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後鳥羽院

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2014.7.19(土)
相変わらず、雷注意報。午後から雨の予報。

我こそは新じま守りよ沖の海のあらき波かぜ心してふけ
「後鳥羽院御百首」雑、また「増鏡」巻第二新島守。また、「承久記」下巻。

後鳥羽院は治承四年(1180)に生まれる。
時に、藤原定家19歳。この年2月に名月記を書き始める。
有名な「世情乱逆追討、耳に満つと雖も之を注せず、紅旗征戎吾が事に非ず」と
記したのはこの年9月。

後鳥羽院が生きた時代のすさまじさに驚く。
二歳の時に平清盛没。
十一歳、西行没。後鳥羽院は西行と同時代人なのだ。
十三歳、源頼朝征夷大将軍となり、鎌倉幕府始まる。
二十八歳、法然、親鸞流される。
三十三歳、鴨長明「方丈記」なる。鴨長明とも同時代人なのだ。
四十歳、実朝(二十八歳)鎌倉鶴岡八幡宮で暗殺される。

この様な激しい時代にあって、
四歳の土御門天皇を置き、十九歳で上皇となり院政始まる。

諸芸に優れた上皇であった。
四十二歳、承久三年(1221)五月、執権北条義時追討の院宣を下す。
同六月、上皇方敗れる。
同七月、上皇、隠岐に流される。
後鳥羽院は四十二歳の若さで隠岐に流されたのだ。

六十歳、延応元年(1237)二月二十二日、許され、京に戻ることも無く、
上皇、777年前、隠岐国海部群苅田郷に崩ずる。
苅田山中に火葬し、遺詔によって国忌・山陵を置かず。
藤原能茂、御骨を納めて京都に帰り、大原西林院に安置する。
宝治元年(1247)、幕府は上皇の御霊の祟りをおそれて、
鶴岡雪の下の新宮に鎮祭する。
(日月、事象は筑摩書房、日本詩人選10巻、丸谷才一、後鳥羽院より)

後鳥羽院は隠岐の島に流され、最初は今ECHO POINTが居る中ノ島の最南にある
崎港に到着した。
その後、中ノ島の中央部、今の中里に移動し、
源福寺を「行在所(あんざいしょ)」=仮の御所とした。
この中里地域は今の中ノ島の中心地と言える。
ここの地名は海士(あま)町であるが海士町、町役場はここにある。
また、旧家で大変な資産をもっていた村上家もここに屋敷を置いている。

では今、隠岐の島、中ノ島に777年前の後鳥羽院の事績を残すものが残っているだろうか。
バスで隠岐神社前で降りる。

1)先ずは後鳥羽院を火葬した場所は「御火葬塚」として残っている。
  広い敷地に土塀をめぐらし、立ち入ることも見ることも出来ない。
  門には石の鳥居がある。ここは宮内庁管理。
  上空写真を見ると、囲われた平地の真ん中に石が置かれている。
2)次に「行在所(あんざいしょ)跡」として石の塀に囲われている。
  ここも宮内庁管理地であるが、真近に見ることが出来る。
  中心に「後鳥羽院天皇行在所跡」と刻まれた石柱が建っている。
3)隠岐神社:隠岐神社が建てられたのは新しい。
       昭和14年に天皇没後700年を記念して内務省の設計監督により建立。
4)海士町後鳥羽院資料館
  貴重な所蔵品は殆ど無い。しかし、レプリカにより参考になる。
  本物は国宝で大阪の水無瀬神宮所有の「御手印御置文」レプリカにより
  その書の立派さに驚く。
  死の十三日前に書かれたと説明があるが、品格、筆勢とも素晴らしい。
  これだけでも見る価値あり。
5)村上家資料館
  当地の旧家で非常な財産家であり、後鳥羽院との接触もあった
  村上家が残した古資料が展示されている。
  参考になる。

写真:
・「御火葬塚」。宮内庁管理。中を入ることも見ることも出来ない。
・「行在所跡」。
・中の石柱には「後鳥羽院天皇行在所跡」と刻まれている
・「行在所」があった当時からある井戸。湧水が絶えることなく続いている。
・隠岐神社
・村上家資料館。
 村上家は江戸時代の長者番付の中央、鴻池と並んで記載される程の豪商であった。

  

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