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龍馬は懐手に何を持っていたのだろうか。
ちょっと謎めいているが、胃痛のため腹を押えていたのでも、ピストルを持っていたのでも、万国公法を持っていたのでもないと私は思っている。
龍馬は『南部煎餅』持っていた!
あの写真の小刀は楠木正成仕様といわれているのだ。
龍馬の和歌だ。
湊川にて
「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き菊の下水」 月と日は天皇の象徴、湊川は楠木正成の戦死したところ、菊水は楠木正成の家紋。
楠公義祭同盟の江藤新平(南白)、副島種臣、島義有、大隈重信らは勿論のこと、新田義貞の墓がある福井藩の松平春嶽、横井時存(小楠)に西郷隆盛(南州)など龍馬の周囲には南朝信奉者が数多くおり、山口の明倫館では楠公祭がとりおこなわれ、吉田松陰が祭祀されているし、水戸光圀が着手した「大日本史」の特徴は勤王思想と南朝正統論だった。明治維新は南朝革命とも言われている。
だから『南部煎餅』なのだ。
南部煎餅の由来には
一、長慶天皇創始説 二、八戸南部氏創始説 三、キリスト創始伝承説 などがある。
>>> WIKIPEDIAの「南部煎餅」にこうある。
その由来には諸説あるものの、大方は「長慶天皇創始説」を取っている。
長慶天皇創始説
南北朝時代の頃、南朝の長慶天皇が名久井岳の麓(現・三戸郡南部町)、長谷寺を訪れ、食事に困った時に家臣の赤松助左衛門が近くの農家からそば粉とごまを手に入れ、自分の鉄兜を鍋の代わりにして焼き上げたものを天皇に食事として出した。この食べ物が後の南部せんべいの始まりであるとする説である。 さらに天皇はその風味を非常に好んで度々、赤松に作らせ、天皇は煎餅に赤松氏の家紋「三階松」と南朝の忠臣、楠木正成の家紋「菊水」の印を焼きいれることを許したという。現在の南部煎餅には確かに「菊水」と「三階松」の紋所が刻まれている。昭和20年代初頭に、八戸煎餅組合によって「南部せんべい」の創始起源の再整理が行われた際、この説を中心に整理された。 <<<
好きな人のものは、ただ名前が付いているだけでも欲しくなるものだ。昔も今もかわらない。私もそうだ。
だから懐手の謎に、『南部煎餅』もいれてほしいと思っている。
それでは南部煎餅のデザインを見てみよう。
龍馬といつも一緒にいたい私だ。この度の八戸、盛岡の旅行では携帯ストラップに『南部煎餅』をぶら下げて行った。
もともと多少おかしいが、本州の暑さに気がふれたわけではない。
聞いてくる人には触らせてあげた。
「湿度が高いので、柔らかくなってますけど」
結構うけた。
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