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垂水区担当行政相談委員と総務省兵庫行政評価事務所では、下記の通り「神戸なんでも行政相談所」(一日合同行政相談)を開設いたします。

年に一回、税理士、司法書士など各分野の専門家が出張して無料でみなさんのご相談に応じる貴重な機会です。
ぜひお気軽にお越しください。

1.と き 10月28日(火)
       午後1時~4時(受け付けは3時30分まで)

2.ところ レバンテ2号館 1階ロビー(垂水図書館前)  

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 用があって、ひさしぶりに国の合同庁舎を訪れた。合同庁舎というのは、各省庁のさまざまな出先機関が入居しているビルである。驚いたことに、一階ロビーを入ったところに機械式のゲートが設置されていた。入館者はまずゲート手前の受付で、入館時刻、氏名、会社名、用務先などを受け付け簿に記入しなければならない。しかるのち警備員から渡される入館証を機械にタッチすることでゲートが開き、ようやく中に入れるという仕組みである。
 
 最近導入されたらしいこのシステムは、庁舎や職員のためのセキュリティ対策であろう。しかし、私は何か釈然としないものを感じた。ただでさえ敷居が高く感じられる役所なのに、このいかめしい関所は何だろう?まるで役所が私たちを不審者扱いしているように感じてしまう。セキュリティ対策が必要という点では、市役所や民間企業、街の商店でも同じことである。しかし、このようなゲートはどこも設置していない。それとも国の役所は特別ハイレベルの対策が必要、というのだろうか?

 入館証には「庁舎への入庁を許可する」と書かれている。合同庁舎は私たちの税金で作られ維持されている施設である。それなのに、私たちは個人情報を提供し特別の許可を受けなければ中に入ることもできないのである。入館証には、「庁舎内にいる間は、見やすいように入館証を着用してください」という指示も書かれている。しかし、肝心の職員には名札を着用していない者も多い。

 最近は、テロ対策、安全対策という名目を掲げれば何でも通用する風潮が広がっている。だから、国の財政が危機的状況にあっても合同庁舎のゲート設置予算は国会でさしたる議論もなく認められてしまう。利用者である国民の利便性の低下、心理的負担の増加などはセキュリティ対策という名目の前には顧みられることもない。皮肉にも、私たちは自らの税金で作られたゲートによって役所から締めだされているのである。

 セキュリティ対策が必要だとしても、それが直ちにこのようなゲートの設置に結びつくのはきわめて短絡的な発想だ。もっと利用者の視点に基づいた工夫や方法を考えることが必要ではないだろうか。
 
神戸国際行政書士事務所
 
 
注:上記批評文の要約版を、5月5日付朝日新聞大阪本社版朝刊の「声」欄に投稿しました。

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いまの子どもたちは「個室」がないと承知しない。
「ひとり」になることができる空間がないと落ち着かない。

個室にこもり、ゲーム機で自分だけのお気に入りの世界にひたる。そして、ゲームに飽きるとお気に入りの友だちとだけケータイでコミュニケーションにふける。
一家に一台の固定電話時代とは異なり、たとえ親といえども他人がそのコミュニケーションに介在することはできない。

外出する時も、ケータイ、DS、ipodで武装する。
個室を持ち歩いているようなものである。

人々の生活スタイルが個人を単位にするようになると、「食べる」という生存のためのもっとも基本的な行為も個人単位になるのは自然の勢いである。「個食」ないし「孤食」という言葉はこうして生まれる。

かつては家族や親族、地域社会といったさまざまなレベルの共同体が、制度や技術や価値観の出発点になっていた。
一人ひとりの個人は共同体のメンバーであることによって存在意義が認められた。

それが今日では「個人」がこれらの出発点、原点になる。
共同体や社会は個人の集合という形で認識されるようになる。

要するに、個人と共同体の関係が逆転したのだ。

こうなると、人々がまず「自分」に関心を向けるようにあるのは自然のなりゆきだ。「自分」へのこだわりが際限なく昂まり、「自己実現」という観念がまるで強迫神経症のように人々にのしかかってくる。

神戸国際行政書士事務所
http://homepage3.nifty.com/kij/

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「自分」という個体の単位で自己の存在を確立しなければならない、というのが今日多くの人々が抱く強迫観念である。

このことは、「ひとり」という存在様式が人類社会の中で普遍的な傾向になりつつあることと表裏一体の関係にある。

たとえば、遊びの場を考えてみたい。

いまの子どもたちはみな携帯ゲーム機を持っている。
友だちが集まっても、各自が自分のゲーム機とにらめっこをしている、という光景はよく目にする。

もちろん、ゲーム機を介して友だちとコミュニケーションもするのだが、核にある形態は「ひとり遊び」である。

Ipodもいまの若い人たちの必須アイテムである。
30年前に世に出たウォークマン以来、音楽は持ち運んで「ひとり」で楽しめるものになった。
電車に乗っていても、街を歩いていてもイヤホンでお気に入りの音楽に浸っている。
外界の情報を遮断して、「ひとり」の世界に没入している。

でも昔はそうじゃなかった。
音楽は持ち運べるものではなかった。

音楽は、楽器があり奏者がいるところに足を運んで、「みんな」とともに楽しむものだった。
音楽は、まつりの場、神々との交歓の場で共同体が経験する出来事だった。
田植え唄のように、「みんな」と共同作業するなかで自然発生的に生まれるものだった。

技術の進歩によって、「みんな」ですることが「ひとり」ですることに変わってきた。
これが、人類の歴史である。

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昔の人々は自分の名前、他人の名前に今ほどこだわらなかった。だから、ころころ名前を変えてもさほど不都合はなかった。まるで物のように主君から名前を拝領して今日から名乗りを変えることにもこだわりはなかった。

名前が自分のアイデンティティに直結している今日では考えにくいことである。
名前にこだわりが少ない、ということはその名前の主である「自分」にもいまほどこだわりがなかった、ということである。

今の人々は何より「自分」にこだわる。
それはアスリートたちのコメントからも明らかだ。

「自分」の相撲が取れたので満足です。
「自分」の滑りができなかったのが残念です。
「自分」なりの走りをきわめてみたい…。

別にアスリートたちに限らない。
多くの人々は「自己実現」という言葉に強迫的なほどとらわれる。
今日では、「自分」へのこだわりから自由になることはきわめて難しい。

神戸国際行政書士事務所
http://homepage3.nifty.com/kij/

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