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大したことなんて、していない
そう
全然大したことなかった
実にあっけなかった
簡単だった
イージーだった
もう、つまらないと言っていいくらいのものだった
バカバカしいほどだった
実際、鼻で笑ってしまってる自分がいた
だって、それは本当にあまりに仕様もないもので
俺はただ、あいつの背中を押しただけで
ああ、勘違いのないように付け足しておくと、これは応援したいとか、もっと頑張れよ的な意味合いではなく、言葉の通り、この手で、あいつの背中を押したという意味で
トン、と、別に力をこめるでもなく、勢いをつけるでもなく
まるで、冷蔵庫の扉を閉めるみたいな安易さで
まるで、通学路で後ろから声をかけるくらいの気安さで
そんなことで
あいつは
あいつは多分、その瞬間に未練だとか後悔だとか疑念だとか、そんなものを考えることもなく
多分、ほぼ全身の骨が砕けちまったとか、地面に脳みそが飛び散るほどの激しい衝撃だったとかの、そんな死ぬほどの痛みを感じることもなく
ただ、校庭の上に黒い水溜りを作って、その…たった18年ほどの人生の、最期を迎えていた
少なくとも、俺はそう思っている
『最初から殺すつもりでした。だから』
吐息が漏れる
その似つかわしくないような艶やかさに、どうしようもなく感情が高ぶってしまう
彼女には見えないように、密かに口元を歪め、そっと、白く滑らかで温かくも柔らかいその素肌に触れた
かすかに恥らうような反応を見せるのも愛らしく、尚もその全身を撫で回したくなる
もっともっと、深く深く愛したくなってしまう
「詩織、詩織っ」
彼女の名前を呼びかけると同時に、更なる高まりを感じる
高まっていくとともに、その華奢な体を抱きしめ、首元にしっかりとキスマークが残るように口づけた
何度も何度も
何度も何度も何度もだ
「はる、き…はるき…」
彼女の口から漏れる俺の名前が
その甘いイントネーションが俺の脳を痺れさせる
もう止めることなんてできない
旧知の仲、竹馬の友、幼馴染の昔馴染みであるところの彼女に対し、このような想い、欲をぶつけることに、少なからず抵抗感がないわけではない
だがしかし、その背徳的とも言える快楽を感じないわけでもない
いや、むしろその背徳こそが、この感情の高ぶりの根源とも言える
そして何より、この俺、八乙女春樹(やおとめ はるき)は
彼女である七北詩織(ななきた しおり)に心の奥底から、あたかも狂喜せんばかりに魅入られているのだ
つまりは、彼女のとりこ
これに関して絶対の自信があるし、自負しちゃっていたりする(困ったことにね)
しかし、こうして彼女を抱くのは、これでもう何度目になるのだろうか
数えてなどいないその回数の多さと、今まで過ごして年数に、わずかばかりの思いを馳せたくなる
(バカな...)
しかし、その戯言を強制的に静止し、それよりも彼女を求めることに専念する
そう
何も思い出す必要などない
そんなものは、詮無いことと切り捨ててしまってもいい筈のものだ
「きて……はるき…きてっ…」
「ああ…」
ならば、俺は今をただひたすらに生きることとしよう
ひとつ、ステレオタイプではあるが、男の幸せの例を挙げてみよう
そう
それは例えば朝目を覚ますと、キッチンから何かを炒める音とぐつぐつと鍋が煮えているような音が聞こえて
その音と食欲をそそられる美味しそうな匂いに、温かい布団から抜け出し、ダイニングへの扉を開ける
そこには、愛すべきパジャマ着(色違いペアルック)の彼女が忙しそうに、けれどテキパキと動く後姿があった
そして、その早くもなぜか落ち着いた動きに合わせて揺れる髪でさえ、不思議な清廉さを醸し出している
彼女から口元から聞こえてくる鼻歌もまた心地いい
俺は、そんな彼女の姿をじっと眺めながら、ああ〜これが新婚生活ってやつか〜、などと頬を緩めている
まぁきっと、一年未満で終わりを告げるような限定条件付の幸せなのだろうが
ちなみに、結婚はしていない
籍を入れるつもりはもちろんあるのだが、今のところはとりあえず同棲中ということになる
付き合い時間的には約5年
個人的な希望を言わせてもらえば、6年目には、給料3か月分くらいの指輪をプレゼントしたいと願っている
実際、どうなるかは分からない
とまぁそれはさておき、いつの間にか起きていた彼女に一人、料理を作ってもらっていることに、罪悪感を感じないわけではない
なので一つ、得意というではないが、ずっと一人暮らしを続けてきて、そこそこの料理技能を所有していたりする俺も、それに参戦するべきだろう
などと無意味に勇みつつ、詩織に声をかけようとすると
「あ、おはよ春樹。ちょうど出来上がったところだよ。食べよ?」
と、さわやかに声をかけられて、そんな振り返る様も絵になっているな〜などと感心しつつ
「……おう」
と、普通に返事を返していた
ワキワキしている手が、いささか淋しさを物語っていたが
そんなこんなで、無意味な勇みは本当に無意味に終わり
実は料理スキルを披露したかったなどとも言えず(つか、起きた時点で殆ど出来てたじゃん。気づけよ俺)
ならばせめてと、皿を並べようとするも、それすらも止められて、心淋しくも大人しく席に着く俺
そして、本当に何一つ手伝うことができないまま
「「いただきます」」
と、新婚らしく声をハモらせて手を合わせるのだった
「昨日午前、丸戸市円名町の会社員方で、この家に住む女性が何者かに殺害されているのを…」
詩織の旨い朝食(和食、出来は詩織が遥か上)を頂きながら、テレビから流れてくるニュースを聞き流す
自然と入ってくるが、次の瞬間には忘れるような内容なので、何も気に留める必要はない
いつものことだ
毎日毎日、どこかで人は殺されているし、毎日毎日、どこかで人は蹂躙されている
自分とは無関係だと決め付け、平凡に生きることを望む
それが人間だ
例え、子が親に虐待されて殺されていても
例え、家族内で誰かが殺されていても
例え、痴情のもつれから誰かが殺されていても
例え、事件に見せかけて誰かが殺されていても
俺たちが知ることができるのは、全体から見れば実に極少数で
テレビやインターネットから知ることができるだけのわずかの情報だけで
一分程度で語られる程度のつまらないストーリーで
よく聞くセリフに
殺すつもりはなかった、とか
初めから殺すつもりだった、とかがある物語で
実は、そんな物語は毎年1300件近くの殺人事件が起こっていて、報道されているのはそのたった数%で
きっとそれ以外にも、行方不明だかの扱いで殺されている人はもっとたくさんいるはずで
そんな誰にも見向きもされない、さらにつまらないストーリーもあるはずで
それ以外にも事故や自殺なんかで死んでいる人たちにも、見向きもされないつまらないストーリーがあって
けれど、俺たちは、そんなものは情報としては知っているのだが、決して直視なんてしておらず
無意味に無関係を装って
平凡を嫌いつつ、それでも平凡であるべきと
まるで強迫観念のように、その日々その日を受け流しているだけ
「ごちそうさま、美味しかったよ詩織」
「いえいえ、お粗末様」
もちろん、俺もその一人だ
「春樹、今日も遅いのかな?」
出かけにそう問われる
「いや、今日は普通」
この場合の普通は無論定時なのではなく、定時プラス3時間といったところだ
世の中なんてそんなもの
だがしかし、今日(も)と問われるほど、俺は毎日帰りが遅いのだろうか
自分ではよく分からない
「そっか。なら今日は夜、一緒に食べようね?」
「あ、ああ。そうだな」
そんなことで、あたかも女神的な微笑みをされてしまうのだから堪らない
とても飲みに行ってくるだなんて言えないじゃないか
というか、それじゃ詩織の夕食が遅くなるだろうに
まったく、なんて甲斐甲斐しく、なんていじらしい彼女なのだろう
とりあえず、今日の飲みはパス決定だな
許せ、我が独身同僚たちよ
にしても俺は、本当に彼女に魅入られているな〜
「いってらっしゃい。あなた♪」
「ああ、いってくるよ。詩織」
こんな些細なことでも、とても幸せに思っているのだから
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