天文学や神学、数学などと同じ位置に列せられ、研究という領域で専門家が育成されていきました。ビバルディはまさに司祭であったので、その代表的な作曲家といえましょうが、彼はむしろ孤児院の子供たちのために曲を綴りました。東西に分裂したローマ帝国にしたがって、当時公認されたキリスト教自体も東西に分かれていき、大まかに言ってローマカトリック系列とロシア正教系列の流れに枝分かれしていきました。当初は祈りの儀式にグレゴリオ聖歌が歌われていましたが、時代の変遷と共に、カトリックさらにプロテスタントにおいては教会内で楽器を演奏するようになりました。しかし、ロシア正教は教会内で今でも人の声だけで聖歌が歌われています。さて、楽器の演奏においては鍵盤楽器の登場で、平均律という１オクターブを１２の半音に分けて均等に音を並べるシステムが出来上がり、純正律の完成された響きとは一線を画すことになりました。とはいえ、鍵盤楽器の発達で音楽が技巧的な要素で一般に広がる機会を得たといえましょう。ロシア正教において声だけで演奏されていた伝統に、今ではロシアがピアニストの産地になっているのも皮肉な現象です。その他の楽器も近代では目まぐるしく発達し、ここ百年くらいで現在のオーケスストラの形態が定着していきました。記譜法も、グレゴリオ聖歌が歌われていた頃のネウマ譜から次第に発展して、現在の五線譜が普及していきました。拍子に従って小節線をひくことにより休符を数えることが簡単になり、複雑なアンサンブルが可能になっていきました。しかしながら、昨今は変拍子が現代音楽では当たり前になり、場合によっては絵文字のような記譜法も使われたりしています。はたして後世に残っていくかどうかは未知数ですが・・　余談になりますが、科学者アルフレード・アインシュタインはバイオリンを好んで演奏していたようですが、特に彼はモーツァルトを愛好していたとあります。この作曲家の音遊びは、博士が好んだとあるように、まさに数学的でありパズルを作っているかのように音を組み合わせていきます。作曲というのは、ある種のインスピレーションで音を組み合わせていく遊びのような世界だといえましょうか。このアインシュタイン博士は、いかんせん小節を数えるのが苦手であった、とも記録にあります。ですから、音楽家にはならなかったのでしょう。しかし演奏者は、音楽の中にひそむ数学的要素をしっかり見抜かねばなりません。とりわけプロの方々は。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/3017661.html</link>
			<pubDate>Mon, 25 Feb 2008 01:16:52 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本のオーケストラ事情</title>
			<description>世界の主要な大都市には、地元のオーケストラが存在します。ロンドンやパリ、モスクワと並んで東京のオーケストラは過密な状態です。しかしながら、文化都市・東京の需要に何とか経営を保ってきてはいたものの、今後は行政の破綻具合に応じて、経営が厳しくなっていくことが予想されます。とはいえ、ほとんどの首都圏のオーケストラは、東京２３区の区政などに演奏会場（練習会場を含む）の提携を進めてきているので、最悪の事態はくぐり抜けてきたようです。東京フィルと新星日本響との合併などの実例もあるように、今後は大阪のある経済人が言ったような出来事、つまりオーケストラの合併が起こってくるのは避けられないでしょう。財政がとっくに破綻している大阪府がかかえている大阪センチュリーや神戸市室内合奏団などは、真っ先に消されてしまうと想像されます。ローマ・ミラノ・トリノ・ナポリの４都市にあったイタリア国営放送（ＲＡＩ）のオーケストラが、トリノに一本化された話は有名です。はたして、そこにいた楽団員の方々はどうなったのか・・日本のＮＨＫ交響楽団は、実はＮＨＫを名乗ってはいますが外郭団体のような扱いで、独自運営しています。もちろん、名前が全国に通っていますので、地方都市に出かけていってアルバイトのような仕事もたくさんあるようです。楽団員の収入が一番保証されているはずです。かつて、日本フィルは文化放送から全員解雇され、労働組合を頼って全国ツアーをしていた時代もありました。そこから分裂した新日本フィルは、後々は小澤征爾を看板にして多くの仕事を取ってきた時期もありました。東京都交響楽団なども都知事から自主運営を迫られて、今は悪戦苦闘の状態ではないでしょうか。しかしながら、地方オーケストラは各々の都市に唯一のオーケストラであったりするので、行政との連携を含めて上手に動いている楽団もあります。とはいえ楽ではないと思いますが。楽団員に給料を払っているオーケストラは維持運営がたいへんでしょうが、ギャランティー制度で出来高払いのところは仕事を取ってきた分で何とかまかなうことになります。オーケストラという有機体は、ひとつの人間社会の象徴であり、絶対に続けていかなければなりません。どんなに経済的にたいへんになったとしても、これらのオーケストラの文化の火を消すようになっていくとするならば、日本の未来はありません。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/2997642.html</link>
			<pubDate>Sun, 24 Feb 2008 19:32:43 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>音楽生活の経営</title>
			<description>現代日本の音楽生活、つまり音楽家としてどのように生計を立てるか・・一番まともにお金が入るのは、音楽大学の先生になって給料と受験生などから受け取るレッスン代で生活している方々でしょう。演奏活動だけで生活をすることは、ほぼあり得ないと考えたほうが良いはずです。しかし、音楽大学を出て、就職先がある方は運が良いという昨今です。教職は、ほぼ絶望的です。たまたま空きがでても、その人脈の中に入っていないと順番は回ってきません。結果を先に言うと、音楽的な実力ではなく、普段からきちんと挨拶回りができているかどうかで決まります。演奏会を開催する場合でも、やはりご両親の知り合いの方々に来ていただくことから始まり、ファンクラブのような組織を設立して、パーティーなどの席上でお客様に訴えかけるやり方が主流でしょう。ほぼ選挙に臨む代議員と同じ手法です。それには、性格的にサービス精神が旺盛でなければ不利な環境かもしれません。また、楽器店などのピアノ教室などで教える場合に、レッスン料から楽器店に取られる手数料がかなり大きい、つまり働いた分が手元に残らないようなシステムになっていますから、そこで働くピアノ教師はひたすらレッスンをこなして、数で勝負しなければならない状況のようです。残念なことに、楽器店の営業担当の方々は音楽に関しての知識があまりない、というのも驚かされます。たとえ知識がないにしても、音楽が好き、といって仕事をしておられればまだ救われますが・・実態は残念な状況です。このことは音楽産業だけの問題でなく、日本中のあらゆる産業が同じ状況におかれていて、まさに外面だけの体裁だけで日本は成り立ってしまっています。中身はスカスカの空っぽです。いかんせん教育現場の状況は、緊急の問題でしょう。しかし、教育を受ける側にもたくさん問題があります。かつてあった中流意識が、間違った方向に走りだして、程々の悪い意味で適当な生き方を良しとする社会構造の問題です。音楽はあくまで趣味で、暇なときに教養程度でやっていれば良い、と普通の親は思ってしまうはずです。とはいえ、英才教育に無理矢理我が子を担ぎ出して、コンクール荒しをしていくようなスタイルも時代おくれでしょうか・・この混沌の時代に音楽家がどうやって生活を維持するべきか・・しかしかつての大作曲家たちも、同じ苦労を背負っていたようです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/2880757.html</link>
			<pubDate>Fri, 22 Feb 2008 22:10:04 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>アマチュアとプロ</title>
			<description>日本はアマチュア大国でしょうか。では、アマチュアとは単に音楽を愛する、という位置づけではなく、一言でいえば参加している本人たちが満足すればよい、と。実際に、プロと呼ばれている人たちも精神性は、まさにアマチュアであるべきでしょうし、かつてアマチュアだった、といえましょうか。もちろん再生芸術に余暇を過ごす、よいう言い方は的確ではないですが、趣味として音楽を選んでいますし、ときにプロよりも上手なアマチュアもおられる。基本的に生活の糧は他にあり、職業音楽家ではない方々をアマチュア音楽家とよぶべきでしょうか。しかし、ではプロの音楽家は音楽で生活していけるのか・・厳しい問いかけではあります。よくテレビタレントや俳優さんたちの金銭的な苦労が報道されたりしますが、音楽家とて同じ状況にかわりがありません。しかし、最終的にプロの音楽家は音楽だけに没頭する環境を選びます。ただ仕方なくアルバイトをしなければ生きていけないことがあるかもしれません。場合によっては、大学や高校などの音楽専科の教員をしながら、音楽活動することもプロとしては当たり前でしょう。しかし、昔の音楽家はどうしていたのか・・ヴィヴァルディは孤児院の音楽学校で教えていた司祭という肩書きで生活していました。大バッハは宮廷楽長という公務員でありましたし、ヘンデルも英国王室おかかえになっていました。しかし、モーツァルトは最後まで就職活動に明け暮れ、宮廷作曲家という称号は与えられたものの、レッスンや出版収入で生活していました。シューマンなどは、歌劇場専属指揮者になるなどしたものの、人間関係にうまく対応できなかったという記述が残っていたりします。純粋に音楽だけで生活することは、限りなくたいへんでありながらも、作曲家の多くは葛藤の中を精一杯に音楽で生きていた、と。精神性はアマチュアであり、生活はプロであること。このような生き方をしていくには、現代の世相は殺伐としすぎているかもしれません。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/russian_bluesky/2641178.html</link>
			<pubDate>Sun, 17 Feb 2008 22:36:33 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
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