龍馬 ひねもす よもすがら

七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞかなしき

龍馬に学ぶ

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21:00から日テレ系で「大河ドラマが描かない坂本龍馬の真実」でやっていたが、ビールを買いに行っていて番組のことをすっかり忘れていた。
 
気づいて観たときはあの「日本を今一度せんたくいたし申候・・・・」の手紙が紹介されていた。
 
どの番組でも、その直前に書かれているフレーズを過激でイメージが壊れるとでも思っているのか、なぜか省略されることが殆ど100%だ。
 
この番組は時系列で描かれてはいるものの、短時間では所詮ツッコミが足りず平板な内容になってしまうのは
 
やむをえないことだろう。
 
昨年1月16日、この手紙に触れ、アップしたことがある。
 
思い起こせば、この手紙についてはド龍馬伝の中では触れられていなかったのでは?と思い、再掲した。
 
                     ↓↓↓
 
標記タイトルは龍馬が姉乙女に宛てた文久三年六月二十九日の手紙の一節です。

とても有名で、これをもじって「せんたく議連」もできましたね。(※文久3年 1863年)

でもこの手紙を書いた頃、姉乙女は婚家岡上家との不和であり、姉を龍馬独特の表現で慰撫しながら

龍馬の決意を述べています。出だしは優しいのですが、タイトルのくだりはとても厳しく表現されて

います。

こんな出だしで始まります。

「この文ハ極(ごく)大事の事計(ばかり)ニて、けしてべちゃべちゃシャベクリにハ、ホゝヲホゝヲ

いややの、けして見せられるぞへ」

そして

「龍馬ニ三家の大名とやくそくをかたくし、同志をつのり、朝廷より先ヅ神州をたもつの大本を立て

 夫より江戸の同志はたもと 大名其余段々 と心を合セ、右申所のかんり(*女三つに吏)を一事に

 軍いたし打殺、日本を今一度せんたくいたし申候事ニいたすべくとの神願ニて候」

と続きます。

外国と内通している役人をぶっ殺して日本を変えていこうとしているのです。なみなみならぬ決意

が感じ取れます。


さて、「今一度とは」、疑問に思いませんか? 以前にもあったということです。

これについて、2年前に全国龍馬社中のBBSに質問があり、私見を述べたことがありますので、転記します。

http://zenkoku-ryoma.net/

>>

龍馬は大政奉還を成し遂げました。それは武家の徳川幕府に代わり天皇家が政権を握ることですから、過

去に武家から天皇家が政権を奪還した時が洗濯の一度目ということでしょう。すなわち、鎌倉幕府滅亡後

後醍醐天皇の建武の新政(建武の中興)が最初の洗濯だと思われます。


龍馬の和歌を紹介します。

湊川にて
    「月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き菊の下水」

月と日は天皇の象徴、湊川は楠木正成の戦死したところ、菊水は楠木正成の家紋です。龍馬は南朝の後醍

醐天皇につかえた楠木正成に自分を重ね合わせていたのでしょう。また楠公義祭同盟の江藤新平(南白)、

副島種臣、島義有、大隈重信らは勿論のこと、新田義貞の墓がある福井藩の松平春嶽、横井時存(小楠)に

西郷隆盛(南州)など龍馬の周囲には南朝信奉者が数多くおり、山口の明倫館では楠公祭がとりおこなわれ

、吉田松陰が祭祀されています。また、水戸光圀が着手した「大日本史」の特徴は勤王思想と南朝正統論

でした。明治維新は南朝革命とも言われています。  <<

※なお写真はフルベッキの写真で、佐賀藩英語塾の写真といわれ、ものによっては名前入りで流通し、偽

者写真という方も多いのですが、相当数、歴史上の人物が写っています。加治将一著「幕末維新の暗号」

をお読みください。

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前回の龍馬伝の再放送を観ました。
当時寺田屋の前には船着場があり、現在とはまるで勝手が違っていますが、当時の雰囲気がよく表現されているようでちょっと感動しました。

あと、お登勢に母をだぶらせた龍馬の姿が、ちょっとウルっときましたね。

それにしても牢獄の武市先生、嘆く嘆く・・・とうとう岩崎弥太郎をして、アヘンの丸薬、天祥丸をいれた毒饅頭を以蔵に食べさせようとしていました。

毒を入れた飯を食べても死ななかったとか、以蔵の家族に毒を渡したが武士らしく死なせてやりたいから断られたとか・・・?真実は闇の中ですが、火のないところに煙はたたないかとも・・・。

土佐勤王党には武市の弟と、妻富子の弟もいて、ともに投獄されています。

武市の弟は田内恵吉といい、秘密の一部を自白した為に、天祥丸を飲ませ自殺させています。
また、富子の弟島村衛吉は何一つ自白せず、拷問で死んでいます。

龍馬伝では、いつも毒を吐く岩崎弥太郎ですが、本当の毒男は武市半平太のようです。

明日の以蔵の涙・・・見たくはないのですが・・・・・

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※武市は慶応元年閏5月11日に切腹、以蔵はその3日前にハリツケ、首を晒されます。武市は吉田東洋暗殺の首謀者としての罪ではなく、ご隠居様に不届きのことを申したという理由などで処罰されました。

私は嫌な奴だった!

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池田屋事件 では土佐勤王党員が5名死亡している。
望月亀弥太、北添佶摩、石川潤次郎、藤崎八郎、野郎山五吉郎だ。

望月亀弥太 の存在は神戸海軍操練所廃止に結びついていく。
また、 北添佶摩 は前年に蝦夷地に渡っており、その知識は龍馬に伝わり、蝦夷地開拓論に発展して行った。

このときも、龍馬は京阪にいる浪士2百名を蝦夷地開拓に向かわせようとしていた。その矢先に池田屋事件は起きた。蝦夷地開拓は血気にはやる浪士の頭を冷やす目的があったのだが、これ以降 蝦夷地行きは何度も挫折した。

ところで、この事件は、元治元年(1864)6月5日つい146年前におきた。

このとき、四条寺町の 枡屋喜右衛門こと古高俊太郎 は二人の志士を逃がし、自分だけ新撰組に捕まった。

最初は死ぬ覚悟でいたのだろうが、あっさりと口を割った。彼は武士ではなく商人だった。だから舌を噛み切ることもなく生きながらえ、蛤御門の変で獄舎で斬殺された。

ところで志士たちは、古高が捕まったにもかかわらず、池田屋に集結している。何という 危機意識の低さ だろう 。 

古高は拷問を受けても 口を割らないと思っていたからだ 。京の町に火を放ち、天皇を拉致する計画の概要は知っていても集結場所はわからなかったようだ。

一方、 岡田以蔵 が捕まったとき、武市半平太は 以蔵が口を割ると思っていた。ほかの党員たちもだ。

だから武市半平太は、実家への手紙で 「あのような安方(あほう)は早々と死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」 と書いている。人斬りの道具として、犬として扱っていた証拠だ。

足軽の以蔵は、仲間うちにあっても最下層に位置し他の勤王党員から疎まれ蔑視されていたが、以蔵に光をあてたのは武市先生だ。先生の為には決して口を割らない覚悟はあったはずだ。彼も武士になりたかった。

しかし、武市が以蔵を毒殺を図るに及んで、以蔵の武市に寄せる想いはもろくも崩れ去り、全てを自白する。
 
武市は慶応元年(1865)5月11日切腹。以蔵はその三日前ハリツケとなり首を晒した。
 
さて 自分が古高俊太郎だったら、顔に火をあてられただけで簡単に自白しただろう。
もし 自分が志士だったら、古高が捕まったことを知っていても、やっぱり池田屋に集まったろう。
もし 自分が武市だったら、以蔵のような男を利用していただろう。
もし 自分が以蔵だったら、武市のような先生にしっぽをふってついて行ったろう。
もし 自分が毒薬をもっていたら自殺していただろう。
 
それぞれの弱点全てを持ち合わせているのが自分だ。
 
私は嫌な奴だった
 
 

象二郎あて龍馬の手紙草案、高知の民家で発見

http://ca.c.yimg.jp/news/20100616031419/img.news.yahoo.co.jp/images/20100616/yom/20100616-00000112-yom-soci-thum-000.jpg
拡大写真
象二郎にあてた龍馬の手紙の草案。「先生」とするところを「生生」と書いてしまっている
 幕末の志士・坂本龍馬が、土佐藩重臣の後藤象二郎にあてた手紙の草案が、高知県いの町の民家で見つかり、県立坂本龍馬記念館が15日、確認した。

 大政奉還を15代将軍徳川慶喜に迫るため、京都・二条城へ向かう後藤を、「もし失敗したら、私も海援隊を率いて将軍を襲う覚悟。墓の下でお目にかかりましょう」と激励する内容。後藤に渡った手紙そのものは行方不明のままで、写真しか残っていなかった。同館は「大政奉還の原案を考え、時代を動かそうとする龍馬の覚悟と緊張が伝わる第一級の資料」と評価している。

 手紙は縦20センチ、横78センチで、大政奉還前日の慶応3年(1867年)10月13日付。大政奉還に失敗し「天下の大機会」を逃せば、薩長から責めを負わされると、緊迫した情勢をつづっている。「先生」(後藤)を「生生」と書き損じており、控えにしたとみられる。

 龍馬の直筆で「参政(後藤)が登城するときに渡した手紙の草案なので、見てください」と、後藤に渡った手紙にはない説明書きが加えられており、別の親しい人物に送ったらしい。

 持ち主の南道(おさむ)さん(86)によると、旧中山村(現・同県安田町)の村長だった祖父が譲り受けたという。

 後藤は龍馬の大政奉還の考えを取り上げ、建白書として慶喜に提出。慶喜は後藤ら40藩の重臣を集めて意見を聞き、朝廷に政権返上を申し出た。手紙は7月17日からの同館の企画展で展示する予定。
最終更新:6月16日3時14分
読売新聞
 

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一級資料の出現です。まさかの資料がこれからも出てくることに期待が膨らみます
 
 
 

 

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 子どもの頃、走っては転び、自転車でも転び、必ずと言っていいほど膝を擦りむいていた。そして必ず化膿していた。ほんの一瞬のことなのだがガーゼを取り替えるときの痛さは今でも忘れない。
 
 ドラマの平井収二郎は吊るされて自白を強要されていた。いまだかつて後手に縛られて吊るされたことのない私はその痛みはわからない。ただ、ものの1〜2分で音を上げるのは確実だ。
 
 切腹の痛みはたぶん・・・想像ができる。
 
 20cmほど腹を裂き、腐った胆嚢を摘出してもらったことがあるからだ。
 
 焼きごてをあてたような熱い痛みで、切腹直後は全く動くこともできない。翌日か二日後には歩けといわれたが、片手に点滴の台、右手を壁に・・・・・・無理な話だ。
 
 切腹の時、介錯人がいるが、土佐の場合は首は落さず、息が止まるまで突くと聞いたことがある。
 
だから・・・・・平井は・・・・・私の痛みに比べれば・・・・・一瞬のことで・・・・・と思ったが・・・・・
 
 私の場合は「麻酔」があったから、その後の痛みとは比べものにならないが・・・・・麻酔がなかったら確実に即死だったろう。
 
 人の痛みは、同じ経験をしたものでなければ理解できないのは事実だし、痛みの恐怖を知らない話には真実が見えてこない。
 
 
 だがしかし、私たちには想像力がある。経験できない部分は想像力で補なわなければならないし、ある程度は補えるものだ。
 
 だからなのだが、切られても着物が切れていないだとか、血も噴き出さない、首が飛ばない、指が飛ばない、脳天が皿のように飛んでいかない、オーバーアクションで最後にバタリ・・・のような番組作りだと、ある意味真実を見間違えてしまうといつも思っている。
 
 実は斬殺場面を書いたら最高峰、剣豪小説の大家・峰隆一郎氏の「幕末人斬り伝 剣鬼・岡田以蔵」の一部を紹介しようと思ったが、リアル過ぎるので今日は止めた。
 
 
 想像力・・・・・それは大切な能力なわけで・・・・・ふだんから養っておかなければ為政者の思いのままになろうかと・・・・・頬の擦り傷を見て・・・・・子どもの頃を思い出し・・・・・歴史にこじつけて・・・・・本当は、普天間基地問題、口蹄疫、中国人の入国簡便化、外国在住の外人の子ども手当などなど・・・・・ぼやきたいが、ぼやく能力に欠ける 豚馬でござりまする。
 
吾ながら、支離滅裂な記事にて読者諸氏におかれては、迷惑千万と奉存候
 
 
 
 
 
 
 

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