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間宮林蔵について
日記
[ 日本の美しい国と心と環境を護る ]
2018/9/9(日) 午前 9:35
間宮林蔵は、文化5年(1808年)、松田は西岸から、林蔵は東岸から樺太の探索を進めた。
林蔵は多来加湾岸のシャクコタン(散江郡散江村)まで北上するが、再び南下し、最狭部であるマーヌイ(栄浜郡白縫村真縫)から樺太を横断して、西岸クシュンナイ(久春内郡久春内村)に出て海岸を北上した。
北樺太西岸ラッカに至り、樺太が島であるという推測を得てそこに「大日本国国境」の標柱を建てた。
林蔵は、再度樺太西岸を北上し、黒竜江河口の対岸に位置する北樺太西岸ナニオーまで到達し、樺太が半島ではなく島である事を確認した。
林蔵は、清国の役所が存在するという黒竜江(アムール川)下流の町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、海峡を渡ってアムール川下流を調査した。
その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。
間宮林蔵は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マミアノセト」と命名した。
[ マレーシアにまた行きたいな ]
2018/2/12(月) 午前 11:13
[ マレーシアにまた行きたいな ]
2018/2/12(月) 午前 10:56
1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであったが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向けた豊臣秀吉は、1587年にこれを取り上げて直轄領とした。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。
イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。
サン=フェリペ号事件のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった。
[ サイバーテロ防止 ]
2016/8/22(月) 午前 7:15
668年高句麗滅亡後
北部の高句麗遺民は唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。剣牟岑など高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した。
一部の遺民は宝蔵王の庶子(あるいは淵蓋蘇文の甥ともいう)の安勝を担いで新羅に入り、新羅から高句麗王(後に報徳王)として冊封され、新羅内で684年まで命脈を保った。
また、遺民の一部には倭へ逃れた者もいる。例えば『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており。高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。
朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を目指して後高句麗を名乗って挙兵し、新羅北部の大半を占領して独立した。その後、王建が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が生まれる。「高麗」は高句麗の時代に実際に用いられていた国号という。
桜の花もいよいよ満開だ。
日記
[ ゆうママ ]
2015/3/28(土) 午後 10:16


