|
https://history.blogmura.com/にほん歴史ブログ村
池田屋事件 では土佐勤王党員が5名死亡している。 望月亀弥太、北添佶摩、石川潤次郎、藤崎八郎、野郎山五吉郎だ。 望月亀弥太 の存在は神戸海軍操練所廃止に結びついていく。 また、 北添佶摩 は前年に蝦夷地に渡っており、その知識は龍馬に伝わり、蝦夷地開拓論に発展して行った。 このときも、龍馬は京阪にいる浪士2百名を蝦夷地開拓に向かわせようとしていた。その矢先に池田屋事件は起きた。蝦夷地開拓は血気にはやる浪士の頭を冷やす目的があったのだが、これ以降 蝦夷地行きは何度も挫折した。 ところで、この事件は、元治元年(1864)6月5日つい146年前におきた。 このとき、四条寺町の 枡屋喜右衛門こと古高俊太郎 は二人の志士を逃がし、自分だけ新撰組に捕まった。 最初は死ぬ覚悟でいたのだろうが、あっさりと口を割った。彼は武士ではなく商人だった。だから舌を噛み切ることもなく生きながらえ、蛤御門の変で獄舎で斬殺された。 ところで志士たちは、古高が捕まったにもかかわらず、池田屋に集結している。何という 危機意識の低さ だろう 。 古高は拷問を受けても 口を割らないと思っていたからだ 。京の町に火を放ち、天皇を拉致する計画の概要は知っていても集結場所はわからなかったようだ。 一方、 岡田以蔵 が捕まったとき、武市半平太は 以蔵が口を割ると思っていた。ほかの党員たちもだ。 だから武市半平太は、実家への手紙で 「あのような安方(あほう)は早々と死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」 と書いている。人斬りの道具として、犬として扱っていた証拠だ。 足軽の以蔵は、仲間うちにあっても最下層に位置し他の勤王党員から疎まれ蔑視されていたが、以蔵に光をあてたのは武市先生だ。先生の為には決して口を割らない覚悟はあったはずだ。彼も武士になりたかった。 しかし、武市が以蔵を毒殺を図るに及んで、以蔵の武市に寄せる想いはもろくも崩れ去り、全てを自白する。 武市は慶応元年(1865)5月11日切腹。以蔵はその三日前ハリツケとなり首を晒した。
さて 自分が古高俊太郎だったら、顔に火をあてられただけで簡単に自白しただろう。
もし 自分が志士だったら、古高が捕まったことを知っていても、やっぱり池田屋に集まったろう。
もし 自分が武市だったら、以蔵のような男を利用していただろう。
もし 自分が以蔵だったら、武市のような先生にしっぽをふってついて行ったろう。
もし 自分が毒薬をもっていたら自殺していただろう。
それぞれの弱点全てを持ち合わせているのが自分だ。
私は嫌な奴だった
|
全体表示
[ リスト ]








おはようです^^
自分だったら…大志も抱かず、自分のことだけを考えて、コソコソと日陰で生き長らえて…そんなところでしょうか。
蝦夷地の開発を、龍馬一行が大々的に行っていたら、今の北海道は違う姿だったかも知れませんね。気風も違っていたかも…。
☆☆☆!
2010/6/21(月) 午前 8:50
人のふりを見て怒ったり、批評したり・・・自分と同じだから腹が立つのかもしれません 少なくとも私はその傾向にあります(猛省) でもやめませんが(つける薬なし)・・・ありがとうございました。
2010/6/21(月) 午前 9:13