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「やっほ」
涼やかな声
その音色は、俺の心を躍らせた
「ねぇ、今日はどこ行くの?」
俺を覗き込む彼女の瞳
彼女はいつも、その人懐っこいま〜るい瞳を俺に向けていてくれた
「あ、そういえばこの前ね?」
何か言う度、人差し指を空に向ける仕草
そんな彼女の仕草は、今でも全部覚えている
「はははっ♪おっかし〜よね」
でも彼女の笑顔は...
「ね?亮太もそう思うよね?」
彼女の...泉美の笑顔だけは
ノイズにまみれて、今はもう...思い出せない
『キミに、笑顔を』
「あがっ!?」
真夜中の激しい雨の中に、雨音よりも一層不快な音が空を切った
同時に、握りしめた手にはドロリとした生暖かい水が伝う
見ると、俺の手には黒い線が描かれていて、でもすぐに雨に流されて消えていた
手の中のナイフも、いつもの清廉な銀色を見せていない
もはや黒まみれの汚いものにすら思えた
「あ゛...がっ...ぁ...」
正面にいる男が、背にしている俺のことを確認しようと首をねじろうとする
だが、男はガタガタと震えていて、そのたどたどしい動きは非常にのろかった
俺はナイフを男の体から引き抜いて、後ろに一歩下がる
男の服の横腹辺りが、黒く変わっているのが見えた
そのじわじわと変色していく様は、何か妙な病気によって体を浸食されているように見える
対する俺にも、手と耳に不快な肉の感触と耳障りな音が残っていた
これも、その禍々しい病気か何かのせいか...などと思うと、気持ち悪くて吐き気がした
にも関わらず俺は、その不快な二つの感覚をもう一度感じるため...
ドシュッ!
さらに勢いをつけて、男に向かってぶつかっていった
「ぐをっ!!」
ひしゃげた声
本当に耳障りだ
そもそも音どころか五感全てにおいてコイツを感じたくはなんてない
「たたたたす...たす...たす、け...た...」
そんな風に思ってる俺に、目の前のコイツは助けを求めようとしてくる
コイツのそんな言葉は、躊躇させるどころか逆に激しく俺を苛立たせるだけ
そもそも、それを言ってどうなる?
何かが変わるってのか?
都合よく思い通りになるってのか
はっ、笑わせる
んなわけないだろうが
自分でも分かってることを言うなよ
そうだろう?
「うごぁっ!」
俺は、ナイフを持つ両手に、さらに力を込めて思いっきりねじり込む
肉と血の混じっていく汚らしい音が響く
手はもう生暖かい感触と肉の弾力しか感じていない
こいつと同じ温度と体液を感じているかと思うと、また吐き気がした
「がはっ!?」
びしゃっ!!
水がこぼれたような音がしたかと思うと、肩口にも生暖かい不快な感触
見ると、俺の肩には大量の血反吐が撒き散らされていた
もう全身が真っ黒だ
苛つく
どこまで俺を不快にすればコイツは気が済むんだ
お前はそんなに俺を怒らせたいのか
もうすでに、これ以上無いってほどの怒りが俺を包み込んでいると言うのに
「が、がが...」
そうこうしている内に、目の前のコイツは白目を向いたまま痙攣しはじめていた
体からは、黒い雫は絶え間なくぽたぽたと地面に滴り落ちていく
辺りは黒い水溜りで覆われ、雨水と混ざって滲んでいた
その上を、雨の波紋が幾多にも重なっては消えている
ばしゃんっ!!
そこに、一際大きな波が起きた
肉の塊が沈んで作られる大波
それは俺のジーンズを深い色に染め上げた
直後、甲高い金属音が一瞬だけ、とてもうるさく響き渡った気がした
バタンッ!
「泉美っ!!」
あの日、俺はドアを開けるのももどかしく、その部屋に飛び込んだ
白くて、ベッドとイスだけが、ポツンと置いてあるその部屋に
その淋しげな場所には...
目を見開いている泉美がいた
驚いて
恐怖して
俺を怖がる、泉美
あの時のことを思うと、今でも心臓の辺りが潰れるように痛む
彼女の第一声は...「出てって!!」だった
訳も分からず、彼女に近づいた俺に「近寄らないで!」と何度も叫ぶ泉美
「もう来ないでください」と、嫌なくらい丁寧に俺に頭を下げる彼女の両親
何も言えず、それに従ってしまう俺
あれから...俺は、泉美のいる部屋の窓を外から見ることしか出来ず
いつしか、それすらも止めてしまっていた
彼女は...レイプされた
そのことが原因で、泉美は極度の男性恐怖症に陥り、普段からまるで笑わなくなった
そう、泉美のお見舞いに行った彼女の女友達から聞いた
信じられなかった
いや、本当は嘘なんじゃ、と疑う自分すらいた
あの泉美が笑わないなんてそんなの...と
エイプリルフールにはまだ早いだろって
俺を驚かせたいだけなら、もう十分に成功したよって
でもそれは、絶望してしまいたくなるくらいに、本当のことのようだった
泉美の退院の日
遠目に、久しぶりに見た彼女は、すごく痩せて、血の気も通ってなさそうで
何より、俺の見たことも無いような、とても...暗い顔をしていた
ショックだった
ショックでどうにかなってしまいそうだった
だから、どうにかして泉美の笑顔を取り戻したいと思った
例え、どんなことをしてだって
絶対に
絶対に
バケツをひっくり返したような雨
「はぁ...はぁ...はぁ...」
そんな中で、俺は息を切らせながらじっと地面を見ていた
そこには、見覚えのある、でも色違いの黒いナイフ
そして、黒い水溜りに体を沈ませている男
今、俺が殺した男
最後のデートの日に、泉美と別れた後で見かけた
そして、泉美をレイプした...犯人の一人
それが、コイツ
名前は柴田勝也、19歳、男性
住所は東京都○○区○○町○−○○−○○ 201号室
自宅の電話番号はなし
携帯番号は080−○○○○−○○○○
現在フリーター
彼女はなし
親の仕送りとバイトで生活している男
今日は、そのバイトの帰りだ
普段から素行が悪く、アルバイト先であるコンビニでも、何度か注意を喰らっている
改めて、自分で調べた眼下に倒れている奴のプロフィールを頭の中で繰り返すと、自分が何をしたかったのかを思い出せた
おかげで少しだけ落ち着く
しかし同時に、今度はしたかったことを達成できていないことに気づいた
「...失敗した」
近くにある電灯の灯りの中で呟く
「もっと...苦しめた方が良かったんだ...」
そのための方法を考えて、研究もした
いかにして殺さずに、でも最悪の残酷さをもって、最高の恐怖と苦痛を与えるかについて
まずは爪をはぎ
手足の指を切り裂き
鼻をそぎ、歯を引き抜いて、骨を断ち
全身を棒で滅多打ち、肌を赤黒く染め上げる
そこまでやったら目を潰し、顎を砕いて、逆さに吊るして締め上げる
さらに全身には硫酸を浴びせ、手足を火であぶる
そうやって最後には、自分で自分を殺してと言うまで、延々と拷問を続けてやるつもりだった
殺すだけでは、終わりにするつもりなんてなかった。でも...
「............」
物言わぬ物体を見て後悔する
決意していたはずの非道を実行できなかった
どうやら感情的になりすぎたようだ
調査のときに何度も見かけた顔だったが、いざ実行に移すと、もう自分では止められなくなっていたらしい
とにかく、殺すことだけしか考えられなかったようだ
「...まぁいい」
雨の中、黒い地面の上で、口元を緩める俺
「まだチャンスはあるんだから」
そう
それは...もう、すぐそこに...
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