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科学に安全性を語る資格はあるのか?  \?\᡼\? 1 \?\᡼\? 1

科学者が安全性を判断することができると思っているなら、それは『傲慢』以外の何ものでもない。安全とは、安全性が100%であると証明されなければ、安全であると言うことはできない。「科学が捉えるものは真実の断片」だけである。それらは可能性や危険性の兆候を見つけるだけのことであり、それこそが科学の得意とするところだ。科学の進歩の歴史を見ても、すべては人間の直観(閃き)で始まり、科学がそれを裏づけるという繰り返しで達成されてきた。
また、純粋な真理探究の努力によって導かれる科学の偉大な発見や解明は、それ自体は素晴らしいものである。そしてそれらの理論を応用した様々な技術は社会に膨大な利便を提供する。しかし一方では人間の飽くなき欲望を満たすための道具に成り下がり、人間の生存をも脅かす厄介者となることもしばしばである。
いま巷では、「安全」「安心」が区別され、好いように「安全」という言葉が氾濫している。仮に安全性が100%でると証明されれば、それは最早、「安心」に繋がり、「100%安全=安心」と言える。つまるところ、今使われている「0〜99%安全=未証明の安全=偽の安全」ということになり、安全性に関する信憑性は限りなくゼロ」に近づくことになる。
 
原子力にあっては、核分裂反応によって膨大なエネルギーが放出され、その途方もないエネルギー量が、人間を殺傷し事物を破壊し尽くすことが実験によって証明され、早速戦争に利用された。それが広島に投下されたウラニウム型原子爆弾リトルボーイであり、長崎市に投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンであった。
 
「科学は原発の利便性を示したが、事故の悲惨さは予測できても危険性を示さない。」というように、科学的知識は恣意的に利用されてきた。
したがって、原発の安全性の判断を科学者に委ねるなど論外である彼らの判断で決まってしまうというシステム自体危険なものだ。むしろドイツのように、倫理的な考察で決定し、代替エネルギーの開発に注力すべきである。
 
政治家や経済界は比較検討論で必要性を説く、主権者である国民の命にかかわる大事に対する彼らの論理は、まさに 「主権者への反逆」に他ならず、決して許されることではない。
為政者や議会、裁判所が、科学者や似非科学である経済学者の意見しか採用しない現在の政治は、私たちの輝ける未来を、とんでもない方向に捻じ曲げてしまうかもしれない。マッド・マックスの世界のように汚染が進み災害が頻発し、荒廃した環境で、競争に疲れた人々の心は荒び、無秩序な社会の中で生きて行かなければならない。弱者など決して生き残れない社会だ。

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