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2016.7.5(火)
神社の世界では「式内社」と呼ばれる1000年以上昔からある神社が尊重されます。
これは昔高校時代に習った、延喜式という法律にその神社名が記載されている神社を指します。
式内社の中でも特に重要な神社を式内社では「名神大」と記載しています。
私が式内社調査報告書という分厚い資料を見ていて驚いたのは、
紀ノ川の下流、和歌山市には式内社それも名神大が集結しています。
こういったことは他では無いのでは無いかと思います。
式内社でも珍しいのに、名神大が多数あるというのはチョット有り得ない。
これはどのような原因と経過で生じたことなのだろう。
和歌山市の式内社、名神大どんな神社なのか自分の目で見、体験したかった。

そもそも和歌山市の歴史とはどのようなものだったのか。
和歌山市を語る時、徳川吉宗との関連で江戸時代の歴史のみが語られる。
和歌山市はそのズット前から日本の重要な地域だったのだ。
歴史に富んだ和歌山での最初の神社参拝は日前神宮、國懸神宮から。

日前神宮(ひのくまじんぐう)
國懸神宮(くにかかすじんぐう)
両社とも式内社、「名神大」です。二つの神社があり、社も別に鎮座していますが、一体として認識されています。
「紀伊国一之宮」と表記されます。
創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。


和歌山駅から貴志川線に乗り、二つ目、日前駅で降りて3分程で大鳥居の前に立つ。
神社全体は平地に建っているが、大きな森の中にある。
境内の周りは堀の様に水が取り巻いている。
参拝に進もうとすると紙の御朱印希望の人は参拝の前に社務所に来てくれと書いてある。
参拝後に直ぐ渡せるように事前に届けるとのことであった。
森の中を進むと看板が建っている。左日前神宮 右國懸神宮とあり、左へ。
左日前神宮参拝、戻り國懸神宮参拝
来た時と同じ、中央の道に戻り、社務所で御朱印拝受。

全体に簡素。歴史やもっともらしい説明は全く無い。むしろそっけないくらいだが力強く感じる。
神域です。是非お参りを。

和歌山市教育委員会 文化振興課のホームページから和歌山市の古い歴史に付き転載する。

原始の和歌山:
周辺の山間部で発見され、その頃から人々の生活が始まっていたことがわかります。
縄文時代の前期〜後期頃(約7000年前〜約3000年前)は、
丘陵の裾部が生活の場となっていたようで、
禰宜、鳴神、吉礼、岡崎などで食べた貝殻や動物骨を捨てた貝塚が作られ、
縄文土器や石器、骨角器も出土しています。
2300年ほど前から始まる弥生時代には、
金属器(銅鐸、鏡)や木器も出土する平野中央部の太田・黒田遺跡は和歌山県を代表する集落遺跡です。

古代の和歌山:
古代の和歌山は、『日本書紀』や『古事記』に記された神話に登場します。
天窟戸に隠れた天照大神を導き出すために鏡が作られました。
その鏡を祀っているのが日前宮です。
一説には伊勢神宮だともいわれていますが、古代の人々は日前宮と伊勢神宮を同じように見ていたことがわかります。
日前宮をはじめとして、伊太祁曽神社・鳴神社などは古代の朝廷から特別な崇拝を受けていました。

本来紀伊国は、「木国」と表記されていました。それは、古代国家に材木を供給する地域だったからだといわれています。
紀伊国が供給したのは、材木だけではなかったのです。
天皇が即位した後の最初の新嘗祭(にいなめさい)を、即位を記念して大嘗祭(だいじょうさい)といいますが、
その際に加太の海女が採った鰒が献上されました。
古代の都である平城京や平安京には海がありませんでした。
都に最も近い海を持つ紀伊国は、海産物の供給地だったのです。
そして、海を見るために、天皇たちは多くの貴族を引き連れて、和歌浦を訪れました。

中世の和歌山:
朝廷権力の力が弱まってくると、寺社や貴族などの勢力が強まり、多くの荘園が形成されてきます。
現在の和歌山市域でも賀太荘や雑賀荘、和佐荘などの荘園がありました。
その反面、有力な武士が成長しなかったのも事実です。在地の土豪や日前宮、根来寺、高野山などの勢力が強くなり、これらを統合できる大名が育たなかったのです。

紀州では浄土宗や浄土真宗の高僧の来訪が相次ぎ、その教えは人々の間に浸透していきました。

戦国末期になると、紀ノ川下流域の土豪や有力農民らが「雑賀一揆」として地縁的な組織を形成します。
「石山合戦」では、多数の鉄砲を持ち織田信長を苦しめましたが、その後、
紀州を攻撃した羽柴秀吉に敗れました。これにより紀州の中世は終わりを告げ、新たな時代に入っていきます。

近世の和歌山:
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦の功により浅野幸長が入国します。
浅野は、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命により築城された和歌山城の修築・拡張を行うとともに
城の大手を東から北に変更し、本町を大手通りとする城下町の都市計画を実施しました。

元和5年(1619)、浅野に代わり徳川家康の第十男・頼宣が55万5000石を領して入国します。
紀州藩初代藩主・頼宣は、御三家のひとつにふさわしい居城とするため、
城と城下町の整備・拡張を行っていきます。
頼宣を祖とする紀州徳川家から五代藩主・吉宗、十三代藩主・慶福(家茂)がそれぞれ八代、十四代将軍となっていきます。

城下町和歌山は、江戸後期には全国第8番目の近世都市にまで発展します。
とくに文化面では、紀州徳川家と表千家とのつながりが深く、茶道文化が花開き、
学芸では国学の本居宣長や大平などが活躍し、
文人画では祇園南海、野呂介石など日本絵画史に光彩を放つ人物が、
また日本医学を発展させた華岡青洲が輩出されました。
城下町周辺には万葉の地で有名な和歌浦、西国三十三所観音巡礼二番札所の紀三井寺、
加太の淡嶋神社など、名所や霊場があり諸国から多くの旅人が訪れました。
以上、文化振興課のホームページから


神社のホームページより:

日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し
國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。

神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、
思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、
天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、
天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。

その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、
後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。

天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、
神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、
二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。

その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、
永きに渉り鎮座の地として今に至っております。



写真:
・入り口の大鳥居
・日前神宮
・日前神宮本殿
・國懸神宮
・國懸神宮本殿
・御朱印

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