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元号が平成から令和になるこれからの新しい時代の日本は、再び世界に向けて大きく飛躍できるのでしょうか。
僕らの時代は終わりました。
輝かしい未来が待ち受けているのであれば、いいのですが最近の世相は、大変危惧することが多いように
ニュースなどで見受けられます。

大きな問題は、国民の選挙投票率の低さにも驚きますが、これは政治に期待できないからなのでしょうか。
例えば
大阪の場合、知事と市長が立場が逆になって、維新が勝ちましたが、かってこのような選挙があったでしょうか。
大阪の都構想は、判らないわけではないのですが、自分は日本に都(みやこ)が二つあることはいらないと思います
し、大阪はこれまで通り大阪府でいいと思います。
そもそも、知事と市長の担う仕事内容が違うわけです。

大阪駅はどこにあるのでしょうか。ほとんどは灘波じゃないですか。
何度か大阪で仕事もしましたが、新幹線は新大阪ですよ。
これについては、異存があるでしょうが、東京一極は西軍が明治維新を作るに関八州がある江戸を都にして
東の都としたわけですから、しかたがないわけです。そもそも豊臣秀吉が、徳川家康を移封した先が、失敗したのです。
ただ、このまま東京一極集中はよくないことは、地方が廃れてみんな分かっているのですから、衆智を集めて
これからの令和の時代を考えていけば、よろしいかとおもうのです。


次に、日産の問題ですが、カルロス・ゴーンさんだけが悪者になっていますが、僕はそれは間違いだと思います。取り締まり役員も大株主も同罪に近いものがあります。
たしかに、ゴーンさんの報酬もすごいし、裏金の流用もひどいものです。
約20年間トップの座にいれば、権力の慢心もおごりも人間ですから、当然起こるべく起きた結果だと思います。
かれが、日産再生の痛みを社員に話したことと、日産がここまでこれたのは彼の経営理念と手腕がすばらしいからです。
それと、今回の一連の背信行為ははらただしいものの、別物だと考えてみるべきです。

次に悪質な動画です。
これは、非常に社会問題が大きいと思います。
新大関になった貴景勝関は口上で武士道の精神をいいました。
弱冠22歳の若者が、武士道の精神を勉強、学んでいることに、僕は大変驚きました。
本来の道徳とは、この武士道から定着してきたものです。

不満やうっぷんを晴らしたいのなら、まず自分の精神を鍛えなければなりません。
新渡戸稲造先生の「武士道」は英訳されてますので、一度読んでみていただきたいと思います。
桜と武士道は切っても切れぬ仲だということをわかっていただきたいと思います。
基本は中国の「孔子」に学んだのです。





私の個人的な体験などは、本当は話したくないし、知られたくもないのですが、このテーマーを論じる人がいないのは、なぜなのでしょうか。

子供たちの自殺の主な原因は陰質な言葉によるいじめやつまはじき、集団での悪質なたかりや暴力など個人対個人ではなく、集団対個人、学校対個人、家庭対個人、会社対個人とあくまでその原因は昔と少しも変わらない。
それは、国家対個人にたどり着く。
今読んでいる東野圭吾さんの本は「片想い」で、だんだん読んで行くと重いテーマなんですよ。
性同一性障害が隠されていた。XXかXYだけでは単純に理解できない世界で悩んでる人達がいることも
我々は理解しなければならない。

私が受けた暴力ということでは

小学校6年生の時に、クラス全員が何かのことで、もう忘れてますが、先生に説教を食らってました。
当時、この先生は5年6年の2年間担任で、我々が2回目の受け持ちだといっていました。
6年になり、全体の説教はだんだんとエスカレートしていきました。
ある説教で先生がお前たちは腐ったイワシやサンマの目と同じで、牛や馬と一緒だとかいったのです。
当時、仲良しグループはほとんど呼び名は、「あだ名」でしたから、僕は「ウマ」の友達のことを頭に浮かんだので
「クス」と笑ってしまいました。静まり返った教室の先生から僕目掛けて「白いチョーク」が飛んできました。
後ろから3番目当たりの席から、先生は平手打ちのビンタを何度も吹っ飛んでいる僕のえりをつかんでなぐりました。けど、ぼくはなんでそんなになぐられないといけないのか分からず、泣きもしませんでした。その後皆は僕の
せいで、教室の板の間に正座させれて、1時間ぐらい足がしびれて、立てないほどの説教に深く傷つきました。
自分のせいで、こんなめにクラスメイトを巻き込んだことを、家に帰ってから、おやじとおふくろに話しました。
 怒られるとおもっていたのですが、両親は何もいいませんでした。そして夜に先生が社宅まで来て、ことの
成り行きと暴力をふるったことを、あやまりましたが、両親は先生の話をだまって聞いているだけで、逆に親父は
頭を下げているのです。
この不思議な子供の体験が第1号です。

社宅の頃の僕はガキ大将でした。
幼稚園も保育園の経験もなく、ただただ海や沼地や野原を駆けずり回る「ガキ」でした。               私は、小学校1〜3年まで、やさしい女の先生でした。4年生の時、初めて大学出の新人の先生でした。
まったく落ち着きのない子供でした。4年の時は、一番後ろからだんだん前の席になり、最後は先生の教壇の
横に机を並べ、皆とご対面の日々でそれでもうるさいと、廊下でバケツに水を入れて立たされていました。
その先生は、3学期の終わりに、ものすごくおもしろかった(楽しかった)と僕にいったのです。
それで、5年生になったら、いまのような落ち着かない態度や行動はやめようとその時、心に決めました。

次の暴力は中学2年の野球の練習の時でした。
監督は教頭先生で、僕はその時、フリー打撃連習で先生からライト方向へ打つように指導を受けていたと思います。
ピッチャーの生球をなかなか思うようにライトに引き付けて当てることは、2年の僕の技術では難しいので
たぶん、どうしたら打てるかと首を傾げたのだと思います。それを見てた先生はいきなり、本当にいきなりバッターボックスのホームベースの上で、平手打ちやげんこつで顔をめっちゃくちゃなぐられました。

鼻血が止まらないのです。上級生や2年の仲間の前で、この教頭先生は軍隊あがりのこわもてでした。
この時は、さすがに涙が止まらず、3年生がバックネット裏まで運んで、手当してくれました。
この時、同じクラスに教頭先生の娘がおり、1年生に野球部の息子がいました。
教頭先生の娘や息子には、仕返しの暴言も暴力も何もしませんでした。

とにかく、今もってよくわからないのですが、とにかくひどくなぐられました。
2年の2学期の終わりごろに、突然、教頭先生は転勤でいなくなりました。
行先は誰も言わないのでわかりませんでした。
ただ、別れの列車を同級生をクラスで見送った記憶があるだけです。
僕らは大変驚きました。野球を知ってる先生がほかにいなかったからです。

この鷲中は、室蘭、幌別地区の中学の中でも、非常に悪な不良グループがいて、そりゃこわい学校で有名でした。ベストスリーに入ってました。
1年の時、2年・3年の上級生が先生になぐられたり、投げ飛ばされたり、そうゆううのは、毎日見ることができました。悪が多くいましたが、頭のいいやつもいたんですよ。
まったく、不思議な学校でした。

3回目の暴力は、3年の夏の当時の富士製鉄球場(新日鉄)での招待野球が2回戦で終わって、家のすぐ裏の空き地でバットもって、遊んでいたら
いつの間にか、卒業した上級生もその数十人の輪の中に入っていて、一斉に襲い掛かられて、なぐられたり
蹴とばされたり、あの時が一番怖いと感じた時で、その中に、番長もいたんです。
一対一ならば、かてたかもしれませんが、無抵抗でやられることにしたんです。

この時代は、まだ終戦からのなごりが残っていました。
バラック小屋のような家です。
浜の子供はぼくらより貧しい人が多くいたのだと思いました。
その中にはアイヌの人もおりました。(差別してません)

鷲別は風が強く、砂風に吹きさらされた小さな漁村の町です。
校舎も砂が入る板塀でした。
僕らが住んでいた社宅とは町はだいぶ離れていました。

小学校5年生の時に鷲別に新日鉄のアパートが駅の横に5棟建って、町も活気が出て、小学校、中学校の
校舎も増改築されて町の様子が変わっていきました。

小学校は3クラスでしたが、中学1年は4クラスで、最初 Aクラスでした。
テストは9科目あり、1学期は、平均点が80点以上あったのですが、その成績でもクラスで20番ぐらいで
僕は本当に驚いて、これは頑張ってもかなわないと観念しました。
1年の2学期にクラス替えが行われ、僕はCクラスになりました。それでもなんとか5〜10番前後でした。
勉強はほとんどしませんでした。
2年の後半からは成績はクラスで8〜12番に落ちて行きました。
野球部の部活と遊びで3年の夏まではろくに勉強しませんでしたが、進路問題があり、そのころになると
クラスが暗く、重たい空気で、今でもあの頃を思い出すとたまらなくなります。

それは2年になって、担任への反抗や異性への目覚めや異性の特定の人への辛辣なパワハラを卒業するまで見て聞いて悩んでいたのです。
クラスに「めんどり」とあだ名された女性は毎日、毎日標的にされていました。
かわいそうで、何とかしてあげられなかった自分がいました。
やはり、学校や学校以外で不良グループにやられるのが、怖かったのです。

そして、クラスというか学年が進学組と就職組のような塊のようになり、クラスは笑い声がなくなってゆきました。
室蘭や北海道、東京などに就職する友達もいたし、高校受験失敗で就職する友達もいました。
誰がどこの高校へ受験するとか合格したとか、あいつは内地に就職したとかそうゆうクラスの状況はまったく
判らず、卒業アルバムもなく、バラバラに校門を後にしたのです。
修学旅行は当時、青森の十和田が定番でしたが、なぜか僕らの時だけ東京オリンピック1年後の東京へ修学旅行でした。あんなコンクリートの冷たい感触だけが記念写真でみんなの顔に現れていました。
どうしてあんな修学旅行と卒業なのかいまだに理解できないのです。


僕自身は室蘭栄高校(旧制室蘭中学)を受験するつもりでしたが、2年の中間あたりから、成績が思わしくなく
家の状態も大学へいけそうにないので、室蘭工業高校 機械科を受験しました。スベリ止めの私立はうけませんでした。落ちたら働くという気持ちで、9教科、自己採点してみたら、悪かったので落ちたと思い、当日は雨でしたし、ふてくされて寝ていましたが、お袋の友達の先輩が合格してると連絡があり、歩いて発表を身に行きました。
お袋が大変喜んでくれました。僕も落ちなくて良かったと心から思いました。
当時は合格は番号ではなく、名前で発表されていました。

室工 機械科は二クラスで、入学後Aクラスの担任が君たちは学校始まって以来の快挙をやってくれた。
それは、室蘭栄高校の普通科の合格最低点より、君らの最低点の方がはるかに上だった。
僕らはBクラスで、あの当時大学に進学したのは5人はいた。
みんな、頭がいいが、勉強はしないそうゆうクラスだった。
この話は、室工機械科にすごい先輩がかって、いたという語り草になっていったそうです。

ただし、担任の杉井先生は、どうせ就職するなら、募集の技術員で受けなさい。いずれ技術員の募集は
あと2〜3年だろうから。そして内定合格した者は東京に遊びに行け。
 3年になってすぐの5月に、僕は就職試験を受けました。
見事電気科の友人と札幌会場でANAの試験に見事落ちました。

室蘭の総合機械商社の面接で、勤務先が旭川という話があり、技術営業は自分には向いていないと断ったら
杉井先生が面接で設計をしたいといったんだってと笑って、僕は10月まで遊んでいました。
昭和44年3月に卒業しました。
室蘭の日本製鋼所の機械改修、機械設計関係の下請けに同じクラスから4人も当時、入社したんです。
あの当時を考えれば、すごいことだったんです。
3人は1年ほどでやめてゆき、僕は2年間お世話になりました。
その後、担任の杉井先生の家に行き、やめた事情を話、お前の町の1学年先輩のいるところでいいなら
紹介してくれるということで、昭和46年6月に汽車と船で上野駅に朝早く着いた。
東京から鶴見の寮は遠かった。

当時の室工の2年先輩は春の甲子園2回戦まで行きました。唯一の甲子園に行った先輩を見て、野球部には
入らず、どうゆうわけか美術部に入部しました。
スポーツは北海道でも当時強く、国体へ行ってたクラブがたくさんいました。


当時の室工の先生は、共産党、共産主義の思想の先生がたくさんいました。
国語の先生はほとんど授業はしませんで、本を読むことを通して感想文をよくかかせました。
 そこに先生の感想が赤ペンで書いてありました。
僕は、この先生のおかげで、さまざまな本を図書室で読んだり、借りたりして読みました。
英語の先生はロシア船が小樽にきたからと通訳でいなくなります。
当時、室工は7科あり、機械と電気だけ2クラスありました。全校で900名ほどいたでしょうか。


僕は、しつけと暴力はまったく異質なものだと思います。
暴力からは、何も生まれてきません。
恐怖、あるいは悪夢そのものが、生涯忘れることもなく、よみがえる「うらみ」となっていきます。
人はみんな、善と悪が住み着いています。
「しっと」や「うらみ」や貧しさからの「ねたみ」などは誰しもが持ちあわせているものです。
人間は必ず「自分中心に物事を考え、行動する」動物です。
だから、さまざまな「あつれき」が吹き出してくるのです。

たまたま、鷲中卒業50年の65歳の時に、バラバラの名前を小学校のアルバムと鷲中生徒会の卒業の
思い出のクラス名簿を照合しながら、4クラス合同のクラス会を行いました。
幹事責任者として、開催まで8ケ月もかかりました。
初恋の小4の教頭先生の娘は、鵡川の実母がいる家まで。車で送って行きましたが、昔、その時お父さんに聞いたそうです。
暴力をふるった生徒の名前は覚えているものかどうか。
覚えているはずだといったそうです。忘れないはずだとも。

中学の教頭先生の娘さんも出席してくれましたが、何度も父に聞いたんですが、覚えていないといわれました。

つまり、暴力をふるった方は、忘れているのですが、殴られた方は、50年たっても忘れられずにいるという
人間の心の難しさを感じるわけです。
そうでない場合ももちろんあるわけですが、どとらも不幸だということと、それに間接的にみている人もやはり
不幸だとおもうのです。
小学校5年6年の担任のことは、みな好きじゃないと言ってました。












当時の日本人なら、「サラリーマンはきらくな稼業ときたもんだ」とクレージーキャッツの植木等が歌った歌は知らない人はまずいないでしょう。

よくわからないが、このサラリーマンという語句が世の中から消えたのは、いつ頃なのか僕には記憶がない。

OLという一見華やかな言葉と「オフィスレディー」なる容姿を僕らはすぐオーバーラップしてしまうが、この語句
も自然消滅してしまった。

「寅さん」の渥美清さんが「労働者諸君」とタコおやじの経営する町工場の職人に言う言葉は、今も鮮明に覚えている。

 私は1950年生まれです。戦後5年立っていますが、この1945〜1950に生まれた「団塊の世代」が成人となってからは、日本の工業、産業だけでなく多くの経済消費と多様な娯楽分野、芸術分野で日本を牽引してきたのは事実であります。
この年代が、戦後の民主主義教育とあふれる競争社会に揉まれながら、古い日本体質と新しい体質に悩んでいくわけです。それがイデオロギーなわけです。


 3月12日小学校6年生の女の子二人が、マンションから飛び降り自殺を行った記事があった。
もうちょっとで、卒業して真新しい中学校1年生なのに、何とかならなかったのかと親の立場もそうだけれど
その先にある人生を、想像して楽しんだり、なぜ見ようとしなかったのかな。
 このようないたましい事故が、どうして減らないのか、根本はどこにあるのか。

たぶん、僕らが育った時代と今では、あまりにも過保護に育てられ、スマホも携帯電話も学校に持ち込む
し、親が何かと学校や教育委員会に物申す時代だから、昔のような先生を見る親の目も子供の目も当然
違ってくる。

最近聞くのは、非常に心が折れやすいうえに、意見を言わない、避ける、失敗を恐れる、怒られればセクハラ、パワハラとなにかと今の子供も学生も社会人も陰口は言うが、対まんでけんかもできない陰湿な性格が多い
と思いきや、心根のやさしい子もたくさんいる。
 特に災害復興支援活動などは、積極的で感動するが、仕事は何か問題があれば、すぐやめてしまうのが
今の世代の特徴のようですが、僕はそれも時代の流れなのかと思うけど、コツコツ頑張ってる人や目標を
もって働いている人も意外と多い。
 どだい、自分が何に向いているとか、したいとかを探すこと自体が、今も昔も変わらないのだから、今の若い
世代を責めようとはぜんぜん思わない。むしろ、僕らの時代よりよく考えている人が多いと思う。


僕の子供時代からの話をかいつまんでしましょう。

日本社会、とりわけサラリーマンは自分が若い頃に、給料袋の手渡しが、銀行口座になり、通帳とカードという 力が男社会を大きく変わらしたことだ。                                                                                                   一つの例として、毎月給料日は、おかあさんがお父さんに普段より丁寧にご苦労様のねぎらいの言葉を頭を下げて、子供たちもそれを見て育ち、お小遣いを神妙に頂く                                                                          家のしきたりや国のしきたりも親から見て、聞いて、やって学ぶというと。                                                     

お正月の支度ほどあの当時は大変なものはなかったであろう。
餅つきなんかは、朝早くからにぎやかで、お飾りも手分けして飾り付けをしました。                             当時カメラ写真などは、ハイカラサンか金持ちしかなく、ほとんど子供時代を含めて写真は極めて少なく貴重なものでした。

もう忘れましたが、春、夏、秋、冬の大事な行事はどの家でも程度の大きさはあったかもしれませんが、必ず行っていましたし、国の祝祭日は必ず玄関に日本の国旗を三角のケースに差していました。
 
僕たちは、親の前ではいつも正座で、板と畳の部屋で今のようなベットやイスやソフアーなどは、ない時代に育ちました。
チーズや牛乳も給食もない子供時代のなんであの時代だったのでしょうかね。

僕の子供時代は、円いちゃぶ台しかないし、ラジオぐらいしかおいていない。短靴はゴム製のぶかぶかのを履いて、下駄で遊んだ方が多いかもしれません。
青っぱなの子供がほとんど、今で言う「ティシュ」はない時代。
左右の袖口で鼻水をふくんで、てかてかになるんです。
運動会の靴は「白い足袋」で雨だと縫い糸がほどけて、役にたたず、おまけにグランドは石ころが多く、競争で走ると踏んだら痛いなんてもんじゃない。                                             運動靴という名で売り出されたのは、小学校4年生頃でしたかね。底がゴムでできていたんです。

私が
この4年生頃から日本の工業・産業が飛躍的に、驚異的なスピードで日本中を席捲します。
四つ足の真空管のテレビですよ。あそこの家でテレビが買ったといえば、皆で正座してみるんですよ。
それでも、まだテレビのない家が多かった時代です。
冷蔵庫も洗濯機もこの時代からですが、高価でしたからなかなか買えません。
お母さんたちが一番喜んだのは、洗濯機でしょうね。
あれは、ローラーで水を絞れるハンドルがついていましたよ。
なかなかきれいに絞れないで、すぐしわになるのが、おかしかったものです。

テレビ・洗濯機・冷蔵庫は
この時代、「三種の神器」と呼ばれ、やがてそれは、巨人・大鵬・卵焼きとなってゆくのです。

 
ブログも今年、12月15日で終了となり、これまで書いたブログ記事を1000回目標としてきましたが、切れのいい
900回でやめようかと思いつつ、PCに向かってこの国の行く末を案じています。

 昭和の時代から平成の時代に変わり、私の父の明治や母の大正が消えてなくなり、やがて私たちも消えてゆく
そうゆう定められた人生なのだと思うこのごろです。

日本の今の政治に期待する人は、正直少ないのではないでしょうか。
平成という一見おだやかに思える語句は、これまでの日本社会が築いてきた少なくとも、当たり前の生活を全て
不安定にさらし、会社組織も家族構成も隣近所も学校生活もこれほど大きく変化した時代は、いままでなかった
のであります。
高度成長の絶頂期がはじけて(バブル)、会社は徹底した合理化とリストラを行い、終身雇用と年功序列と雇用
制度いわゆる退職年齢を60歳にするとともに、56歳以降の給料は減額ないし、年棒制の所得に変わり、1年更新となって、役職(肩書)も従来の主任・課長・次長・部長・事業所長・工場長という名前が主査・主事補・主事・参与・etc となり、
最高執行役員とか最高経営責任者なんかに変わり、株主優待制度に変換してゆき、会社の人材が宝だという
大企業は、いなくなって行きました。

日本のさまざまなこれまでの記号や単位が、国際標準単位などに合わせるようになり、例えば1気圧が1kg/㎠Gから0.98Mpsになるという。円周率π=3,14が極端な話、π=3で計算OKということも
私たちはπ=3.1416で計算していました。

私たちが入社した頃の設計上の計算は、ほとんどアメリカの単位と計算と早見表などでやりました。
石油に関するものもむくめて、アメリカのスタンダードが基本でした。

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