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『何言ってんの?あんたなんか××××××じゃない。』
彼女が一体何を言ったのか。
今となってはよく思い出せない。
ただ、それを聞いたあと、
随分はらわたの煮えくり返る思いをしたのだけは、
よく憶えている。
それにしても何をそんなに怒っていたのだろうか。
俺はなんかとんでもないことを口走っててでもいたのか?
こんな一見どうでもいいことでも、
後になって考えると人生の重要な分岐点だったりするものだ。
都内の大学を卒業し、
都内にオフィスを構えるベンチャー系の企業に就職した俺は、
そこそこ仕事に満足を憶えていた一方、
生来ののんびり屋の性分がたたり、
いわゆる勝ち組的なプライベートを手に入れられずにいた。
それでも、他の大学の同僚たちが30前に結婚をすませる中、
彼女も作らず、あくまでマイペース且つ自分本位に
楽しむ生活になんら不満を感じてなどいなかったのだ。
あくせくするのは仕事の時間だけでいい。
プライベートまで、面倒な人間関係に巻き込まれて
自分の時間を失うなんてまっぴらだ。
みんな何をそんなに急いで、自分の親たちの記した教科書どおりの
幸福を手に入れようとするんだろうか。
全く馬鹿げている。
そんな調子で7〜8年、ひたすらマイペースに生きてきたのが、
ここにきて少し流れが変わってきたようだ。
それが、”彼女”との出会いだった。
”彼女”は3つしたの会社の同僚で、
社内でもたまに顔を合わせる程度の”他人”だった。
割とよく話もするし、食事もたまに行くこともあった。
だが、それはあくまで付き合いで、
俺にとっては仕事上の人間関係を円滑にするための潤滑油程度のものだった。
俺の本当の時間は別にあり、今ではない。
そう思っていたのだった。
こういう考え方は、現代ではさほど珍しいことではない。
極度に”個人化”の進んだ現代社会において、
”自分”が最大で唯一の社会的ユニットであると信じて疑わないのが、
イマドキの大人の生き方の主流なのだから。
”他人”に入り込ませる余地など微塵もないはずだ。
しかし、”彼女”は違った。
こちらが意図しないにも関わらず、
俺のフィールドにガンガン入り込んでくる。
その度に、なにか引力のようなもので無理やり引っ張られて、
”速度”が変えられていくのだ。
それは、車の助手席に座っている人が勝手にギアを変えるように無理やりだ。
正直、うんざりだった。
もう止めてほしい。
そう、思っていたのだが。
ウサギとかめの童話はご存じだろう。
あの話の内容は、今更ここで語るつもりもないが、
そもそもウサギはなんであんなに速いのか。
それは外敵からうまく逃げおおせるためである。
言い方と代えれば、”敵”という周囲にせきたてられるあまり、
無理やり速く走るようになってしまったのである。
決して自分の意志ではない。
対して、カメは何であんなに遅いのか。
それは、速く走る必要がないからである。
”周囲”に対しては、
いざというとき甲羅に閉じこもってやり過ごせればいい。
今更、ウサギになる必要なんてないのだ。
いつも自分で決めた無駄のない歩数を歩ければそれでいいじゃないか。
今にして思えば、あれはカメをウサギに変えるなんて事じゃなかった。
俺達は、カメでもウサギでもなく人間だ。
無数の選択肢のなかから、自由に幸福への道を選びとれる人間だ。
カメではたどり着けない幸福だってもしかしたら手に入ったかもしれないのに。
どうやら俺は、頭まで亀並みに鈍いようである。
fin
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