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いよいよ明日の放送で近藤長次郎が最期を遂げます。
薩長同盟の影の立役者ではありましたが、あの武市半平太や岡田以蔵に比べあっという間の降板に大泉長次郎ファンの残念がる光景が目に浮かびます。
龍馬以上に「しがらみ」のない長次郎でしたが、皮肉にも組織のしがらみに死んでいかざるをえなかった姿は涙を誘います。ドラマでは恋女房のお徳と一人息子百太郎をみせつけられているからなおさらです。
先月、長崎新聞に百太郎の御子孫の記事がありました。百太郎は長次郎の死後生まれ、長次郎の死亡日も1月14日ではなく1月24日だそうです。薩長同盟締結は1月22日でした。
昨年6月に近藤長次郎についてアップしていましたが、明日の放送を機に再掲しました。
先日、NHKで久々、龍馬をとりあげていた。番組のタイトルが「オレたちは負け組じゃない!坂本龍馬と亀山社中」「涙と笑顔の起業奮闘記」だった。龍馬のブーツと長次郎の草履を比較していた。ブーツを履き世界を目指した龍馬と高下駄を履く海援隊士、その中で饅頭屋のせがれ近藤長次郎が登場した。下級武士以下の立場を意識していたかのような番組の示唆ではあったが、なるほどそうかもしれない(と感心)。彼については以前拙ブログで書いたが、少しだけ肉をつけて書き足した。どこに肉がついたとは詮索しないこと、所詮たいしたもんじゃあない。
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| 天保9年(1838)3月7日〜慶応2年(1866)1月14日 高知城下の饅頭屋のせがれとして生まれ、「饅頭屋長次郎」と呼ばれました。幼少期から聡明で、由比猪内(ゆひいない)の従僕として江戸に上った時は小栗上野介邸の安積良斎の塾で学びました。次に江戸に上る時には岩崎弥太郎から餞別に愛刀を授かっています。また龍馬の紹介で勝海舟の門下生になり、神戸海軍操練所で龍馬と共に学び、亀山社中(海援隊の前身)を設立しました。亀山社中では外交折衝の中心的存在でした。同志で、後に外務大臣になる陸奥宗光が当時龍馬から外交折衝よりも商才を認められていたことを考えると、いかに龍馬の信頼が厚かったかがうかがい知れます。向上心が強く龍馬から認められていた長次郎ですが、長州藩の資金援助で英国に密出国する計画が露見しつめ腹を切ることになりました。当時龍馬は薩長同盟締結のために京都におり、切腹は龍馬が命じたものではないようです。龍馬の妻、お龍の証言では、長次郎の訃報に接し「己がおったら殺しはせぬのぢやった」といったそうですし、「坂本龍馬手帖摘要」には「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ。(じゅつすう ありあまりて しせい たらず うえすぎしの みをほろぼす ゆえんなり)」と記していました。なお、この「坂本龍馬手帖摘要」は現存せず、大正2年12月26日の釧路市大火の際焼失したようです。なお上杉氏とは近藤のことで上杉宋次郎と名のっていました。右手にはピストルを持っています。 |
| 近藤長次郎は岩崎弥太郎が鴨田村で私塾を開いていたときの門弟で海援隊士池内蔵太(いけ くらた)も同門でした。岩崎弥太郎が土佐商会に赴任し、龍馬と出会ったときには近藤長次郎も池内蔵太(いけくらた)もすでに亡くなっていました。近藤は切腹し、池はワイルウェフ号で海の藻屑となりました。 |
龍馬の妻、お龍の証言では、長次郎の訃報に接し「己がおったら殺しはせぬのぢやった」といったそうですし、「坂本龍馬手帖摘要」には「術数有余而至誠不足、上杉氏之身ヲ亡ス所以ナリ。(じゅつすう ありあまりて しせい たらず うえすぎしの みをほろぼす ゆえんなり)」と記していました。
長次郎の最期に龍馬は関わっていないといわれていますが、お龍の証言と手帖の記述にリーダーとしての龍馬の苦悶が伺えます。
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