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「子どもたちのことを書いてみませんか」。取材記者が言った。その言葉に応じ、わが家にたどり着いた少年たちの物語を書きだしたのは2007年の4月。それは少年たちの悲惨と困難の物語であった。
だが、少年たちの困難はあまりに悲惨で、そのすべてを書くことはできなかった。共感性に富む読者ならきっと感じ取ってくれるに違いない、そう信じて私の胸の痛みとともに行間に忍ばせた。多くの読者が共鳴し、たくさんの手紙を受け取った。「毎回涙なしには読めない」とあった。ある時は、講演会場の隅に座る妻に握手を求める読者が列をなし、妻を涙ぐませた。紙面の向こうと繋(つな)がっていることを私は実感した。
なかには虐待ゆえに結婚後も子どもを産む勇気がなく、「子ども時代に土井ホームのようなところがあれば」と書き送ってきた読者もいた。虐待被害者にとって被害は決して過去のものでなく、時間は止まったままであることをあらためて知り、胸が痛んだ。
少年たちは家庭という戦場で傷ついた少年兵士。本来守ってくれるべき親からの激しい虐待で深く傷ついてきただけに、その養育も困難を極めた。心身の安全感を奪われ、不眠や自傷行為、自殺未遂を繰り返す少年たち。いや応なしに多くの専門家と連携せざるをえなかった。何より「普通の暮らし」を奪われた少年たちだからこそ、「変わらぬ当たり前の毎日」を心がけた。少年たちには復元力があると信じた。
「ぼくは世界で一番不幸と思っていた。ここに来たらもっと不幸な少年たちがいる」。智雄は自分の不幸を相対化できるようになって、顔が明るくなった。「非行を卒業しました」。公義は私をはじめ身近な人から激しい盗みを重ね、7年のたゆまぬ取り組みの後、自立していった。
逆に、「非行したから出会えたのですね」と私とのきずなを語り、5年間のジェットコースターに乗ったような激しい非行から脱したのは啓太。勇気と希望をもらったのは私だった。子どもたちの物語は希望と回復の物語でもあった。
今日もまた困難な少年の受け入れ打診があった。思案に暮れる書斎の窓を冷たい北風が打ちつける。その激しさに少年たちの心の風景を想像した。怒りと不信、絶望と悲しみがうずまく少年と新たな希望と回復の物語を私はまた紡ぐことができるだろうか。答えの出ぬ問いの果てに「子どもの可能性・可塑性を信じよう」と言い聞かせ、私は食堂に新たなイスを用意した。
さて、約束の執筆期間は3度延長され、66の物語が紡がれた。だが、静かにペンを置く時が来たようだ。少年たちは大人や社会を映し出す鏡である。彼らには私たちはどう映っているのだろう。そう自問しながら読者のみなさんに別れを告げたい。ありがとう。さようなら。
(文中仮名・北九州市在住)
=おわり
=2009/12/26付 西日本新聞朝刊=
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