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2017.11.29(水)
午後、DENVEさんが来てくれ、以前サットと通った色川地区へ。
平清盛の嫡孫、平維盛(たいらのこれもり)の事跡を尋ねる旅。

平維盛は清盛の長男、重盛の長男。平家一門を継ぐ人であった。
若い維盛は当時その美しさを多くの女性に愛でられた。
安元2年(1176年)3月4日、後白河法皇50歳の祝賀で、
烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞い、
その美しさから桜梅少将と呼ばれる。
青海波の様子は『玉葉』や『安元御賀日記』などにも詳細に記されており、
臨席した四条隆房はその様子を、
「維盛少将出でて落蹲(らくそん)入綾をまふ、青色のうえのきぬ、
 すほうのうへの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、
 みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ」
と書いている。また『建礼門院右京大夫集』では
「今昔見る中に、ためしもなき(美貌)」とされ、その姿を光源氏にたとえている。
さらに平家を嫌う九条兼実も「容顔美麗、尤も歎美するに足る」と評している。

しかし、父は早世したが、未だ清盛も生きている時代、治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、
富士川の戦いで大敗す。
清盛死去でその立場は微妙なものとなった。
続いて倶利伽羅峠の戦いでも壊滅的な敗北を喫する。

平家物語によれば、27才 平治2年(1160)〜寿永3年(1184)3月28日、
那智の補陀洛山寺から海に出て、 那智勝浦沖の山成島にて入水す。とある。

これまた、平家物語に寄れば、山成島(勝浦)で維盛が入水することとなり、
山成島の松の大樹を削り辞世を書きのこす。
「生まれては ついに死ぬてふ事のみぞ 定なき世の定ありけり」

しかし、維盛伝説はここからはじまる。
維盛は実際は入水せず、紀伊の港に上陸し、山伝いに
高野山ー本宮ー補陀洛山寺(補陀洛渡海)−山成島ー色川地区ー大野地区と移動する。 
色川地区では妻を娶り、平光盛を生み、色川村藤綱の要害にこもり53才で死去したとの伝説もある。
いや、藤綱の要害には5年ほどおり、そこから又、別の地に移動していったという話もあり。

今、我々は平家物語の記述から維盛の最後を知る。
しかし、平家物語が作られる前、同時代人で維盛の弟と恋仲であった、
有名な歌人、建礼門院右京大夫が残した歌に

春の花色によそへし面影のむなしき波のしたにくちぬる

悲しくもかゝるうきめをみ熊野の浦わの波に身を沈めける

があり、当時、京ではこの様に、維盛は那智で入水した噂されていたのだ。

それ等を受け、平家物語で那智、勝浦入水が記述されることとなったのだ。

なお、ネット情報では、補陀洛山寺の案内の方の話として、裏山にある渡海上人の墓の最上段、
左端の供養塔が平維盛、その右の供養塔が、平清盛の妻、平時子(清盛の正室)とある。

平時子は娘安徳天皇の母となる徳子(建礼門院)を生みました。
徳子が高倉天皇に嫁ぐと、中宮の母として徳子の出産や成長儀式にも深くかかわり、
高倉天皇没後の1180年、幼い安徳天皇が即位したのでした。
しかし、壇ノ浦の戦いで一門が源氏軍に滅ぼされると、
孫に当たる安徳天皇に「浪の下にも、きっと都がありますよ」
といい聞かせ、幼帝をだいて海中に身を投じて自害したと「平家物語」に記されています。

当然、入水は人をだます、偽りであり平時子も安徳天皇も実は生きていたのだという伝説もあります。

写真:
・平維盛が色川地区で妻を娶り、生んだ子が平光盛、その墓へ誘導する看板
・気持ちの良い地域。小山の上に墓がある
・平光盛のささやかな墓の看板。単にゴロタ石が積んであるだけの、これが墓かと、いうものでした。
・光盛の上屋敷跡の看板

・隣接する小山
・鎮座する小神社参道
・神社祠。神社名は無い。

・那智に戻り、、補陀洛山寺裏山にある平維盛の供養塔説明看板
・渡海上人の供養塔が3段あり、その最上段、
 ネットでは、左端の供養塔が平維盛、その右が平時子の供養塔と、地元の解説者から聞いたと出ています。
 しかし上記、平維盛の供養塔説明看板は右端にあります。
 また、どれが平維盛の供養塔かは表示されていません。見たところ並んだ供養塔には文字はありません。
 従って、どれが平維盛の供養塔かは、はっきりしない。
・那智フィッシャリーナの防波堤上から見る、平維盛入水の山成島。
 こんもりした山の左、二つ目の大きな岩の様にみえる島。
・地図ソフト、カシミールで勝浦の何処にあるか、山成島を探しました。右手の島です。
陸から近いですね。泳いで行ける距離です。島から陸も目の前に見えたでしょう。
 ここで入水したと言うのはチョット無理があり、やはり生き延びて、各地を移動したのではないでしょうか。
・補陀洛山寺にある補陀洛渡海上人名を刻んだ石碑
・平維盛の名あり。

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