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マハトマ・ガンジー
モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi, 1869年10月2日 - 1948年1月3
0日)は、マハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)として知られるインドの宗教家、政治指導者。「マ
ハトマ(マハートマー)」は「偉大なる魂」の意味の尊称である。カースト制度の最下層である、「不可
触民」の制度の撤廃でも知られる。日本では、メディアを中心に「ガンジー」と呼ばれるが、正確には
「ガンディー(ガーンディー)」である。
性格的には、自分に厳しく他人に対しては常に公平で寛大な態度で接したが、親族に対して極端な禁欲
を強いて反発を招くこともあった.またナチスのホロコーストの事実に対し、ユダヤ人に非暴力・非服従
を説くなど非現実的な側面もあったことも否定できない.
南アフリカで弁護士をしていた。英国からの独立運動を指揮したがその形は民衆暴動の形をとるものでは
なく、「スワラジ(非暴力)・スワデジ(不服従)」を提唱した。この思想はインドを独立させ、大英帝
国を英連邦へと転換させただけでなく、政治思想として植民地解放運動や人権運動の領域において、世界
中に大きな影響を与えた。
グジャラート州ポルバンダルで、ポルバンダルの長官であるカラムチャンド・ガンジーとその第4夫人プ
トリバの子として、生まれた。ヒンドゥー教徒の家庭に生まれ育ったガンジーは、19歳でロンドンに行
き、ロンドン大学のユニヴァーシティ・カレッジに入学し、弁護士となる勉強をする。卒業後、1893年に
は南アフリカで弁護士として開業し、南アフリカの人種差別法に対してインド人の法的権利を擁護する活
動に従事した。1880年代以降、ガンジーはバガヴァッド・ギーターとレフ・トルストイの影響のもとに、
のちの非暴力運動思想を形成していく。第一次世界大戦が起こると、イギリスは将来の独立を約束して、
大英帝国下のインド人に協力を求めた。ガンジーはこの約束を信じ、インド人へ軍への志願を呼びかける
運動を行った。しかし戦争がイギリスの勝利に終わると、独立は問題として取り上げられなくなった。こ
のことはガンジーに、イギリスへの協力が独立へとつながらないという信念を抱かせるようになった。
ガンジーは「不可触民」を撤廃しようとはした。だがしかし、この不可触民を生み出し彼らを苦しめる
「カースト制度」は撤廃しようとはしなかった。カースト制度はインドの文化そのものであるといっても
過言ではない。日本では彼を「平和のヒーロー」とする傾向が強いものの、彼は実際には差別の根源であ
るカースト制度そのものを否定することはしなかった。
第1次大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、抗議のための断食を手法とする不服従運動
で、世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの
綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。この運動のために、ガンジーはたびたび投
獄された。たとえば1922年3月18日には、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受けてい
る。
ガンジーはヒンドゥー教徒だけでなくイスラム教徒にも影響を与えている。しかし、両者の融和を図った
ガンジーはヒンドゥー原理主義者からは敵対視され、1948年にニューデリーでヒンドゥー原理主義者によ
って暗殺された。
遺灰は、チベットのマナサロワール湖に撒かれた。
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不殺生のジャイナ教的家庭環境が彼の強みでも限界でもありますね。原点回帰主義でアシュラム作ったヒンズージャイナ派と神智学の影響も否定できない。カーストは職業分担と考えてたのか輪廻説的信仰なのか不勉強でして。
2005/7/18(月) 午前 3:57 [ wfe*1* ]
糸車
2006/4/11(火) 午前 6:47 [ - ]
はじめまして!私もインドが大好きなのですが、まだまだ知らないことばかりで・・・ガンジーは喜劇王チャップリンとも対面してるんですよね。 これから色々、学ばせてください。よろしくお願いします!
2006/11/14(火) 午後 1:05 [ tal**ochi8 ]
「非現実的な側面もあった。・・・」 そして、非現実的と思われたことを実現したのもガンジーですよね。 なんとも、次元の差を感じます。 http://koramu.com/kyoiku/gandhi.html
2007/1/1(月) 午後 9:17 [ コラム.com ]