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戦後の歴史研究者たちは、鎌倉幕府が大陸情勢に無知で、1268年にクビライからの国書が届くまでモンゴルの存在を知らなかったと説明しています。 そして、モンゴルの脅威を理解しないまま、準備不足の状態で、1274年の文永の役を迎えたと非難しているのです。 これは本当でしょうか? 実は、嘘で塗り固めた戦後の元寇研究が触れようとしない、こんな資料が存在するのです。 〔新御式目〕 條々 一、可被祟敬佛神事、 九州為宗神社、破壞以下所遂檢見、且可令注進、損色之由所被仰使者也、但於遠所者、使者 檢見為難渋者、可計沙汰、 一、次香椎社造営事、 筑前國怡等庄為料所、可造営之由被宣下、年記之處々、不終其功云々、云未作分限云當社之 所土可為注進、○中略 一、城郭事、 次岩門并宰府構城郭之條、為九州官軍可得其構云々、早為領主所之沙汰可致其構云々、 一、寄役所致自由合戦、 縦雖抜群之忠、不可被行其賞、所詮随大将命、可令進退由厳密可被相触九州守護並御家人 以下輩也、 一、兵糧米事、 先々可無其虚歟、殊加談義可令注進、 一、警固詰番事、 為諸人煩労基之由、有其聞、仍同前、 一、兵船事、 海上合戦、更不可有其利歟、同前、 一、大隈日向両国役所、今津役濱事、 先度雖除之、為要海云々、如元警固 ○中略 正嘉三年二月九日 武蔵守 判 相模守 判 (福岡県史資料) これは、正嘉3年(1259年)2月9日に鎌倉幕府が、後の文永の役の戦場である博多湾沿岸地域の防衛強化を命じた資料です。 海上合戦の是非や今津沖の警固に言及した内容から、鎌倉幕府が警戒しているのは海外からの侵攻であることが分かります。 また、城郭修築や兵糧米について言及していることを考えれば、想定されているのが大規模な侵攻であることもあきらかです。 一体何故、鎌倉幕府はこの時期に海外からの大規模な侵攻を、警戒する必要があったのでしょうか? その理由を知るためには、当時の大陸情勢に目を向ける必要があります。 1257年春、モンゴル帝国の大ハーンであるモンケは南宋侵攻を宣言。 1258年には、朝鮮半島で長年のモンゴル軍の侵略によって求心力を失った崔氏政権が崩壊し、北ベトナムでも陳朝がモンゴル帝国への入貢を余儀なくされています。 この年の7月、モンケは南宋征服のため自ら大軍を率いて六盤山を出発し、10月に四川へと侵攻。 加えて、11月にモンケの弟のクビライも開平府から鄂州へ向って南下を開始し、翌1259年正月には名将ウリャンカダイが雲南からベトナムを経由して江西に攻め込んでいます。 1259年2月9日は、大ハーンのモンケのもと、モンゴル軍が東アジア全域で大規模な侵攻作戦を行なっている真っ最中でした。 つまり、鎌倉幕府は大陸におけるモンゴルの脅威が頂点に達したその瞬間に、博多湾沿岸地域の防衛強化を命じていたのです。 鎌倉幕府が大陸情勢に無知だったという戦後の歴史研究者たちの説明は嘘でした。 真実の鎌倉幕府は、大陸におけるモンゴルの南宋や高麗に対する侵略を対岸の火事と捉えることなく、文永の役の15年も前からモンゴルの日本侵略に備えていたのです。 更にその内容も的確で、軍事のプロフェッショナルである武家政権の面目躍如といった感があります。 例えば、「自由に合戦して例え抜群の手柄を立てても、それに恩賞を与えることはない。大将の指示に従い、進退は命令通りしなければならない」と、九州の守護や御家人に集団戦法徹底を命じている点は、とても重要です。 文永の役の際に、鎌倉武士が一騎打ち戦法で戦っていたなどという通説も嘘でした。 また、岩門と大宰府の城郭修築を命じている点も注目に値します。 大陸で縦横無尽に暴れまわるモンゴル軍に対し、強い警戒感を抱く鎌倉幕府が、大宰府などの強固な城郭に拠って迎え撃とうと考えたのは当然でした。 こうして準備万端の状態で迎えた文永の役は、日本軍の完勝に終わりました。
博多湾から上陸したモンゴル軍は、鎌倉幕府が防衛ラインに設定していた大宰府に到達することすらできないまま、たった1日の戦闘で撃退されたのです。 鎌倉武士の集団戦法の前には、モンゴル軍も敵ではありませんでした。 |

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勉強になります。戦闘が個人戦ではなかったとはおもっていましたが、組織的な集団戦とは思ってもいませんでした。
(源平時代から戦闘は、周囲に一族郎党引き連れての小隊戦だった、それを集団戦にしたのが信長・秀吉だったと思っていたので、少し意外に思えました。勉強になります。ポチです。
2009/3/31(火) 午後 10:14
そろそろ弘安の役で元軍が攻めてきたシーズンですね
こんな季節に攻めてきたのに夏になっても上陸を阻止し続けた武士の奮戦には頭が下がります
2009/5/7(木) 午後 6:02 [ 無明 ]
嘘でしたと言いきれるほどの証拠にはならないですね・・・
2010/5/8(土) 午前 2:02 [ YZFR19 ]
およそ七百年前、我が国は元の侵略を受けた。
無論、この日本侵略に参戦したのは蒙古軍だけではない。
南宋軍、女真軍、高麗軍。
つまり、今のモンゴル、中国、旧満州、韓国、北朝鮮である。
この元寇で彼奴らの猛威を被った対馬、壱岐、鷹島、長門、平戸、博多の惨劇は、口にするのもおぞましい。
博多は火の海になった。
間違いなく言えるのは、これは侵略戦争であったということである。
明確に我が国を侵略せんとする意図があった。
が、私の記憶する限り、中国首脳が元寇に関して、一度も謝罪などした記憶が無い。
そして、口を開けば日本に対して「謝罪せよ、反省せよ、靖国に参るな、経済援助をよこせ」である。
元寇の命令を発したのは今の中国である。
中国らは物事の理を知らないのか。
中国こそ元寇を謝罪しその損害を賠償すべきである。
2011/10/15(土) 午前 6:19 [ 高砂のPCB汚泥の盛立地浄化 ]
はじめまして!興味深く読ませていただきました。
これからも更新を楽しみにしていますね!
2014/4/13(日) 午前 6:56 [ しゃけ ]
正嘉3年2月9日の記事ですが、以前ソースは忘れましたが、幕府の西国の海賊対策の話として、本で読んだことがあります。あなたが、この記事について外国の情報を幕府が手に入れようとしていたと思った理由は何ですか?海賊対策ではないと思われるのでしたら、その理由は何ですか?
2014/10/22(水) 午後 10:12 [ chi*a2y**9 ]