龍馬 ひねもす よもすがら

七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞかなしき

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

万次郎協会会長に叙勲伝達 草の根の日米友好に貢献

2010.7.8 13:20
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/america/100708/amr1007081321008-n1.jpg7日、米東部ボストンの日本総領事公邸で、旭日双光章を伝達されたホイットフィールド・万次郎友好協会のジェラルド・ルーニー会長(左)と妻の文子さん。右は辻優・駐ボストン日本総領事(共同)
 
 江戸時代末期に日本人として初めて渡米したジョン万次郎中浜万次郎)を通じ日米交流に貢献したとして、春の叙勲で旭日双光章を授与されたホイットフィールド・万次郎友好協会会長のジェラルド・ルーニーさん(73)=米国人=に対する叙勲伝達式が7日、ボストンの日本総領事公邸で行われた。
 同会長は、聖路加国際病院日野原重明理事長らと協力し、万次郎が米国で滞在したマサチューセッツ州フェアへーブンの民家を改修し、昨年5月に「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」として開館した。
 万次郎は現在の高知県土佐清水市出身で、14歳だった1841年、出漁中に遭難して無人島に漂着。米捕鯨船のホイットフィールド船長に救助され、米国に連れてこられた。その際に滞在したのが同船長の家で、現在の友好記念館。(共同)


 
日野原先生も活躍されました。中濱万次郎は日本とアメリカの架け橋として永遠に語り継がれていくのですね。
 
6/20読売新聞 「ちきゅう 時の散歩 ジョン万次郎 in フェアヘブン」 にありましたが、町の図書館には1918年に中濱家から日本刀などの寄贈があり、その展示に対し第2次大戦中は不謹慎であるとの声が出たが、図書館側は「二人の友情の証であり、戦争とは関係がない」と展示を続けたそうです。またホイットフィールド船長宅は1950年代に人手にわたった後、老朽化著しく数年前に競売にかけられていましたが、聖路加国際病院の日野原重明理事長ら日本人有志の募金活動の末購入し、2009年5月「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」として町に寄贈されたとありました。
 

「龍馬は神」海援隊士の書 佐柳高次の遺品公開へ…香川

http://osaka.yomiuri.co.jp/photo/20100704-216767-1-N.jpg
資料館に展示が決まった「坂本龍馬神宮」の書を手にする佐柳高次の子孫、鮫島和子さん。右は夫の貞一郎さん(滋賀県湖南市で)
 江戸幕府の軍艦「 咸臨丸 (かんりんまる ) 」の水夫で渡米し、後に海援隊士として坂本龍馬と行動をともにした 佐柳 (さなぎ ) 高次(1835〜91)の書などの遺品が、ふるさとの香川県多度津町の町立資料館で今秋、初公開される。龍馬や隊士を弔う書には「坂本龍馬神宮」とあり、龍馬を慕う思いや、隊士たちとの強い結びつきがうかがえる。
 佐柳は、瀬戸内海の 塩飽 (しわく ) 諸島の佐柳島(多度津町)で育った。島々は古くから海運で栄え、咸臨丸の水夫50人のうち35人は同諸島の出身。佐柳は1855年、幕府の長崎海軍伝習所に水夫として採用され、咸臨丸に乗船した。
 その後、勝海舟の紹介で、龍馬と出会い、海援隊に参加。67年に龍馬が暗殺されると、山口県下関市にいた妻・お 龍 (りょう ) に伝えに行ったとされる。幕末の動乱を生き抜き、69年に帰郷した。
 書は、滋賀県湖南市に住む 玄孫 (やしゃご ) ・鮫島和子さん(62)が保管。縦120センチ、横30センチで、「坂本龍馬神宮」と力強い字体で記し、海援隊の近藤長次郎、池内蔵太ら隊士14人の名も添えている。鮫島さんは父から「高次は朝晩この書を掲げ、龍馬を神として拝み、仲間の冥福を祈った」と教えられた。
 公開は10月1日〜11月28日。咸臨丸渡米から150年に合わせ、町立資料館が企画した。佐柳がサンフランシスコで購入したとされる、ダンスを楽しむ若い男女をあしらった陶製の絵皿なども展示される。
  霊山 (りょうぜん ) 歴史館(京都市東山区)の木村 幸比古 (さちひこ ) 学芸課長は「海援隊の人間関係を示す珍しい資料。亡くなった海援隊士の名も記していることから、海援隊が龍馬を中心に結束していたことがわかる」と話している。
2010年7月4日  読売新聞)

いろいろなものが残っているもんですね。
海援隊の佐柳高次は咸臨丸の水夫だったんですね。
実は大型船を「見慣れている」との理由で長崎から15人、塩飽諸島から35人計50人の水夫が乗船しますが、瀬戸内海しか知らない塩飽諸島の水夫はもちろんのこと、あの太平洋の荒波のなかでは誰も甲板に出なかったそうです。そんな中でジョン万次郎が孤軍奮闘しています。
 
咸臨丸はブルック船長ら11人の米人水兵が帰国のため乗船していました。
米人の手は借りないと豪語していた勝海舟ですが、ジョン万次郎とブルック船長等の力によりサンフランシスコに投錨したのです。投錨の二日前、万延元年(1860)2月24日海舟は万次郎に操船の全権を任せました。
 
万次郎が日本人水夫に「マストに登れ」と命令すると「吊るし首にするぞ」といって逆に脅されたそうです。
佐柳高次はどうだったのかは知る由もありませんが。
 

全1ページ

[1]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事