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広瀬武夫中佐は、日露戦争での旅順閉塞作戦での功労者として、又最後は
海戦の最中、必死に杉野上等兵を探す間に壮絶な爆死を遂げます。
後に海軍の「軍神」として敬愛された方です。
ロシア語に堪能であった広瀬はロシア駐在武官に任命され、貴族階級や士官との交流を深め当時のロシアを調査し報告し続けました。
当時の恋人であった、「アリアズナ」との淡い恋は実らなかった。
ロシア駐在中、あるロシア人将校から「日本人は団体としては強いが、個人としては小弱で到底我らの敵ではない」と言われた広瀬は、
「それは面白い。その言葉が本当か試してみよう。貴国海軍の中で最も腕力に優れた三人と勝負をしてみようではないか」 そう言って、広場でロシア海軍選りすぐりの三人の巨漢と勝負し、柔術の技で次々と投げ飛ばして行った。この噂は皇帝の耳にも届き、ロシアの宮中に招かれて柔術を披露することとなった。広瀬はそこでも屈強の将校達を次々と投げ倒し、皇帝らはその技に驚嘆したという。 海軍柔道の祖とも言われる広瀬は柔道の総本山である東京の講道館にも当時所持したとされる血塗りの海図が展示してあります。
広瀬の逸話は、此の当時の侠客の「清水の次郎長」にたいそう気に入られていたことでも有名です。
広瀬は第二回閉塞作戦の前に、この漢詩「正気歌」を福井丸の石田前機関長にハンカチに書き取らせたという。
「正気(せいき)」とは、天地に存在する、物事の根本をなす気のこと。正しい気風、正義という意味もある。「正気歌(せいきのうた)」は、もともとは宋の文天祥が獄中で作った漢詩です。宋の滅亡後、元に捕らえられた文天祥は、その才能を惜しむフビライ・ハンから何度も勧誘を受けました。しかし、文天祥は宋への忠義を貫くために仕官の誘いを断り刑死しました。国と主君への忠義を貫いた文天祥の「正気歌」は幕末の志士らに好まれ、藤田東湖、吉田松陰も自作の「正気歌」を作っています。
広瀬の「正気歌」は主君や国への忠義を貫いた人々(赤穂浪士、楠正成とその一族、錦江湾で入水した西郷と月照、小塚原刑場で処刑された橋本左内、吉田松陰、太宰府に流された菅原道真)を例に挙げ、自らも一命を賭して国家と天皇に対する忠義を尽くそうとする意気込みが表れています。 最後の「七生人間報國恩」というのは、七度、人間に生まれてきても、その都度国恩に報じますという意味です。
今の政治家や、官僚どもにこのような志しのあるお方がいるとは、到底思えません。
戦艦朝日の水雷部員集合写真。明治三十七年一月撮影。
二列目向かって右から四人目が広瀬、六人目が杉野。 参考及び引用文献 「春や昔」〜「坂の上の雲」ファンサイト
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りょうさんこんにちは。
私が一番熱い気概のあった時代と思う江戸、明治。
中でも日露戦争では多くの誇りある男達が世に出てきました。
広瀬武夫も児玉源太郎も同じ時代を共に崇高な志を持って時代を駆け抜けた人達の代表的な偉人ですね。
今の政治家どもは「武士に二言がない」と言われた過去と対極に言葉に責任も意志も感じられない。
悪びれもせず、謝罪も後悔も言わずに想定外や状況が変わったなどと言い訳して、全く過去発した言葉と違うことを言う神経が信じられない。
国の上層部がいい加減な行動を露呈している中で、社会に善悪を求める事がいかに困難なことだと思います。
真っ当な人間が育つ土壌が消え失せています。
せめて過去の偉人の生き様を知る人が日本人の誇りと人の在り方を伝えていく事しか、食い止める方法が無いのかも知れません。
この広瀬武夫の記事も多くの人に読んで頂き感じられる人が1人、また1人増える事を願います。
傑作。
関連記事をTBさせて頂きました。
2011/6/25(土) 午後 2:05
KDさん こんばんは
私も、この時代の先人達を尊敬して止みません。
児玉源太郎も大好きな一人です。大山巌を作戦面で支え続けた本物の参謀でありましたね。
KDさんの仰せの通り資本主義経済と拝金主義に日本人としての
魂を売り渡し売国怒と化した似非日本人が暗躍する国体となってしまったことを慟哭する思いです。
ここまで、様変わりしたしたことを今さらながら、時を経た時代を
思うとその原因を突き止めたい衝動にかられます。
TBありがとうございます。
[ りょう(≧▽≦) ]
2011/6/25(土) 午後 10:00
内緒様
ご指摘の件ご尤もです。承りました。
ありがとうございました。
[ りょう(≧▽≦) ]
2011/8/8(月) 午後 9:30