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日本の選挙は民主主義国のものではない。凡そ傀儡国に民主主義はない。民主主義体制があってもそれは形だけ。何でもそうだろうが、ポイントを押さえてしまえば物事は動かなくなる。機能停止、機能不全である。人間の体だって、膝を1つ固定してしまえばもう動けない。車も4輪の内1つでもパンクすれば、もう走れない。民主主義も選挙のポイントを押さえてしまえば、機能停止である。それが供託金と選挙監視権である。ここさえ押さえてしまえば、選挙などどうにでもなる。

選挙とは国民の参加によって行われるが、参加に制限を設ける事でコントロールできるようになる。国政選挙は巨大システムである。国民の参加が完全な形になっていない限り、権力の悪意によるコントロールが可能になる。供託金0の米だって不正選挙があった。それは選挙監視権の問題である。巨大なシステムは権力が悪意を持てば操作されてしまう。国政選挙は大変な代物である。まずはこの認識が必要になる。巨大なシステムをどうやって正常に機能させるか、議論が必要になる訳である。日本国民は基本的に善良である。選挙の不正など仮にあったとしてもごく一部としか思わない。日本国民は選挙に対してほとんど絶大な信頼を寄せて来た。国家権力が悪意を持って選挙をコントロールするなど想像だにしなかっただろう。日本国民が全く知らない所で、悪意が国家権力を動かして巨大システムをコントロールして来たのである。

何故衆参不正選挙が三度も連続で行われたのか。そこから何か根本的な事を学ばなければ、国民にとって民主主義は永遠に未来の彼方である。選挙はあまりにも巨大過ぎる。その意味は、選挙は権力の手にあるという事である。民主主義は権力の手にあるという事になるのだ。選挙が正常に機能すれば、民主主義は機能する。しかし、選挙は権力の手にある。権力次第の選挙という現実から出発しなければならない。小さめの選挙なら、権力も選挙をコントロールし難い。市区議会議員選挙の供託金は30万円である。これなら国民は立候補し易い。沢山の候補者が掲示板にポスターを貼ってくる。小さな選挙に沢山の候補者という事は、選挙の監視が行き届く事を意味する。権力の選挙掌握は不可能に近い。できるとすれば精々個別的買収である。因みに日本にも供託金0の選挙があった。町村議会議員選挙である。国家権力は町村議会にまでは関心がないんだろう。国民に一番身近な選挙は最も信頼性が高いという事になる。

小さな国ならいざ知らず、人口1億を超えるような巨大国家の国政選挙は個々の国民にはあまりにも巨大だ。国家の巨大なシステムそのものである。国民にはそんな巨大なものを監視する意識すら生じない。国民にできる事は単に投票する事だけである。1選挙区の立候補者もブラック供託金の所為で僅かなものである。ブラック政党のブラック候補者ばかりで、国民は関心を持てない。監視の目が行き届かない中で権力は選挙を掌握できる。巨大な選挙は権力の思いのままである。ここが認識の出発点となった時、選挙監視権の確立とブラック供託金の廃止が出てくる。つまり、国政選挙に対する国民の完全な参加という事である。

巨大過ぎる選挙は国民の完全な参加がなければ、権力の掌の中で行われる事になる。民主主義は権力に首根っこを押さえられているのである。

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