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朝っぱらから、堅苦しい言葉になってしまいますが、我が町の人材不足を痛感している、長い活動経験から、町村合併になり新町における、各種団体の統合や合併の論議において、自分が感じるのはこの国の、学校教育システムや社会教育の事業の方向性の間違いと欠如によって、育つべき人材が些少性に陥っていると感じる。
世界の大局的にみるならば、19世紀までの欧州世界の覇権から、20世紀のアメリカ主義の席巻を経て、21世紀からはおそらく中華主義の台頭と滲透によって、我が国の「和」精神的根幹も「我」精神に変わって行くものと思われる。
中局的にみれば、長期的展望の欠落した教育により、末節に重きを置いた「ゆとり教育」で育てられた社会人が増え続け、対人的な対応力を持たない大人が増える。
団塊世代以前と団塊世代を、小国民世代ともいいますが、この世代には「無償の奉公」という概念は全くなくて、理想主義に犯され、主義主張ばかりで武装している世代です。自分もこの世代に入る・・・・が!!
小局的とは、身の回りの世間という事になるが、よく地域の教育力や地域の底力とも言いますね。
地域貢献なんていう言い回しもあります。
「衣食住足りて礼節を知る」
この言葉は、真の意味も分からない自分が使うのも変なのですが、この「礼節」goo辞書で調べると、社会生活の秩序を保つために必要とされる行動・作法と載っていますが、この礼節という概念が欠落していると思います。
町村合併になり、民間レベルの団体も統合に向かって行くことになるのですが、民間レベルでの感覚の相違が自分を苦しめることになるでしょう。
国民主権とは憲法の基本理念ですが、この国民主権という命題が、産みの苦しみから生まれたものではなくて、占領統治によって国民精神の操縦から導入されたものである事が、仏法で言うところの「他力本願」的発想に転嫁し、礼節が自身の昂揚であるべき処を、自治体依存に変化した結末(いささか詭弁に近い)だと言えます。
この事が、住民自治であるべき処を、行政依存体質で戦後居続けたことが、現在の軋轢を産む切っ掛けとなっている帰来もあります。
旧町では、団体の事務を行政から民へと転換が行われ、お粗末ながらも民主導で団体事業が行われているが、新町になり統合化が進む中で、議論の核となる民主導と言うことが妥協できないで居ます。
これは、旧○○○町が団体の事務を、役場職員が担っているという事から、団体の役員は名誉職の感覚が強く、問題提起の意識が欠乏している事からも伺い知ることが出来ます。
このなかで、統合を進めようとするとき、時間の経過が遙かに長くかかることも想定されてくるでしょう。
これは、全国各自治体に置かれている社会教育行政の欠陥から、生み出されたものであると言うことも分かります。
この国に社会教育を打ち出したときに、社会教育主事を置いた事から始まり、この社会教育主事の研修と行動が、本来の社会教育であるところから離れた、学習という大義に変化した事が、今日の「他力本願」を生み出した事に繋がって行くのです。
地域の教育力とは、地域独特の風土に根ざした人材育成にあり、地域間の文化的競争原理によって、育成醸成された人材が巣立つ環境の「土づくり」にあるはずであり、個人の素養は個人の労力と地域の文化から導き出されるものであると思うのです。
国民主権は住民主権であり、言い方を変えるならば自立と協調こそが、国民主権を生み出す事になります。
このままこの政権が続いて行くならば、生活保障と社会保障で亡国となるでしょうし、生きる権利を担保するのは自身でしかあり得ない事も気づく必要もあります。
「働かざるもの食うべからず」この言葉は全ての基本でなければならない。
一生懸命に働いているものが、生活保護世帯や、年金受給者よりも逼迫した生活を強いられるというのは、本来あってはならない構造でありますから、貧しくとも日々働く事で、慎ましくも心豊かな生活を送る事を保障する憲法理念でなければならないと思います。
戦後65年も過ぎれば、65年間に作られた精神構造と社会構造は、やたらに犯すべきではありませんが、自分は戦前の教育勅語に、この国の国民が収めるべき指針があると思うのです。
これからの世界が向かう方向は、中華一色となるのは目に見えていますが、その中華思想に突然と立ちはだかるべき精神的指向性は、この国の「和」の精神支柱でしかないと思う一人です。
そのためには、身近なところでの住民主権を滲透させる事から、一歩一歩と長い階段を上るしかないでしょう。
と
半端人間の蛇足からの一言。
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