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民主主義の2つの大黒柱は選挙とマスコミである。この2つが国民側に確実にある事で民主主義は成立する。マスコミがブラックマスコミという事は、選挙も不正選挙ブラック選挙という事だ。選挙をどうやって公正にするか、民主主義を望む国民の最重要課題である。

学校の中の選挙に不正は起きない。選挙は小さいと公正だ。それは参加者みんなが見ている、つまり監視しているからである。国民監視こそ公正選挙の絶対要件である。今の日本じゃ選挙と言うと選挙管理委員会の仕切りが目立つ。この委員会の都合に合わせて選挙の形や内容が決まる。日本の選管の実態はRK独立党の功績で白日の下に曝された。連中の思いのままの選挙になっている。連中の為の選挙である。今や公的組織全てが如何わしいという事が分かって来た。選管も当然入る。もはや如何わしいも通り越す。犯罪集団である。

何故こんな事になったのか。理由は簡単。国民監視が全くない。選管性善説が罷り通っている。国民監視が無ければ、公務員は組織として劣化する。当たり前の事である。権力を持つ者は利権を持つ。利権と欲望が組織を歪める。一旦歪むと組織には負の縛りが強烈に作用する。中にいる者もどうしようもない。逆に縛りを強化する側に回る。その方が楽である。利権と欲望は組織を一体化させる一方で、悪質化が強烈に進む。ヤクザとさしたる違いは無い。マクロ的には偽ユダヤの世界支配という暗黒の構造があり、日本もウクライナも傀儡政権が支配する。国家権力自体が真っ黒だから、末端公務員組織など歪む事が宿命づけられている。こういう構造だから、選管に国民監視が及ばないように意図的にされる事になる。

学級選挙も国政選挙も本質は全く変わらない。選挙は選挙である。学級選挙に不正は不可能だ。全員の監視と再集計がすぐ可能という事が不正を不可能にする。国政選挙などになれば、選挙事務は巨大になる。そこに不正が付け入る隙が山のように出て来る。監視役は国民じゃなく選管職員となる。選管は性悪説で見なければならない。選管は必要だが、選管にお任せはあり得ない。選管は国民の監視下に置かなければならない。言うのは簡単だが、具体的にどういう風に監視するのかを考えると大変である。しかし、しょうがない。そうしなければならないのである。

選挙は選挙事務の巨大さもあるが、この国民監視というもう1つの巨大な作業もあるのである。これこそ国民の選挙参加というものである。ただ投票して終わりではない。選管の監視という後作業もある。投票と監視が国民の選挙である。これまで世界中の国民は投票だけが国民の選挙参加と思い込まされてきた。これは不正選挙の為であると言ってもいい。権力側の思い通りの選挙にする為に、国民には選挙参加の半分だけに止めていたのである。学級選挙でもし委員が別室に行って開票集計したらどうなるだろう。もうクラス全員不信感に陥るだろう。同じ事が国政選挙で起きている。本当に馬鹿馬鹿しい。選挙が巨大になると、国民もお任せになる。国民自身が国民主権を放棄している。

民主主義は国民と権力の戦いである。国民は選挙こそ唯一にして決定的力である。選挙の全行程を完全監視しなくてはならない。ムサシなんかの出る幕はあり得ない。国民が監視できる選挙は手作業の開票集計である。投票箱を投票所から開票所まで車で運ぶなんてあり得ない。国民が監視できる選挙事務、開票集計事務としなければならない。選挙は根本的に原始的でなくてはならない。コンピューターの導入はあり得ない。開票から結果判明まで時間がかかるのは当たり前である。マスコミの8時当確などあり得ない。国民の徹底監視が民主主義を保障する。今までの選挙は権力側の為の選挙だった。国民の監視を排除していた。まず国民はこの点の欠陥に認識を得なくてはならない。

国民の徹底監視なき選挙は、それだけで不正選挙である。

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