『正統と異端 <総合研究書> 』
2004年6月20日 発行
第六章
13.イ・ジェロク牧師(万民中央教会)p379-p389
*教会名 万民中央教会
*住所 ソウル市グロ区グロ洞851
*教勢 約10万人
*主要機関 連合聖潔神学校
*教団 イエス・キリスト大韓連合聖潔教団
[質疑書への答え]
(1) 聖書観
聖書は、生きておられる神様のみことばで、聖書真理の幹になる使徒信条は、私たちの唯一の聖書的な信仰告白である。
* 聖書の新・旧約原文全体は御霊に感じて書かれた、絶対に誤りのない神様のみことばである。
* 聖書は、すべての人を救う絶対の経典であるだけでなく、信仰と行いの標準であり、教会政治制度の規範である。
* 聖書は、霊的リバイバルと祝福を与える真理であり、人間生活の唯一の指針である。
* 聖書は、神様の唯一の黙示であり、聖書に基づかない神学説や体験説は認めない。また、聖書の黙示を否定したり加減したり、批評的に解説したり、恣意的に解釈したりしてはならない。
(2) 神観
三位一体の神様は、永遠に「わたしはある。」と仰せられる方であり、唯一無二の霊であられるので、まことに聖く、愛であられ、公義であられ、真実なお方である。また、永遠のいのちであられ、御力と知恵と知識が無限で、何もおできにならないことがなく、どこにでもおられ、摂理のうちに有形・無形の万物を創造してつかさどり、守っておられる。そして、滅びていく人類のためにひとり子を世に遣わされた、慈しみ深い御父である。
(3) キリスト論
御父の神様のひとり子で、みことばで、いのちと光の根源であられる。また、真実で、全能の神様で、万物創造の根源で、御父の神様と一体であられる。
また、神と人間の仲介者となられ、人類を贖おうと聖霊によっておとめマリアからお生まれになったので、一つのからだに神性と人性を持つまことの神様が、まことの人になられた。
そして、十字架で死なれ、人間の罪をただ一度負われ、復活されたことによって、これを信じる者を義とされ、天に昇られ、私たちを完全に救うために親しく祈っておられる。
それだけでなく、やがて救われた聖徒たちを迎えて、生ける者と死にたる者をさばくために、天に上られたのと同じ有様で再臨され、まことにアルファとオメガであり、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、全能の方であられる。
(4) 聖霊論
御父の神様と一体の霊であられ、その御姿と力の威厳と栄光が御父と御子と同じで、永遠の神様であられる。
聖霊は、三位一体の神様のみこころを行う方として遣わされ、世に来られて罪と義とさばきについて悟らせ、世にその誤りを認めさせる。また、助け主として聖徒たちを教え導いて助けられ、力を与え、霊と魂を健やかにして、教会を聖なるものとされる方であられる。
(5) 人間論
A. 人の創造
神様が初めに人を創造されたとき、ご自分のかたち、すなわち、神様のかたちに人を創造された。ここで「かたち」とは、外形ではなく、神様の属性を意味する。これが人の霊と魂である。からだは土地のちりで形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれ、感覚があって動くようにされた。
人は霊と魂とからだの三つで成り立っている。もとは霊の生きた者として神様と交わることができて、神様よりいくらか劣るものとして造られた万物の霊長として尊く創造され、万物を治める権威を与えられた。これは神様が栄光を受けようとされることである。
B. 自由意志
神様が人類を創造されたとき、ご自分のかたち、すなわち、その属性のとおり自由を与えて、高貴なものとして創造されたが、人間が罪を犯して堕落した。これは、その自由意志を神様のみこころどおり使わずに乱用したためである。
しかし、憐れみ豊かな神様がこの堕落した人間を救うためにイエス・キリストを価なしに下さったので、誰でもその方を信じるなら新しく生まれ、神様の子どもとされる。しかし、自由を乱用して聖霊に従わない時は、再び堕落することもある。
したがって、聖徒はいつも聖霊に従うべきである。そして、この自由意志を認めるかによって予定説と予知予定説の差が生じるが、聖書の一貫した思想である自由意志を認める私たちは、予知予定説をとる。
C. 人間の堕落
神様が人類を創造される時に、ご自分のかたちに造られ、優しくて正しくて真実な性質を下さった。しかし、最初の人アダムが神様のみことばに不従順になり、自分の欲に従って自由意志を乱用し、人を欺く情欲によって滅びていくようになった。これが人格化して、古い人、すなわち、肉になり、子々孫々に伝えられた。これが遺伝してくる原罪である。すべての人はこの原罪によって罪を犯して、死ぬようになる。
すなわち、人には原罪と自ら犯す罪の二つの罪がある。自ら犯す罪は、自分が犯した罪なので、罪の責任が自分にある。原罪は先祖から伝えられた罪なので、罪の状態が同じであり、罪の責任はないけれど、この原罪によって罪を犯すようになる。また、この罪をきよめる道を示されたのに、信じないから問われることになる責任を免れない。
したがって、すべての人の罪をなくすために御子、主イエスが尊い血を注ぎ出されたと信じることによって、自ら犯した罪を赦され、原罪からきよめられなければならない。
(6) 救済論 (新生)
イエス・キリストが贖いのため死なれたことと復活されたことにより、私たちは新しく生まれる。
A. 義人
義人とは、「正しいと見なす、義と認める、義人と見なす」という意味であるから、神様の憐れみという主権的な行いとして罪人が悔い改めて、イエス・キリストの贖いの功を信じることにより、その人の犯したすべての罪が赦されて、神様の御前に義人と認められることを言う。義とされた人は、贖い、すなわち、過去に犯したすべての罪の刑罰から免れて、義人としての特権を受ける。義とされた状態は、その個人が神様への信仰と従順を続ける限り、維持される。
B. 新生
「新しく生まれる、再び生まれる、上から生まれる」という意味であり、人が義とされると同時に、聖霊によってその人格の中になされる道徳性の急激な変化を言う。
これによって、罪と咎によって死んでいた霊がイエス・キリストにあって新しいいのちとしてよみがえり、従順と勝利の生活をすることである。義人とは過去の罪に対する審判から解放されることであり、新生とは、人の心の中にイエス・キリストのいのちが入っていることである。
これによって人は罪の束縛から抜け出し、霊的なことに生き、罪に対して勝利して生きられる基礎が用意されて、養子の特権を受けることを信じる。
C. 義人と新生
義人とは、イエス・キリストの贖いの死を信じることによって義とされる、神様の主権的方法である。一方、新生とは、人の心の中に実際になされる道徳性の霊的変化である。義人とは、罪人の神様に対する立場が変わって義とされることであり、新生とは、その人の内なるいのちになされた変化のみわざである。したがって、義人とは、神様に対する私たちの立場を変えることであり、新生とは、私たちの内的本性を変えることである。
したがって、この二つのみわざは理論的に違うが、義人は論理的には新生に先立つけれども、体験としては同時に起こり、同じ信仰の行いとしてなされるものである。
D. 新生後の罪
新生した者は罪を犯さないことが原則だが、人間が弱くて罪を犯す場合、誰でも罪を犯したことを悟り、弁護してくださるイエス・キリストを信じて、へりくだって悔い改めるなら、再び罪が赦される。
(7) 教会論
教会とは、神様を礼拝し、また、聖徒の交わりと訓練を維持して、世を変えるために終わりの日まで保たれる所である。
教会とは、神様に召されて罪と悪の世と分かたれ、イエスを救い主と信じて贖われた聖徒たちの集団である。すなわち、イエス・キリストのからだであり、聖徒たちが集まって神様に礼拝をささげ、聖礼典を行う聖殿であり、神様のみことばを教えて福音を伝え、すべての魂が救われるようにする真理の柱と土台である。そして、すべての聖徒がイエス・キリストの花嫁になる資格を備えて、主の再臨を待ち望む聖なる公会である。
(8) 終末論
主が「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。」と言われた終わりの日、神様が決められた時にイエス・キリストが空中に降臨されて、聖徒たちは空中に引き挙げられる。
イエス・キリストは聖徒たちと共に空中で七年婚宴をした後、この地上に再臨されると、平和の千年王国を建設される。すなわち、空中での七年婚宴後、七年患難を体験したこの地上に降臨されたイエス・キリストがサタンを捕え、底知れぬ所に閉じ込めた後、メシヤの王国を建設されるのである。これは安息の時代であり、解放のヨベルの年であり、エデンの回復であり、預言の成就で、主の祈りの成就の時代である。この時代は、イエス・キリストが王の王として全世界を治められ、聖徒たちが主と共に王となる。この時代は、肉のからだを持った人と霊のからだを持った人が共同生活する理想的な世界であり、幸福の時代である
この千年王国が過ぎれば大審判があり、その後は救われた子どもたちは天国へ、救われなかった者は地獄へと永遠に分かれる。
[異端是非論難に対する答弁]
イ・ジェロク牧師に対する批判
次の批判内容は本委員会の見解でなく、韓国キリスト教総連合会の資料集や各教団、またはいわゆる異端研究者たちが批判した内容をそのまま要約転載したものである。(編集者の注釈)
まず、イ・ジェロクが呼べば、アブラハムなどすべての預言者たちと主の弟子たちが現れるということは、一種の招魂思想である。これはその類例を聖書で探せないものであり、神様が厳格に禁じられる異教徒的行為である(申命記18:11)。
次に、イ・ジェロクは自分を神格化しなかったと主張する。しかし、これは韓国の他の多くの教祖たちが実際には神として行動しながらも、表面ではそうでないと主張するのと似たようなトリックにすぎない。イ・ジェロクは両親から受けた血をすべて注ぎ出してしまい、罪の性質がない血を受けて、原罪と自ら犯した罪がなくなってしまったという主張や、イ・ジェロクからは死が避けて行くといった話、イ・ジェロクの霊が神様の御座の左側に座っているという話や、イ・ジェロクには生死の権威があるという話、また、自分には原罪と自ら犯した罪がなくて、主と自分は一つであるために、自分を太陽と月の中に入れて世に公布したが、これは自分に特許を出したという話、(中略) 結局、このようなイ・ジェロクの神格化思想はイ・ジェロクの救いの条件になり、キリスト教的にはもちろん、救済論でも怖ろしい異端思想を生むようにした。(韓国キリスト教総連合会、異端似非総合資料2004)
異端是非論議の部分に対する答弁
一教会や教団、または個人に対して異端の是非を論じようとするなら、彼らの教理や信仰全般に対する検討がなければならないと考えます。それなら、イ・ジェロク牧師と万民中央教会に対する異端の是非を論じることにも、当然、開拓以来今までイ・ジェロク牧師と万民中央教会が歩んできた信仰の路線を検討しなければならないでしょう。
イ・ジェロク牧師は今まで牧会をしながら、ただ創造主の神様と私たちの救い主であられるイエス様について宣べ伝えてきたし、聖書66巻の神様のみことばのとおりにだけ生きることを教えてきました。
また、万民中央教会もやはり、今までイ・ジェロク牧師の信仰と牧会観に従い、ただ神の国と義のために走って来た教会です。国内だけでなく、国外にも神の国の拡張のためにまい進してきて、大小の国内および海外集会を通して、数多くの魂たちを主のふところに導いてきました。そして、このような集会のたびにイ・ジェロク牧師が宣べ伝えることは、ただ創造主の神様と私たちの唯一の救い主になられるイエス・キリストであり、神様の栄光を現すことだけに全力を尽くしてきました。
ですから、イ・ジェロク牧師が連合聖会を導く国はどこでも、その国のキリスト教界が超教派で連合して聖会を積極的に助け、聖会を通して教会が大きくリバイバルするみわざが起きました。また、その国のキリスト教マスコミはもちろん、一般のマスコミまでイ・ジェロク牧師が導く連合聖会を取材、報道しました。また、連合聖会が終わった後、今でもその国々のキリスト教界との活発な交流がなされていて、相互間の協力と交流が日増しにますます拡大されつつあります。
このように、イ・ジェロク牧師に直接会ったり、イ・ジェロク牧師が導く連合聖会にともにしたりした人々は、全く異端の是非を問うことがないし、イ・ジェロク牧師の説教内容と信仰についても、大変聖書的であり、福音主義信仰路線に沿っているということに共感しています。さらに、聖書には異端とは何かについて明確に書かれています。
第二ペテロ2:1には、「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。」とあります。このみことばで「自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いてい」る者たちが、まさに「異端」であるとわかります。すなわち、イエス様が私たち人類を罪から救われた救い主になられるという事実を否定する人々が異端になるのです。
また、第一ヨハネ2:22にも「偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。」と書かれています。このみことばでも、イエス様がキリストであることを否定して、御父と御子、すなわち神様と主を否認する者たちが反キリストだと言われています。したがって、三位一体の神様を否認せず、イエス様を救い主として認める個人や教会に対して、一部の説教内容をもって異端だと罪に定める根拠とすることはふさわしくないと考えます。イ・ジェロク牧師が開拓以来、今までしてきた数多くの説教や冊子や印刷物を見れば、ただ神様と私たちの救い主イエス・キリスト、そして聖霊のみわざを明確に信じて伝えるという事実が確認できます。そのどこにも三位の神様を否認したり、イエス様が救い主であられることを否定したりする内容は決してないことをもう一度確認するところです。
しかし、何よりもさらに重要なことは、神様がイ・ジェロク牧師を保証しておられる証拠です。マルコ16:20に「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」というみことばのように、今までイ・ジェロク牧師が導く国内外のさまざまな聖会では、数多くの神様のみわざが現れました。これは国内だけでなく、海外各国の宗教界、はなはだしくは医師たちまでも確認した内容です。
さまざまな病気をはじめ、不治の病や難病がいやされ、目の見えない人の目が開き、話せない人が話をして、聞こえない人が聞こえるように、歩けない人が立ち上がるなどの数多くのみわざが現れているのです。そして、イ・ジェロク牧師がこのような神様のみわざを通して宣べ伝えようとしていることは、結局、創造主の神様が生きておられることと、イエス様が救い主になられることであり、宣べ伝えるみことばを確実に証しするこのような神様のみわざが現れることによって、今まで数多くの魂たちを主のふところに導けたし、神の国を拡張していくことができたのです。
また、イ・ジェロク牧師はこのような証拠を現すため、聖書が一点一画も間違いないことを証ししていて、これを通して聖徒たちがただ神様のみことばどおり生きなければならないと教えています。いつも神様のみことばに従って罪と悪を捨てて、善良に生きて、真理の中、光の中を歩むことを教えていて、自分もそのような人生を生きているので、聖徒たちの模範になっている方です。
このように、ただ神の国を拡張するために、また、魂の救いのために努めているイ・ジェロク牧師であり、このようなイ・ジェロク牧師を神様が明らかに神様の道具として用いておられるという多くの証拠があることにも、一部の教会を密かに妨害しようとする人々により、間違って伝えられている話をもって、イ・ジェロク牧師と万民中央教会全体をさばくことが果たして正しいことなのか、考えてみなければならないでしょう。ただ聖書に基づかなければならないのであり、神様のみことばである聖書に基づき、万民中央教会とイ・ジェロク牧師の信仰を見分けなければならないのであり、神様が用いられている教会と主のしもべなのか、そうでないかを見分けなければならないでしょう。
参考までに、韓国キリスト教総連合会で異端決議した内容を見れば、これはイ・ジェロク牧師や万民中央教会の全体的な教理や信仰の路線に対するものでなく、前者で批判した内容を見れば、一部で間違って伝えられたり、その意味がわい曲された話によったりしたものでした。今現在、万民中央教会で信仰生活している聖徒たちならば誰も、イ・ジェロク牧師を神格化したり、イ・ジェロク牧師本人が自らを神格化していると思ったりする人は決していないし、この点についてはイ・ジェロク牧師自らも講壇で幾度も強調する内容です。神はただ三位の神様だけで、救い主もただイエス様おひとりだけであり、聖書に背くどんなこともありえないことをイ・ジェロク牧師は数多くの説教を通して強調してきました。このことを万民中央教会で信仰生活するすべての教会員一同が確認するところです。