千年の花を咲かせたい
|
画家
[ リスト | 詳細 ]
|
↑のデッサンをピカソが書いたのはなんと13才美術学校の 実習で書いたもの。 しかしピカソ特有のキュビズムと言われる画風とは全然違う では、独創的なタッチはいつ生まれたのか。 ↑は16才のときの時の作品至って写実的 そして20代前半友人の死後ブルーを対応した青の時代。 ↑そして三十代まだまだ普通なかんじだが・・ ↑四十代に入るとインパクトのある画風になってきて・・ ↑五十代にはいるとかなりシュールな絵を描くようになり ↑そして五十六歳で書いた泣く女でいきなり絵のタッチが変わった。 この変化実はピカソにある大きな変化があったという。 自分の生活の中で男女関係にもつれにもつれた時代 最悪の時代と自分の晩年に語ってる。 当時のピカソは相当モテテ沢山の彼女がいました。 浮気がばれて、泣き叫ぶ女性を見て描いたのが この・泣く女・女性の涙がピカソの絵を変えた? 絵に対する周りの反応は何がなんだか分からない。 賛否両論 そんな周りの意見などかまわずピカソは 独創的な作品を作り続けていきます。 ピカソ本人の自画像もどんどん変化してゆく。 ピカソ高額絵画ベストファイブを紹介。 |
|
国宝・姫路城『門』牛村土牛1889-1990。 明治・大正・昭和・平成と101才と現役を貫いた不屈の画家。 78歳のときの作品です。 前回も無名の画家高島野十郎 を紹介しましたが やはり写実に生きた日本画家・奥村土牛さんを取り上げました。 ↓の作品はセザンヌの影響を大きく受けた作品 |
|
新日曜美術館で放送された無名の画家「高島野十郎」とにかくその生き方・勉強の仕方・独学による絵画の技法どれをとっても私は日本のゴッホと勝手に呼ばせていただきたいと思います。 1890(明治23)年、福岡県三井郡合川村(現在の久留米市東合川)の裕福な醸造家の四男に生まれる。 親の説得で東京帝国大学でその年に発足したばかりの農学部水産学科に進学、同科を首席で卒業するも恩賜の銀時計を辞退し絵画の道を選び、以降師につくこともなく、特定の美術団体へ属することもせずに、ただひたすら自らの画業に没頭した。 一生独身を通して独身を通し1975(昭和50)年、千葉県野田市の老人ホームで死去。享年85。 写実を貫き通した画家・・・・。 現東大の農学部水産学科を主席で卒業した彼の遍歴・・・。 日曜美術館で紹介された絵画は写実の行きを超えている。 彼は1000年残る絵を描くという姿勢。 ほとんどの作品が10年20年と被写体と向かい仕上げてゆく作品。 もし彼が東大の理科系を主席で卒供せず、東京美術学校(芸大)に入学していたら大作家になったのかも知れません。 |







