万次郎協会会長に叙勲伝達 草の根の日米友好に貢献 江戸時代末期に日本人として初めて渡米したジョン万次郎(中浜万次郎)を通じ日米交流に貢献したとして、春の叙勲で旭日双光章を授与されたホイットフィールド・万次郎友好協会会長のジェラルド・ルーニーさん(73)=米国人=に対する叙勲伝達式が7日、ボストンの日本総領事公邸で行われた。
万次郎は現在の高知県土佐清水市出身で、14歳だった1841年、出漁中に遭難して無人島に漂着。米捕鯨船のホイットフィールド船長に救助され、米国に連れてこられた。その際に滞在したのが同船長の家で、現在の友好記念館。(共同)
日野原先生も活躍されました。中濱万次郎は日本とアメリカの架け橋として永遠に語り継がれていくのですね。
6/20読売新聞 「ちきゅう 時の散歩 ジョン万次郎 in フェアヘブン」 にありましたが、町の図書館には1918年に中濱家から日本刀などの寄贈があり、その展示に対し第2次大戦中は不謹慎であるとの声が出たが、図書館側は「二人の友情の証であり、戦争とは関係がない」と展示を続けたそうです。またホイットフィールド船長宅は1950年代に人手にわたった後、老朽化著しく数年前に競売にかけられていましたが、聖路加国際病院の日野原重明理事長ら日本人有志の募金活動の末購入し、2009年5月「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」として町に寄贈されたとありました。
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幕末に学ぶ
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前回は幕末の歴史と同時期にアメリカで起きていた南北戦争を簡単に併記した。
「南北戦争」と聞くと「リンカーンの奴隷解放」を想起するだろう。私自身も小学生の頃から「悪の南部」「正義の北部」と完全に洗脳されてしまっている。
「南北戦争」をして「アメリカの戦争上手」を語った作品がある。以前、拙ブログで紹介した「夢の中に生きた男たち」(前田秀峯 廣済堂)だ。
太田節三と山本五十六の会話の部分だ。(P-69〜P-70一部引用)
<引用開始>
「・・・それに戦争の仕方が非常にうまい」
「うまいといいますと?」
「たとえば南北戦争だよ」
「あの奴隷解放戦争ですか?」
「うん。これはあくまで私見だよ。北部の工業を保護するために、アメリカはイギリス、ドイツなどヨーロッパからの工業製品の輸入を禁止した。それに対抗してヨーロッパ諸国は南部からの農作物の輸入を禁止した。そのせいで生活できなくなった南部の農家が、生活を守るために団結して北部に戦争を仕掛けたのが南北戦争だと思う」
「人道的な立場から、北部が南部に奴隷解放を要求したためと記憶していますが?」
「理由は後から何とでもつけられる。いつの場合も、勝った方が勝手に歴史を作るもんだ」
「そんなもんですかね」
「とにかく、貿易摩擦でヨーロッパに農作物を売れなくなった南部の農場主達が、にわかづくりの軍隊で北部に戦闘を挑んだわけで、勝負は初めからわかっていた」
「つまり、北部の勝ちと?」
「そう。北部は南部が攻めてくるのを待っていたわけだし、勝ち負けを含めてすべて計算の上での戦争だったと思う」
「その結果、北部は南部の農場主の持ち物であった黒人を北部の工場で働かせるために、奴隷解放という名のもとに黒人を自由にして、一番欲しかった安い労働力を手に入れたわけですね」
<引用終わり>
歴史を斜に構えてみている私でさえ「南北戦争」を「奴隷解放戦争」としかとらえていなかったのだから、ましてや、善良な普通の市民においておやである。
ところで、日本人の多くは東京裁判史観により、日本は侵略者であった、と教育され歪んだ罪悪感を背負って生きている。広島の原爆慰霊碑がその典型だろう。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませんから」
誰が過ちを繰り返さないのか?アメリカの原爆投下のことではないはずだ。アメリカ市民の多くは正当だと主張しているし、侵略者であったと教育されて育った日本人は、太平洋戦争を起こしたのは日本人だと思い込んでいる。日本人が日本人に対して謝っているのだ。アメリカは包囲網をつくり、日本を経済的に封鎖し、石油禁輸まで行い挑発した。アメリカこそ開戦の責任者なのだということに全く気づいていないし、考えることすらしない。先頃おやめになったルーピーな元総理にいたっては、日本は日本人だけのものではないと主張するのうてんきぶりだった。
「勝てば官軍」と言う言葉は誰もが知っているが、あとに続く「負ければ賊軍」というフレーズを日本人は忘れている。
「負ければ賊軍」は「歪んだ歴史観を押しつけられる」ということだ。それを全く意識しないルーピーな日本人が多いことは非常に嘆かわしいことだ。
前田先生の作品の一部を紹介するつもりだったが、またまたグチって終わることになった。いつものパターンだ。
ネズッチのようには整わない、ブログのご清読ありがとうございました。 ルーピー豚馬でした。
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ここ2週間「竜馬伝」を見損なっているが、池田事件は元治元年(1864)の出来事だし、武市半平太も岡田以蔵も生存中だから元治元年か慶応元年(1865)の時代設定だろう。
少しさかのぼること文久元年(1861)8月に武市半平太率いる土佐勤王党が結成されたが、アメリカではこの年南北戦争が勃発している。
リンカーンの奴隷解放宣言が出されたのが文久3年(1863).。日本では2月に清河八郎率いる浪士隊が結成され近藤勇や土方歳三らが参加した。その清河八郎が結成2ヵ月後に佐々木只三郎らに惨殺さている。また将軍家茂が攘夷決行の期限を5月10日と孝明天皇に奏上したのは、清河絶命の1週間後のことだ。8月には壬生浪士組が「新撰組」と命名された。
翌元治元年(1864)5月には勝海舟が神戸海軍操練所の頭取に就任、6月に池田屋事件となる。長州ではイギリスに密航していた伊藤博文、井上馨が攘夷の藩論を変えるべく急遽帰国している。
また慶応元年(1865)5月に龍馬の亀山社中が設立されている。この年アメリカ南北戦争は終結し、リンカーンは暗殺され、奴隷制度が廃止された。
日米とも激動の時代だった。
to be continued・・・・・・・・・・
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ジョン万次郎こと中濱万次郎の五代目中濱京さんが6/5(土)に札幌で講演を行った。
ジョン万次郎という居酒屋があるそうで、講演に行くと必ず「儲かっていますね」と言われるそうだ。
しかし全く経営にはタッチしていないそうで笑をとっていた。
「ジョン万次郎」という呼び名は昭和12年に井伏鱒二が「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を獲得して以来一般化したが、正しくは「中濱万次郎」だ。
講演ではプロジェクターを使い、簡潔丁寧にいろいろな資料の解説をいただいた。
そんななかで印象に残ったものがある。意味がわからずにいたものが理解できたからだ。正確には理解できた気になった、が正しい。
それがこの絵だ。
これは万次郎が著した「亜墨利加詞」・・・・・「あめりかことば」・・・・・にある。
正確な読み方は分からないが、中央には「書状をハリがねヱ付け継場々々ヱ飛大の図」とあり、下には「この間百五十里 但し一里は日本道では十四丁四十一間余りという」とある。
電信柱があり、電線には右から「ハリガ子(はりがね)」と書いている。
そうして左右にある建物には
「ポヲシタン」 「ソヲダ」 「ツナベ」という文字が見える。
実はこの言葉の意味がわからなかったのだ。
繰り返し発音すると分かるそうだ。
「ポヲシタン ポヲシタン・・・・・・・・・・」 「Push down プッシュダウン」
「ソヲダ ソヲダ ソヲダ・・・・・・・・・・」 「Sounder サウンダー」
「ツナベ ツナベ ツナベ・・・・・・・・・」 「Tune up チュンナップ」
たぶん、そのように解説されていたと思う。
初めは「手紙をハリがねにつけて送る」とあり、笑ってしまったが、専門用語を書いているところを見ると、電信の仕組みも万次郎は理解していたことがわかる。
長い間、その表現を笑い話にしていた自分を反省し、あらためて万次郎先生に敬意を表したい。
ところで「シタキ」という英語は何のことかわかるだろうか。
「シタキ シタキ シタキ・・・・・・・」
そう 「ストッキング」 「くつした」 のことだ。
6/20 記事追加
友人が画像を送ってくれたので紹介します。プッシュダウンキーとサウンダーの画像です。
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「将を射んと欲すればまず馬を射よ」という格言がある。「目的を達成しようと思うならまずその周囲にあるものから手をつけよ」と言う意味だ。
4月14日放送のNHK「歴史ヒスとリア」を観て頭に浮かんだ格言だ。その主人公は吉田松陰だったから浮かんだ。 「松陰・・・・だから将を射ん!?が浮かんだ」
私の中では「吉田松陰のようになりたかったらそれは難しいことだから龍馬にだったらなれるかも知れない」と聞こえる格言だ。
二人に共通しているのは人望と行動力だ。育ちのよさと優しさでもある。名前に「陰」がつくから龍馬の「陽(明るさ)」に対して「陰(暗さ)」を感じるが、おっとどっこい「火の玉」のような男だったことをあらためて知った。
松陰は幼い頃から「私事を捨て公のために生きよ」と教えられてきた。松下村塾では身分に関係なく優しく教える評判の先生だったが、老中を暗殺する計画をいさめる弟子たちに絶交を宣言した松陰は「諸友は功業をなす積もりなり、吾は忠義をする積もりなり」と弟子たちを叱りつけた。(番組から)
松陰の過激な行動は女気がなく潔癖症だったからとも言われるが、徹底した道徳教育の賜物だろう。
女を知らないから過激なのだということで、親戚が妾を世話しようとしたことがある。 が、謹慎中だから松陰はそれを断っている。厳しい道徳教育を受けていない私には信じられない話だ。だから凡人は厳格な松陰には到底なれないから、女性関係も豊かな龍馬にだったらなれるかもしれない・・・をお奨めしているわけだ。
番組では、ペリーのポウハタン号に友人の金子重之助と乗り込み、海外渡航を哀願する様子が描かれていた。このときの吉田松陰評がペリーの遠征記に次のように記されている。
この事件は厳しい国法を犯し、知識を増やすために命まで賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲を示すものとして、興味深いことであった。日本人は確かに探求好きな国民で、道徳的、知的能力を増大させる機会は、これを進んで迎えたものであった。
この不幸な二人の行動は、同国人に特有のものと信じられる。また激しい好奇心をこれほど良く示すものは他に有り得ない。日本人のこの気質を考えるとその興味ある国の将来には、なんと夢にあふれた広野か、さらに言えば、なんと希望に満ちた期待が開かれている事か!
嬉しい記録です!
明治維新の原動力に彼の薫陶をうけた高杉や久坂、伊藤や山県ら長州の若者が大きな役割を果たしている。「龍馬伝」で、もう一話「松陰」を描いてくれたなら明治維新がもう少し見えてきたかと思う欲張り豚馬でした。
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