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彩子は目黒のマンションの1室にあるヴォイストレーニングスタジヲへ通っている。
師は「西村入道」。
友人が人生の西村氏を師と仰いでいることは以前から知っていた。
ジュンク堂にて、西村氏の著書を立ち読みし、自分でできるトレーニングはどのようなことか、
調べた。
まず、「CDアルバム」のタイトルと楽曲を書き出しなさい。
と、描いてあった。
「イメージ」「シュミレーション」ということか。
何冊かある中から1冊だけ購入し帰った。
その本が本棚にあるだけで、歌手の卵になった気分でいた。
ある夏の日、彩子は目黒にあるロイヤルホストの1角に座って友人を待っていた。
友人の後輩らしき人が来店したが、お互いに面識がないので、彼は、別の席を選んだ。
少し遅れて、長身で鼻筋の通った友人が来店し、「すまん、すまん」と、いいながら、
後輩に手をあげ挨拶をし、私の目の前に座った。後輩も、同じ席につく。
これから、揃って入道さんのスタジヲを訪問するのだ。
一息ついて、改めて挨拶をし、タバコを何本か吸ってから、ロイヤルホストを後にした。
手土産に何か買っていくからといって、八百屋と酒屋に寄った。
友人は日本酒を手に取り、「これで、いいかな」と、レジへと向かった。
彼の後輩と私は、同時に「私も(僕も)出します」と千円ずつ差し出した。
「いいよ、俺が、入道さんに贈りたいわけだし」と、彼は言ったけれど、
2人は、黙って千円札を差し出したままでいた。
「ありがとう、じゃ、早いとこ、行こうか」と、3人の財布から出した金で支払いを済まし、
マンションへ向かった。
マンションは音楽をする人間のために造られたものなので、壁には、音符などが書いてあり、
防音設備を整っているようだった。
オートロックの番号を「何年ぶりだろう、この番号押すの」とイイながら、ミスすることなく
呼び出しボタンを押すと「はい」と、厳格そうな声が聞こえてきた。
「あ、Iです。」と言うと、ウィーンガチャリという機械音で施錠が解かれた。
彩子はもう1度身なりを確認した。
狭い玄関をデカイ2人とやや背格好が小さい後輩がドヤドヤとくぐり、
奥の部屋へとすすんだ。
西村氏は開口1番「すまんが、スリッパをはいてきてくれんか」と言った。
彩子達が玄関へ戻りスリッパを履いている間に、入道さんは、コカ・コーラを用意してくださっていた。
王冠をはずして瓶を差し出してくれた。
「酒の方がいいか?」と、気を使ってくださったのかジョークなのか、仰ったが、
3人ともコカ・コーラを頂戴した。
彼が「じゃ、お前から、これ渡して」と、先ほど購入した日本酒の瓶を手渡した。
少し戸惑いながら、「あの、これ、3人で、いや、3人からの・・・」
水商売を6年以上も経験してきたくせに、まともに挨拶ができずに、手土産を贈呈した。
「ははは、酒は最近控えておるのだが、ありがとう」と、屈託のない笑顔で受け取ってくださった。
入道さんと彼との久々の挨拶の間、ずっと、部屋の見回したり、彼らの表情を見たり、
後輩のため息を聞いたりしていた。
そして、彼が、私たちを紹介してくれた。
「彼は、先日サラリーマンを辞めて、音楽の道1本で行きたいと考えている僕の後輩で、
そちらの彼女は昔からの友人で、以前から歌を歌いたいと言っていて入道さんのことを紹介してほしい
とのことです。」
まず、西村氏は後輩の彼に幾つかの質問をした。
「好きなアーティストは誰だ」
「自分の10年後は何をしているか」
「デビューするのは何年後で、どの箱で何人の観客を動員できる」
「月額いくらあれば生活ができる」
「どのくらいのペースでレコードを購入している」
総て、彩子への質問でもあるのだと想い、頭の中で考えていた。
が、なにせ彩子は情報量が少ないし、、3桁以上の数字を見ると貧血を起こすくらいなので
まともな答えができそうもないことだけが確認できた。
彼は、彼なりに、キチンキチンと応えていたが、容赦ないダメだしを幾つも受けていた。
そして、西村氏は「じゃ、え〜、っと彼女は、どうなのかな?」と、彩子へ体の向きを変えた。
「あ、はい」と、答えになっていない答えをしたら、
「ま、好きな歌をもっと愉しみたい、ということだな」と、仰ってくださったので、
「はい、そうです。」と応えた。
「彩子の好きなアーティスト」も「10年後の彩子」のことも聞いてくれなかった。
入門の際に必要な書類を手渡してくれて、「やりたくなったら、これに記入して
電話をしてきなさい。電話番号は○○○−○○○○−○○○○。
メールアドレスは・・・・」と入門の手順を教えてくださった。
それからは、最近のIの活動や、入道さんの活動、エグザイルの話などが続き、
そうしているうちに、「浅ヤン」で、ケミストリーが結成されたときにオーディションに
参戦していたうちの一人の子が入室してきた。
「どうも、○○です」「どうも、Iです。」
と、二人は挨拶をし、後輩と彩子は会釈をし、レッスンが始まるので、
スタジオを後にした。
目黒駅まで、Iが、車で送ってくれた。
車内で、最近入道さんがだしたCDをかけて、「こんなことをやっている人だよ」と教えてくれた。
ゴスペルだった。
「じゃ」と、車に手をふり、後輩君と二人きりになった。
お互いの連絡先を交換し、それぞれ別のホームへ向かった。
2週間後、彩子は、入道さんとビールを飲んでいた。
レッスンを早めに切り上げ、「この後スケジュールがないのなら、ま、飲んでいけ」
と、誘われたので、喜んで相伴に預かった。
「ところで、彼は、連絡してきたのですか?」と尋ねた。
「ぃや、ないねぇ。」と、カブの煮物を割り箸でつつきながら入道さんは答えた。
「そうですか」彩子はビールを飲み干す。
「無礼講だからな、手酌で、いいぞ」と、彩子の空いたグラスにビールを注いでくれた。
「ところで、彩子は、どんないたずらをしてきた?」と突然聞くから
「いた、ずら?」と、質問に質問で返した。
「芝居だとか、ほら、いろいろ」と言われたので
「いや、特にないです。」
「なんだ、少々いたずらしなさい」と笑いながら、言っていた。
後で思い出した。「あ、ホステスをしていた」
考えてみれば彩子はいたずらに生きてきた。
そんなことを想い出しながら彩子は病床で、ノートを閉じた。
都内で最古の精神科病棟。
このことを博士は知らない。
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