私の個人的な体験などは、本当は話したくないし、知られたくもないのですが、このテーマーを論じる人がいないのは、なぜなのでしょうか。
子供たちの自殺の主な原因は陰質な言葉によるいじめやつまはじき、集団での悪質なたかりや暴力など個人対個人ではなく、集団対個人、学校対個人、家庭対個人、会社対個人とあくまでその原因は昔と少しも変わらない。
それは、国家対個人にたどり着く。
今読んでいる東野圭吾さんの本は「片想い」で、だんだん読んで行くと重いテーマなんですよ。
性同一性障害が隠されていた。XXかXYだけでは単純に理解できない世界で悩んでる人達がいることも
我々は理解しなければならない。
私が受けた暴力ということでは
小学校6年生の時に、クラス全員が何かのことで、もう忘れてますが、先生に説教を食らってました。
当時、この先生は5年6年の2年間担任で、我々が2回目の受け持ちだといっていました。
6年になり、全体の説教はだんだんとエスカレートしていきました。
ある説教で先生がお前たちは腐ったイワシやサンマの目と同じで、牛や馬と一緒だとかいったのです。
当時、仲良しグループはほとんど呼び名は、「あだ名」でしたから、僕は「ウマ」の友達のことを頭に浮かんだので
「クス」と笑ってしまいました。静まり返った教室の先生から僕目掛けて「白いチョーク」が飛んできました。
後ろから3番目当たりの席から、先生は平手打ちのビンタを何度も吹っ飛んでいる僕のえりをつかんでなぐりました。けど、ぼくはなんでそんなになぐられないといけないのか分からず、泣きもしませんでした。その後皆は僕の
せいで、教室の板の間に正座させれて、1時間ぐらい足がしびれて、立てないほどの説教に深く傷つきました。
自分のせいで、こんなめにクラスメイトを巻き込んだことを、家に帰ってから、おやじとおふくろに話しました。
怒られるとおもっていたのですが、両親は何もいいませんでした。そして夜に先生が社宅まで来て、ことの
成り行きと暴力をふるったことを、あやまりましたが、両親は先生の話をだまって聞いているだけで、逆に親父は
頭を下げているのです。
この不思議な子供の体験が第1号です。
社宅の頃の僕はガキ大将でした。
幼稚園も保育園の経験もなく、ただただ海や沼地や野原を駆けずり回る「ガキ」でした。 私は、小学校1〜3年まで、やさしい女の先生でした。4年生の時、初めて大学出の新人の先生でした。
まったく落ち着きのない子供でした。4年の時は、一番後ろからだんだん前の席になり、最後は先生の教壇の
横に机を並べ、皆とご対面の日々でそれでもうるさいと、廊下でバケツに水を入れて立たされていました。
その先生は、3学期の終わりに、ものすごくおもしろかった(楽しかった)と僕にいったのです。
それで、5年生になったら、いまのような落ち着かない態度や行動はやめようとその時、心に決めました。
次の暴力は中学2年の野球の練習の時でした。
監督は教頭先生で、僕はその時、フリー打撃連習で先生からライト方向へ打つように指導を受けていたと思います。
ピッチャーの生球をなかなか思うようにライトに引き付けて当てることは、2年の僕の技術では難しいので
たぶん、どうしたら打てるかと首を傾げたのだと思います。それを見てた先生はいきなり、本当にいきなりバッターボックスのホームベースの上で、平手打ちやげんこつで顔をめっちゃくちゃなぐられました。
鼻血が止まらないのです。上級生や2年の仲間の前で、この教頭先生は軍隊あがりのこわもてでした。
この時は、さすがに涙が止まらず、3年生がバックネット裏まで運んで、手当してくれました。
この時、同じクラスに教頭先生の娘がおり、1年生に野球部の息子がいました。
教頭先生の娘や息子には、仕返しの暴言も暴力も何もしませんでした。
とにかく、今もってよくわからないのですが、とにかくひどくなぐられました。
2年の2学期の終わりごろに、突然、教頭先生は転勤でいなくなりました。
行先は誰も言わないのでわかりませんでした。
ただ、別れの列車を同級生をクラスで見送った記憶があるだけです。
僕らは大変驚きました。野球を知ってる先生がほかにいなかったからです。
この鷲中は、室蘭、幌別地区の中学の中でも、非常に悪な不良グループがいて、そりゃこわい学校で有名でした。ベストスリーに入ってました。
1年の時、2年・3年の上級生が先生になぐられたり、投げ飛ばされたり、そうゆううのは、毎日見ることができました。悪が多くいましたが、頭のいいやつもいたんですよ。
まったく、不思議な学校でした。
3回目の暴力は、3年の夏の当時の富士製鉄球場(新日鉄)での招待野球が2回戦で終わって、家のすぐ裏の空き地でバットもって、遊んでいたら
いつの間にか、卒業した上級生もその数十人の輪の中に入っていて、一斉に襲い掛かられて、なぐられたり
蹴とばされたり、あの時が一番怖いと感じた時で、その中に、番長もいたんです。
一対一ならば、かてたかもしれませんが、無抵抗でやられることにしたんです。
この時代は、まだ終戦からのなごりが残っていました。
バラック小屋のような家です。
浜の子供はぼくらより貧しい人が多くいたのだと思いました。
その中にはアイヌの人もおりました。(差別してません)
鷲別は風が強く、砂風に吹きさらされた小さな漁村の町です。
校舎も砂が入る板塀でした。
僕らが住んでいた社宅とは町はだいぶ離れていました。
小学校5年生の時に鷲別に新日鉄のアパートが駅の横に5棟建って、町も活気が出て、小学校、中学校の
校舎も増改築されて町の様子が変わっていきました。
小学校は3クラスでしたが、中学1年は4クラスで、最初 Aクラスでした。
テストは9科目あり、1学期は、平均点が80点以上あったのですが、その成績でもクラスで20番ぐらいで
僕は本当に驚いて、これは頑張ってもかなわないと観念しました。
1年の2学期にクラス替えが行われ、僕はCクラスになりました。それでもなんとか5〜10番前後でした。
勉強はほとんどしませんでした。
2年の後半からは成績はクラスで8〜12番に落ちて行きました。
野球部の部活と遊びで3年の夏まではろくに勉強しませんでしたが、進路問題があり、そのころになると
クラスが暗く、重たい空気で、今でもあの頃を思い出すとたまらなくなります。
それは2年になって、担任への反抗や異性への目覚めや異性の特定の人への辛辣なパワハラを卒業するまで見て聞いて悩んでいたのです。
クラスに「めんどり」とあだ名された女性は毎日、毎日標的にされていました。
かわいそうで、何とかしてあげられなかった自分がいました。
やはり、学校や学校以外で不良グループにやられるのが、怖かったのです。
そして、クラスというか学年が進学組と就職組のような塊のようになり、クラスは笑い声がなくなってゆきました。
室蘭や北海道、東京などに就職する友達もいたし、高校受験失敗で就職する友達もいました。
誰がどこの高校へ受験するとか合格したとか、あいつは内地に就職したとかそうゆうクラスの状況はまったく
判らず、卒業アルバムもなく、バラバラに校門を後にしたのです。
修学旅行は当時、青森の十和田が定番でしたが、なぜか僕らの時だけ東京オリンピック1年後の東京へ修学旅行でした。あんなコンクリートの冷たい感触だけが記念写真でみんなの顔に現れていました。
どうしてあんな修学旅行と卒業なのかいまだに理解できないのです。
僕自身は室蘭栄高校(旧制室蘭中学)を受験するつもりでしたが、2年の中間あたりから、成績が思わしくなく
家の状態も大学へいけそうにないので、室蘭工業高校 機械科を受験しました。スベリ止めの私立はうけませんでした。落ちたら働くという気持ちで、9教科、自己採点してみたら、悪かったので落ちたと思い、当日は雨でしたし、ふてくされて寝ていましたが、お袋の友達の先輩が合格してると連絡があり、歩いて発表を身に行きました。
お袋が大変喜んでくれました。僕も落ちなくて良かったと心から思いました。
当時は合格は番号ではなく、名前で発表されていました。
室工 機械科は二クラスで、入学後Aクラスの担任が君たちは学校始まって以来の快挙をやってくれた。
それは、室蘭栄高校の普通科の合格最低点より、君らの最低点の方がはるかに上だった。
僕らはBクラスで、あの当時大学に進学したのは5人はいた。
みんな、頭がいいが、勉強はしないそうゆうクラスだった。
この話は、室工機械科にすごい先輩がかって、いたという語り草になっていったそうです。
ただし、担任の杉井先生は、どうせ就職するなら、募集の技術員で受けなさい。いずれ技術員の募集は
あと2〜3年だろうから。そして内定合格した者は東京に遊びに行け。
3年になってすぐの5月に、僕は就職試験を受けました。
見事電気科の友人と札幌会場でANAの試験に見事落ちました。
室蘭の総合機械商社の面接で、勤務先が旭川という話があり、技術営業は自分には向いていないと断ったら
杉井先生が面接で設計をしたいといったんだってと笑って、僕は10月まで遊んでいました。
昭和44年3月に卒業しました。
室蘭の日本製鋼所の機械改修、機械設計関係の下請けに同じクラスから4人も当時、入社したんです。
あの当時を考えれば、すごいことだったんです。
3人は1年ほどでやめてゆき、僕は2年間お世話になりました。
その後、担任の杉井先生の家に行き、やめた事情を話、お前の町の1学年先輩のいるところでいいなら
紹介してくれるということで、昭和46年6月に汽車と船で上野駅に朝早く着いた。
東京から鶴見の寮は遠かった。
当時の室工の2年先輩は春の甲子園2回戦まで行きました。唯一の甲子園に行った先輩を見て、野球部には
入らず、どうゆうわけか美術部に入部しました。
スポーツは北海道でも当時強く、国体へ行ってたクラブがたくさんいました。
当時の室工の先生は、共産党、共産主義の思想の先生がたくさんいました。
国語の先生はほとんど授業はしませんで、本を読むことを通して感想文をよくかかせました。
そこに先生の感想が赤ペンで書いてありました。
僕は、この先生のおかげで、さまざまな本を図書室で読んだり、借りたりして読みました。
英語の先生はロシア船が小樽にきたからと通訳でいなくなります。
当時、室工は7科あり、機械と電気だけ2クラスありました。全校で900名ほどいたでしょうか。
僕は、しつけと暴力はまったく異質なものだと思います。
暴力からは、何も生まれてきません。
恐怖、あるいは悪夢そのものが、生涯忘れることもなく、よみがえる「うらみ」となっていきます。
人はみんな、善と悪が住み着いています。
「しっと」や「うらみ」や貧しさからの「ねたみ」などは誰しもが持ちあわせているものです。
人間は必ず「自分中心に物事を考え、行動する」動物です。
だから、さまざまな「あつれき」が吹き出してくるのです。
たまたま、鷲中卒業50年の65歳の時に、バラバラの名前を小学校のアルバムと鷲中生徒会の卒業の
思い出のクラス名簿を照合しながら、4クラス合同のクラス会を行いました。
幹事責任者として、開催まで8ケ月もかかりました。
初恋の小4の教頭先生の娘は、鵡川の実母がいる家まで。車で送って行きましたが、昔、その時お父さんに聞いたそうです。
暴力をふるった生徒の名前は覚えているものかどうか。
覚えているはずだといったそうです。忘れないはずだとも。
中学の教頭先生の娘さんも出席してくれましたが、何度も父に聞いたんですが、覚えていないといわれました。
つまり、暴力をふるった方は、忘れているのですが、殴られた方は、50年たっても忘れられずにいるという
人間の心の難しさを感じるわけです。
そうでない場合ももちろんあるわけですが、どとらも不幸だということと、それに間接的にみている人もやはり
不幸だとおもうのです。
小学校5年6年の担任のことは、みな好きじゃないと言ってました。