熟年夫婦の明日香村移住日記

05年にしぐれさんと憧れの飛鳥に転居した、元東大全共闘、ムラ弁護士のカキシャンの文化に目覚める日記

日本のこころー神仏習合

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神仏習合と政治的安定

山折先生の多神教文化と政治の安定にかんするエッセイを記録しておきます。



【正論】宗教学者・山折哲雄 「多神教」システムと政治の安定
2009.12.21 03:03

このニュースのトピックス:正論
 ≪「仕分け」の意味が変わる≫

 今年は、海の向こうの「チェンジ」で陽(ひ)が昇り、海のこちらの「政権交代」で暮れようとしている。年末になって周囲を見渡せば、仕分ける人と仕分けられる人がマスコミという土俵の上で四肢(しこ)をふみ、睨(にら)み合いぶつかり合っている。

 「仕分ける」という言葉を誰が発明したのかは知らないが、以前それはたしか「評価する」ということだったのではないだろうか。それがいつのまにか、魚や野菜の代金や種類を仕分けるように、ヒトの行動や人格までを仕分けるようになったということになるのだろう。

 ふと、思い出す。経済が上向きになりかけたとき、われわれの社会に「コメ作り」という言葉が流行(はや)りだした。「稲作」という言葉がいつのまにやらワキに押しやられ、クルマを作るようにコメを作りだしたのだった。そんなことまでが念頭によみがえる。

 さて、その「政権交代」のことであるが、私はかねて、民主主義という政治システムにもっとも適合的な宗教システムが多神教というものではないかと単純に考えてきた。というのも多神教こそ、それがどの文明圏に発生したものであれ、多元的な価値を前提に多様な人間集団を結合する宗教システムとして機能してきたのではないかと思っていたからだ。

 ところが、それにたいして宗教世界の一神教は、ご承知の通りただ一つの神を信ずる宗教のことだった。キリスト教やイスラム教はそのような一つの神を超越神とか絶対神と呼んで、地上的なものとは隔絶する価値をもつものとみなしてきた。

 ≪民主制度と一神教の矛盾≫

 おそらく、そのためだったのであろう。私の常識的な感覚では、このような一神教は政治の領域における専制支配や絶対君主制と対応するように映っていたのである。なぜなら超越神が全宇宙を支配しているように、この地上世界をいわば民衆の頭ごしに超越的に支配しようというのが専制支配であり、絶対君主制であるようにみえたからだった。要するに、一神教とは、宗教の世界における独裁体制だったのではないか、と。

 ところが、である。私には歴史の皮肉としか思えないのであるが、まさにその一神教的な土壌から産みおとされたのが、あのデモクラシーという近代のもっとも洗練された政治体制だった。イギリスの民主的な議会政治もフランス革命の急進的な民主主義も、みなこのような一神教的な風土の申し子だったのではないか。

 なぜそうだったのか。ヨーロッパの歴史を語るときにしばしばいわれることであるが、近代以前の多元的な政治主体は、既得権力や利権とふかく結びついていた。それは一面でたしかに多神教的に割拠する形をとってはいたが、いわゆるデモクラシーとは似て非なる政治体制をつくりだしていた。そして、そのような権力や利権の源泉を打ち砕くためにこそ、たとえば絶対君主制のような権力が必要だったのであり、一神教のような超越的な権威が重要な役割を演ずるようになったのだ、というわけである。

 近代民主制と一神教の相互関連、という問題である。おそらくその通りであろうと思うのであるが、ただ、もしもそうであるとすると、一神教を知らなかった日本列島の政治システムの現状と将来はいったいどうなるのかというのが、今日の「政権交代」劇を前にしていても、いぜんとして心を去らない疑問なのである。

 ≪神仏共存が平和社会生む≫

 ここで話は、いきおい歴史の回顧へとむかうことになるが、わが国では平安時代の390年、江戸時代の250年という長期にわたる「平和」の時代があったことにご注意いただきたい。このようなことは西欧の歴史においてはもとより、中国やインドにおいても見出(みいだ)すことができないのである。いったい、一国の政治体制として、どうしてそんな奇跡のようなことが可能になったのか。

 その原因はいろいろ考えられるであろうが、細部を省略していえば、その2つの時代においては政治と宗教の間にじつに良好なバランスがとれていたからではないかと私は思っているのである。国家と宗教の相性が良かったからだ、といってもいい。そしてそのことを深い文脈において可能にしたのが、神仏共存の宗教システム、すなわち神(カミ)の領域と仏(ホトケ)の領域をすみ分ける多神教的なシステムだったのではないだろうか。いってみれば、多神教的なエートスが酵母となって、政治や社会の安定に寄与していたのではないかということだ。

 ただ、困難な問題がまさにそこから発生するはずである。なぜなら、そのように一神教を知らないわが国の政治が、はたして西欧型の民主制を真に受肉することができるのかという疑問がおこるからである。

 この年末、「仕分け」のドラマが一時休戦状態に入っているなかで、あらためて考えてみたい事柄である。(やまおり てつお)(産経)

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あるパーティで神仏習合の大家・山折哲雄先生とお会いしご挨拶をいたしました。

「学生の時は、全共闘で暴れていましたが、今は、山折先生の神仏習合日本宗教論に最も興味をひかれております」と打ち明けましたら、先生は、「全共闘には、昔いじめられました」などとにこやかに返されていました。

画像の二人の女性は、昔からの山折先生の知己で、機関誌・「あかい奈良」の編集部の女「闘士」。

談山神社 2

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前回行ったときあんまり面白かったので、また行ってきました。

行って詳しく見れば見るほど神と仏が融合している有様に日本の宗教の原点を知らされています。

20年ぶりに福島からの友人を案内して談山神社にお参りしました。

一言でいえば、神仏習合の始まり、神仏の全般的融合・からまりを強く感じました。

日本宗教政治史の点でも貴重で、実に新鮮な驚きでした。


概要 [編集]
鎌倉時代に成立した寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇7年(678年)、長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地(参照:阿武山古墳)から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。天武天皇9年(680年)に講堂(現在の拝殿)が創建され、そこを妙楽寺と号した。大宝元年(701年)、十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(現在の本殿)が建立され、聖霊院と号した。談山の名の由来は、藤原鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。

平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。鎌倉時代には曹洞宗本山永平寺の二世、孤雲懐奘(大和尚)が参学した。

平安時代に天台僧・増賀を迎えたことから、同じ大和国の藤原氏縁の寺院でありながら、宗派の違う興福寺とは争いが絶えず、鎌倉時代から室町時代にかけてはたびたび領地などを巡り争論を繰り広げていた。

1585年(天正13)、豊臣秀吉により、郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。1590年(天正18)年に、帰山を許された。徳川家康により復興。近世の朱印領は3000石余である。

1869年(明治2)に僧徒が還俗。談山神社と改称された。

仏教伽藍は現代も談山神社境内に見ることができ、登拝者も後を絶たない。明治の廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが、建物は寺院建築をそのまま使用しているため、独特の雰囲気を残している。

談山神社から御破裂山への山道があり、その奥に藤原鎌足の墓所といわれる陵がある。談山神社から、少し歩いたところに藤原鎌足の次男、淡海公(藤原不比等)の墓といわれる石塔がある。

尚、拝殿や十三重塔は戦前に何度か日本銀行券の図案に採用された事がある。(ウイキペディアより)

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