過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

2016.7.5(火)
都麻都比売神社(ツマツヒメジンジャ)式内社。名神大。

この神社には論社がある。
論社とは争いがあるかどうかは別として、
延喜式にのっている都麻都比売神社は私の社ですと主張する神社が他にもある場合を言う。
論社が二つある。
一つは伊太祁曽駅北西の熊野古道近く。
この社を探しだすのに大変な苦労をした。
地元の人も丸で知らない。
頼りは式内社調査報告書の何十年か前の地図のみ。
熊野古道をアチコチ、山の上、山の下と探しているうちに小さな神社の工事中に出会う。
その神社工事職人がようやっと知っていると解る。
あの山の向こうの又、山の上と言うが、その後もアレコレ迷いながらついに、
その山のふもとにようやっと鳥居を見つた。
少し登った山の上に都麻都比売神社、論社Bを見つけ、撮影。
多分、この社にお参りし、撮影した人は10年で10人いないと思う。

駅まで引き返す。
自転車を貸してくれたおばさんが見つかりましたかと声を掛けてくれる。地元の人も丸で知らないのだ。
貴志川線を一つ引き返し、吉礼(きれ)で降りる。
論社Aは駅から200mと近い。
大きな通り沿いにある。
規模も大きく清潔に手入れされ、非常に気持ちよい境内。
気持ちがすっかり落ち着く。
周囲も古く格式ありそうな家が並ぶ。
神社の外をグルーと廻る。
本殿直ぐ裏は公園になっている。かっては神社敷地だったろう。

今日の神社訪問はこれを最終とする。
ゆったりした気分で帰りのコースへと向かう。


写真:
・ようやっと発見した都麻都比売神社の論社Bのふもと鳥居。
・都麻都比売神社論社B
・都麻都比売神社の論社A
・都麻都比売神社論社A、拝殿

開く コメント(0)

伊太祁曽神社参拝

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

2016.7.5(火)
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)式内社。名神大
一ノ宮というのは普通一つですが、和歌山では伊太祁曽神社も「紀伊国一之宮」と表記されます。
和歌山駅から8個目の駅、伊太祁曽で降りる。
歩いて5、6分だが、当初案内パンフに35分とあり炎天下これはとてもダメだと、
自転車を借りる。伊太祁曽駅は貴志川線のメインの駅で貸し自転車がある。
借りる時に35分かかるのは伊太祁曽神社ではなく、足守神社とわかる。
しかし、自転車があったほうが良いので借りる。

山の中の様な、静かで神聖が場所。

写真:
・伊太祁曽神社
・拝殿
・本殿
・神社の前の古墳
・御朱印

開く コメント(0)

竈山神社参拝

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

2016.7.5(火)
竈山神社(かまやまじんじゃ)式内社、名神大。神社庁別表神社
一ノ宮というのは普通一つですが、和歌山では竈山神社も「紀伊国一之宮」と表記されます。
貴志川線、和歌山駅から四つ目、竈山で降りる。南へ10分ほど交通量が多い。
落ち着いた静かな神社。
「竈山」とは『古事記』『日本書紀』に見える地名で、
両書では神武天皇(初代)長兄の彦五瀬命(五瀬命)が竈山に葬られたという。
当社はその彦五瀬命の神霊を祀る神社。

特筆するべきは、彦五瀬命の墓がある。
本殿の背に鎖があるが鎖を外しお参りしてよいとのことで参る。
墓所は宮内庁の管理となる。
壱岐で後鳥羽院の墓所に関しても同様であった。
http://blogs.yahoo.co.jp/sa3307/62729297.html

竈山神社の建築は今までに見ないものだ。
拝殿と本殿の間に建築物がる。
御朱印を受け取った時聞いたら、幣殿とのこと。
拝殿、幣殿、本殿とつながる神社は他にもあるのか。
幣殿は普通脇にある。


写真:
・大鳥居
・輪くぐりがあり、参加。8の字に廻る。
・拝殿
・墓所の宮内庁表示
・墓地入り口。
・御朱印

開く コメント(0)

鳴神社参拝

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

2016.7.5(火)
鳴神社に参る人は少ない。
場所は日前神宮の前の通りを東に進みぶつかった所で、細い道を進む。
大きく、かって繁栄を誇っていたと思われる家々の間の細い路を進むと、
森にぶつかる。この森に鳴神社は鎮座。
式内社、名神大。

写真:
・鳴神社
・二つの社殿
・左本殿は主祭神 天太玉命、右祓戸の神速秋津彦命 神速秋津姫 と木の説明板
・左本殿
・右本殿 

開く コメント(0)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

2016.7.5(火)
神社の世界では「式内社」と呼ばれる1000年以上昔からある神社が尊重されます。
これは昔高校時代に習った、延喜式という法律にその神社名が記載されている神社を指します。
式内社の中でも特に重要な神社を式内社では「名神大」と記載しています。
私が式内社調査報告書という分厚い資料を見ていて驚いたのは、
紀ノ川の下流、和歌山市には式内社それも名神大が集結しています。
こういったことは他では無いのでは無いかと思います。
式内社でも珍しいのに、名神大が多数あるというのはチョット有り得ない。
これはどのような原因と経過で生じたことなのだろう。
和歌山市の式内社、名神大どんな神社なのか自分の目で見、体験したかった。

そもそも和歌山市の歴史とはどのようなものだったのか。
和歌山市を語る時、徳川吉宗との関連で江戸時代の歴史のみが語られる。
和歌山市はそのズット前から日本の重要な地域だったのだ。
歴史に富んだ和歌山での最初の神社参拝は日前神宮、國懸神宮から。

日前神宮(ひのくまじんぐう)
國懸神宮(くにかかすじんぐう)
両社とも式内社、「名神大」です。二つの神社があり、社も別に鎮座していますが、一体として認識されています。
「紀伊国一之宮」と表記されます。
創建二千六百餘年を溯る日前神宮・國懸神宮は、同一境内に座します二社の大社をなしております。


和歌山駅から貴志川線に乗り、二つ目、日前駅で降りて3分程で大鳥居の前に立つ。
神社全体は平地に建っているが、大きな森の中にある。
境内の周りは堀の様に水が取り巻いている。
参拝に進もうとすると紙の御朱印希望の人は参拝の前に社務所に来てくれと書いてある。
参拝後に直ぐ渡せるように事前に届けるとのことであった。
森の中を進むと看板が建っている。左日前神宮 右國懸神宮とあり、左へ。
左日前神宮参拝、戻り國懸神宮参拝
来た時と同じ、中央の道に戻り、社務所で御朱印拝受。

全体に簡素。歴史やもっともらしい説明は全く無い。むしろそっけないくらいだが力強く感じる。
神域です。是非お参りを。

和歌山市教育委員会 文化振興課のホームページから和歌山市の古い歴史に付き転載する。

原始の和歌山:
周辺の山間部で発見され、その頃から人々の生活が始まっていたことがわかります。
縄文時代の前期〜後期頃(約7000年前〜約3000年前)は、
丘陵の裾部が生活の場となっていたようで、
禰宜、鳴神、吉礼、岡崎などで食べた貝殻や動物骨を捨てた貝塚が作られ、
縄文土器や石器、骨角器も出土しています。
2300年ほど前から始まる弥生時代には、
金属器(銅鐸、鏡)や木器も出土する平野中央部の太田・黒田遺跡は和歌山県を代表する集落遺跡です。

古代の和歌山:
古代の和歌山は、『日本書紀』や『古事記』に記された神話に登場します。
天窟戸に隠れた天照大神を導き出すために鏡が作られました。
その鏡を祀っているのが日前宮です。
一説には伊勢神宮だともいわれていますが、古代の人々は日前宮と伊勢神宮を同じように見ていたことがわかります。
日前宮をはじめとして、伊太祁曽神社・鳴神社などは古代の朝廷から特別な崇拝を受けていました。

本来紀伊国は、「木国」と表記されていました。それは、古代国家に材木を供給する地域だったからだといわれています。
紀伊国が供給したのは、材木だけではなかったのです。
天皇が即位した後の最初の新嘗祭(にいなめさい)を、即位を記念して大嘗祭(だいじょうさい)といいますが、
その際に加太の海女が採った鰒が献上されました。
古代の都である平城京や平安京には海がありませんでした。
都に最も近い海を持つ紀伊国は、海産物の供給地だったのです。
そして、海を見るために、天皇たちは多くの貴族を引き連れて、和歌浦を訪れました。

中世の和歌山:
朝廷権力の力が弱まってくると、寺社や貴族などの勢力が強まり、多くの荘園が形成されてきます。
現在の和歌山市域でも賀太荘や雑賀荘、和佐荘などの荘園がありました。
その反面、有力な武士が成長しなかったのも事実です。在地の土豪や日前宮、根来寺、高野山などの勢力が強くなり、これらを統合できる大名が育たなかったのです。

紀州では浄土宗や浄土真宗の高僧の来訪が相次ぎ、その教えは人々の間に浸透していきました。

戦国末期になると、紀ノ川下流域の土豪や有力農民らが「雑賀一揆」として地縁的な組織を形成します。
「石山合戦」では、多数の鉄砲を持ち織田信長を苦しめましたが、その後、
紀州を攻撃した羽柴秀吉に敗れました。これにより紀州の中世は終わりを告げ、新たな時代に入っていきます。

近世の和歌山:
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦の功により浅野幸長が入国します。
浅野は、天正13年(1585)に豊臣秀吉の命により築城された和歌山城の修築・拡張を行うとともに
城の大手を東から北に変更し、本町を大手通りとする城下町の都市計画を実施しました。

元和5年(1619)、浅野に代わり徳川家康の第十男・頼宣が55万5000石を領して入国します。
紀州藩初代藩主・頼宣は、御三家のひとつにふさわしい居城とするため、
城と城下町の整備・拡張を行っていきます。
頼宣を祖とする紀州徳川家から五代藩主・吉宗、十三代藩主・慶福(家茂)がそれぞれ八代、十四代将軍となっていきます。

城下町和歌山は、江戸後期には全国第8番目の近世都市にまで発展します。
とくに文化面では、紀州徳川家と表千家とのつながりが深く、茶道文化が花開き、
学芸では国学の本居宣長や大平などが活躍し、
文人画では祇園南海、野呂介石など日本絵画史に光彩を放つ人物が、
また日本医学を発展させた華岡青洲が輩出されました。
城下町周辺には万葉の地で有名な和歌浦、西国三十三所観音巡礼二番札所の紀三井寺、
加太の淡嶋神社など、名所や霊場があり諸国から多くの旅人が訪れました。
以上、文化振興課のホームページから


神社のホームページより:

日前神宮は日像鏡(ひがたのかがみ)を御神体として日前大神を奉祀し
國懸神宮は日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体として國懸大神を奉祀しております。

神代、天照大御神が天の岩窟に御隠れになられた際、
思兼命(おもいかねのみこと)の議(はかりごと)に従い種種の供物を供え、
天照大御神の御心を慰め和んで頂くため、石凝姥命(いしこりどめのみこと)を治工とし、
天香山(あめのかぐやま)から採取した銅を用いて天照大御神の御鏡(みかがみ)を鋳造しました。

その初度に鋳造された天照大御神の御鏡前霊(さきみたま)を日前國懸両神宮の御神体として、
後に鋳造された御鏡を伊勢の神宮の御神体として奉祀されたと『日本書紀』に記されております。

天孫降臨の際、三種の神器とともに両神宮の御神体も副えられ、
神武天皇東征の後、紀伊國造家の肇祖に当たる天道根命(あめのみちねのみこと)を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)に任命し、
二つの神鏡を以て紀伊國名草郡毛見郷の地に奉祀せられたのが当宮の起源とされています。

その後、崇神天皇五十一年、名草郡濱ノ宮に遷宮され、垂仁天皇十六年には名草郡萬代宮すなわち現在の場所に遷幸され、
永きに渉り鎮座の地として今に至っております。



写真:
・入り口の大鳥居
・日前神宮
・日前神宮本殿
・國懸神宮
・國懸神宮本殿
・御朱印

開く コメント(0)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事