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「全体大きな人物といふものは、そんなに早く顕れるものではないヨ。通例は百年の後だ。今一層大きい人物になると、二百年か三百年の後だ。それも顕れるといったところで、今のように自叙伝や、何かによて顕れるのではない・・・・」
氷川清話にある、勝海舟の談話の一節だ。
龍馬が暗殺されて今年で143年になる。 龍馬暗殺の百年後は、今から43年前だから昭和42年(1967)になる。
このころの総理大臣は’’密約でノーベル平和賞’’の佐藤栄作だった。その前が’’所得倍増計画’’の池田勇人で、後が’’まぁっ その〜’’ ’’ 日本列島改造計画’’の田中角栄だった。
「あれは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(おちつ)いてな、なんとなく冒(おか)しがたい威権があって、よい男だったよ。」・・・とは勝海舟の龍馬評だが、「なかなか人物さ」と師匠に言わしめた龍馬は大きな人物だった。師匠が、ましてや勝が弟子のことを「大人物」と言うはずはないからだ。
龍馬の死後百年後に顕れた人物とは誰か・・・上記の歴代総理ではなく、私は昭和45年に切腹した作家の三島由紀夫だったと高校生の頃からずっと思っている。
したがって、今しばらくは龍馬のような人物が顕れることはなく、顕れても57年後か157年後だとあきらめている、というか全く期待していない。それは、生きていても112歳にもなっているし、孫もでき社会的責任のほんの一部を果たした気になっていて、日本のこれからはどうでもよくなっているからだ。まことにどうしようもないクソジジイにわたしはなっている。(宮沢賢治笑)
だから、今はどうなったかわからないが「せんたく連合」だとか、「みんなで龍馬をします」といった党や、自らを「龍馬」にたとえた普天間総理の弟、豚山さんには全く興味がわかず、逆に反発を覚えてしまうのだ。「龍馬ブーム」は結構なことだが、軽い輩がいっぱい出てくるから信用しないほうがいい。軽い私が言うのだから間違いない。商品や像の建立ならいいが、○○○を作ったあとも寄付金集めをつづけているような団体には特に注意が必要だ。カルトか○○師?!かもしれない。
・・・・・と、いつものようになんの脈絡もなく愚痴ってしまったが、頭の回転がどんどん黄昏(たそがれ)てきているから、もう少しすると同じ記事を一日に何度も書くようになるのかもしれない。
※4年前のオリンピック開催国、ギリシャ発の信用不安で日経平均361円の今年最大の下落となった日に記す。
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龍馬に学ぶ
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龍馬の船 購入経緯示す新史料 NHKニュースコピペ
http://bc.nhk.jp/news/html/20100423/10014043961000/bc.gif?f=0
※ たしか4万両で購入したと言われていました。また賠償金は7万両余支払われています。また、近年いろは丸の積荷が調査されましたが、銃などは発見されませんでした。・・・・・てことは6万両はどこに消えたのでしょうか。経理処理は岩崎弥太郎が行っていました。
悪よの〜ぉ 海援隊
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手鏡箱:龍馬の? 「KAIENTAI」や隊旗の図柄も彫られて!以下 毎日新聞コピペ
2010年4月21日 0時25分 更新:4月21日 0時49分
http://mainichi.jp/select/today/news/images/20100421k0000m040074000p_size5.jpg
「KAIENTAI」などと彫られた手鏡箱のふた=京都市北区の閑臥庵で2010年4月20日、五十嵐和大撮影
http://mainichi.jp/select/today/news/images/20100421k0000m040075000p_size5.jpg
閑臥庵で保管されてきたという手鏡箱=京都市北区で2010年4月20日、五十嵐和大撮影 京都市北区の寺院、閑臥庵(かんがあん)で「KAIENTAI」(海援隊)や「GOOD LUCK」(幸あれ)などの文字が彫られた手鏡箱が見つかり、公開されている。江戸時代末期の品とされ、坂本龍馬のイニシャルと同じ「SR」の文字も刻まれているため、ファンの夢を膨らませている。【五十嵐和大】
手鏡箱は漆塗りで直径約24センチの円盤に柄が付いた形。ふたの表面に「JULY」(7月)の文字や海援隊の隊旗らしき絵も見える。寺の言い伝えでは、1877(明治10)年ごろ、同志社英学校に学んだジャーナリストの徳富蘇峰が寺を訪ねた際に見つけ、当時の住職に保管を勧めた。その後、行方不明になったが、08年の倉庫整理で発見したという。
口承以外に由来を示すものはないが、1867年11月に暗殺された龍馬が7月ごろ、京に滞在していたのは確か。閑臥庵の山田英樹執事(47)は「寺は御所の北の守り神。航海の道しるべの北極星になぞらえ、安全を願ったのかも」と推測する。
※徳富蘇峰は文久3年生まれ。明治10年なら齢14。あまりにファン受けするような言葉や図柄の数々!
龍馬との接点はいつどこで誰から・・・・・夢? 疑問が膨らみます
18歳で私塾を開いているから、年齢は関係ないか・・・・・中江兆民から聞いていたのか?
洒落じゃあないよね
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「坂本君 きみは佐那に会いに来たんじゃないのか」 (ガクッ)
越前の松平春嶽に軍艦奉行並勝麟太郎への紹介を頼みました・・・・・そして目出度く会える場面が
ずいぶんですね ×だらけでした(笑)
おめえみたいなアンポンタンと付き合ってる暇はないんだよ!・・・江戸っ子ですね〜
勝先生もずいぶんお年をめしていました 金八先生の冥土の土産でしょうか?
ドラマでは武市、平井、以蔵が勝に会いに行ってました。あぶなく以蔵、刀を抜きそうに・・・・・
そりゃあ その場を見たものは誰もいませんが、勝と龍馬との出会いはそんな風ではなかったようですよ。
勝海舟の談話録「氷川清話」にこうあります。
「土佐と肥後」
土州では、坂本と岩崎弥太郎、熊本では横井と元田だらう。坂本龍馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着(オチツ)いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だつたよ。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
勝を斬りにいったんですね!
余談ですが、この頃 すでに勝は薩摩の西郷に会っています。奄美で密貿易をやっている西郷にです。密貿易を見て見ぬふりをしていました。
下っ端役人として、すでに幕府を見限っていたようですね。
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ドラマでは龍馬が久坂玄瑞に「攘夷とは何か」を問う場面があった。
あの時久坂玄瑞が武市半平太宛の手紙を龍馬に持たせたのだが、その現物が80年ぶりに見つかったというニュースがきのう幕末史ファンの間を駆け巡った。
下の画像左端に「武市先生 日下誠」が読める。日下誠とは久坂玄瑞の別名。
土佐勤王党に龍馬が加盟したのは文久元年(1861)9月で翌文久2年(1862)正月、龍馬は武市の連絡役として長州の久坂玄瑞のもとを訪ねこの手紙を持ち帰った。
このときの出会いが契機になったのだろう、龍馬は同年3月24日脱藩する。そして4月8日吉田東洋が暗殺されている。
百姓が板についたと嘆くお笑い弥太郎や、急に精悍かつ汚くなった龍馬、殺人マシーンに変貌していく岡田以蔵、平井加尾との大人の再会や別れのシーンなどを見せられるとただの青春ドラマになってしまうので少し整理してみたい。
この時期、穏健派の「公武合体論」が趨勢を占めており、久坂や武市ら攘夷派は藩政から退けられていた。
吉田東洋は武市の建白書を一度も見ようとはしなかったし、この年は薩摩の島津久光が千名の兵とともに上洛し幕政改革に乗り出すことになっており、長州藩も土佐藩も攘夷派はこの年こそ藩主を京都に送り込もうと盟約していた。
久坂は欧米の脅威に対抗するには、幕府に代わる新しい体制が必要と考え、その中心に天皇をすえた。
そして、この手紙で久坂の決意を知った武市は吉田東洋暗殺という暴挙に出て藩論を尊王攘夷に統一して行った。
たしかに時の孝明天皇は熱烈な攘夷論者であったことは、彼らの思想を強固なものにした。だが しかし、
歴史とは非情なもので、まさに手紙で書いたとおり、「諸候頼むにたらず」、島津久光は寺田屋に集まった過激
派を上意討ちと称し粛清したし、文久3年(1863)8月、天皇は会津藩に密勅を下し長州藩は京都から追い出されてしまう。
年表の整理
文久2(1862)年 3月24日 龍馬脱藩
4月8日 吉田東洋暗殺
4月23日 寺田屋騒動
8月21日 生麦事件
閏 8月20日 本間精一郎暗殺
9月1日 目明し文吉絞殺・・・・・・・・・・・・・・・大河ドラマ「龍馬伝」はこの辺まででしょうか。
10月 龍馬 勝海舟と面会 門下生となる。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者もつひには滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ
ちょいとセンチメンタルに・・・・・・・
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