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元寇よりも200年ほど昔の1066年、イギリスで「へイスティングズの戦い」と呼ばれる合戦がありました。 この合戦でウィリアム征服王に敗れたイングランドは、対岸のノルマンディー公国によって征服され、その封建体制の支配下に置かれました。 へイスティングズの戦いについて、現代の私たちがその詳細を知ることができるのは、イングランド征服の一部始終を描いたタペストリーがバイユー教会に残されているからです。 イギリス史の本に書かれているへイスティングズの戦いの記述は、ほとんどがこの『バイユー・タぺストリー』から復元されたものです。 一方、元寇についてもその詳細を描いた『蒙古襲来絵詞』が残されています。 その描写は精密で、当時の武士たちによる合戦の様子を詳しく知ることができるのみでなく、モンゴル軍の軍装などを研究する上で世界的にも貴重な史料です。 また、絵だけでなく詞書として添えられた文章にも、文永の役と弘安の役での戦闘や、鎌倉での恩賞訴願などの様子が記されています。 ところが何故か元寇に関しては、武士の用いた戦術や戦闘の経過について、『蒙古襲来絵詞』の内容があまり活用されていません。 絵巻に登場する武士たちは誰一人として元軍に一騎討ちを挑んだりはしませんが、通説では「やあやあ我こそは・・・」と名乗りを上げて一騎討ちを挑んだことになっています。 絵巻に描かれた元兵たちは皆情け容赦なく狩り立てられ、負傷し、逃げ惑っていますが、通説では日本軍が一方的に劣勢だったことになっています。 これは大変おかしなことです。 何故なら『蒙古襲来絵詞』を作成した竹崎季長は、文永の役と弘安の役で自ら戦闘に参加した武士だからです。 例えば、紀元前四世紀にギリシアからインド西部にまたがる大帝国を築いたアレクサンドロス大王について、アリアノスの『アレクサンドロス東征記』、プルタルコスの『英雄伝』、ディオドロスの『歴史集成』、クルティウスの『アレクサンドロス伝』、ユスティヌスの『フィリッポスの歴史』の5つの伝記が現存しています。 その中で、戦闘の記述に関して世界中の歴史家から最も信頼性が高いと思われているのは、アリアノスの『アレクサンドロス東征記』です。 それはアリアノスの大王伝が、アレクサンドロスの側近として自ら戦闘に参加したプトレマイオスの記述を原典としているからです。 戦局の推移やそこで用いられた戦法について正確に記述するためには、軍事に関する高度な専門知識が必要です。 軍人として戦闘に参加した人物の記述が、最も信頼性が高いと考えるのは当然のことです。 世の中には、『蒙古襲来絵詞』は竹崎季長が恩賞を得るために描かせた絵巻だと、勘違いしている人が大勢います。 だから「武士たちが優勢に描かれているのは当然」だというのです。 どうやら、絵巻では明らかに日本軍優勢な点が気に入らない人たちによって、嘘が広められているようです。 竹崎季長が恩賞として海東郷の地頭職を与えられたのは1276年で、『蒙古襲来絵詞』の作成はそれよりも後の1293年頃です。 絵巻の作成された1293年は、霜月騒動で討たれた安達泰盛とその一族の名誉回復が始まった年でした。 文永の役の翌年、恩賞訴願のため鎌倉に赴いた竹崎季長は、恩賞奉行だった安達泰盛によって海東郷の地頭に任じられたのみならず、馬と具足を賜るという破格の好意を受けました。 『蒙古襲来絵詞』は恩義ある安達泰盛とその一族への感謝の気持ちを込めて作成されたのです。 元寇当時、鎌倉で恩賞奉行として御家人たちの戦功を査定する立場にあった安達泰盛に対して、戦局を自分たちの優勢に歪曲した絵巻を作成することが、追悼になるはずがありません。
『蒙古襲来絵詞』について、「武士たちが優勢に描かれているのは当然」などということは言えないのです。 |
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日本軍優勢が気に入らない人と言うと、どのような範疇の人々と思われますか?私なりの仮説もあります。
2006/6/3(土) 午後 5:22 [ 日本救世 ]
私の妻は海東の小、中学校を卒業しました。今でも竹崎公の子孫の方にもお世話になっています。史実は必ずしも正確でない面もあると思いますが、これからのブログを拝見して勉強して行きたいと思います。
2006/6/3(土) 午後 10:57 [ simomatu3019 ]
toki8872様、いつもコメントありがとうございます。励みにしています。元寇は日本が外国から侵略を受け、それを武力で撃退した事件ですから、憲法9条や自衛隊のあり方とも関わりがあるように思います。次回は少し関連したことを書こうと思っています。
2006/6/6(火) 午後 6:01 [ sa3*1*azel*e ]
simomatu3019様、いらっしゃいませ。simomatu3019様のようなコメントを頂くと、歴史が単に本に書いてあるものではなく、現代に繋がっているものだと感じることができて嬉しいです。これからも、宜しくお願い致します。
2006/6/6(火) 午後 6:06 [ sa3*1*azel*e ]
『ちなみに、この幕府の恩賞の遅滞に対して、弘安の役での自身の活躍を絵巻にして、その功を幕府に申し立てたのが、肥後の武士竹崎季長であった。そして、その絵巻が『蒙古襲来絵詞』で、いまに蒙古襲来の様子を伝える貴重な史料となっている。鎌倉幕府は蒙古襲来という未曾有の危機を脱することはできたが、その後の論功行賞において役で活躍した武士たちを満足させることができず、ついには、武士たちの鎌倉幕府に対する信頼を失墜させることとなったのである。 』
ttp://www2.harimaya.com/sengoku/html/aisu_kz.html
いわゆる日本史好きと思われる人でもいまだ「褒章欲しさに描いた」説を信じ込んでる人が多いようですね。
かくいうわたしもそうでしたから…
このような誤解がなくなっていくにはまだまだ時間がかかりそうですね
2008/9/3(水) 午後 0:49 [ 那覇海人 ]
那覇海人さま、いらっしゃいませ。
ご指摘のとおり元寇については、いわゆる日本史好きと思われる人でも誤解していることが多いです。
さらに、年々その誤解が酷くなっているように感じられ、非常に危機感を持っています。
2008/9/6(土) 午前 11:19 [ sa3*1*azel*e ]
日本は国書などの資料がそのまま宮内庁に残っているが、中国や朝鮮は政権が滅亡すると過去の歴史的証拠は破棄し、新たな政権が過去の歴史を作文することが通常である。
中国・朝鮮には歴史を考証するための資料が少ない。
日本と朝鮮の陶器を世紀毎に並べれば技術の差は明らかだ。
日本の螺鈿細工はヨーロッパまで輸出していた。
元の日本侵略は、ヨーロッパ人が勧めた。白人による黄色人種同士の戦争企み白色人種の支配を強めようと企んだ。
日本への元冦により、ヨーロッパへの元の侵略はおとろえ、元冦の後、元は滅亡した。
白色人種は大いに喜んだ。
2011/2/19(土) 午前 9:40 [ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]
八幡愚童訓
元軍の弓矢は鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、元軍に立ち向かう術(すべ)がなかったとしている。
元軍に突撃を試みた者は、元軍の中に包み込まれ左右より取り囲まれて皆殺された。
元兵はよく奮戦した武士の遺体の腹を裂き、肝をとって食べ、また、射殺した軍馬も食べたという。
『八幡愚童訓』は、この時の元軍の様子を「鎧が軽く、馬によく乗り、力強く、豪盛勇猛」で、「大将は高い所に上がって、退く時は逃鼓を打ち、攻める時は攻鼓を打ち、それに従って振舞った」としている。
松浦党の手勢は多くが討ち取られ、原田一類も沢田に追い込まれて全滅し、青屋勢二三百騎もほとんど討ち死にしたという。
肥後の御家人・竹崎季長や天草城主・大矢野種保兄弟、至って形勢は不利となっていた。
また、肥前の御家人・白石通泰の手勢も同様に形勢は不利となっていった。
これほど形勢が不利になると思っていなかった武士たちは妻子眷属を隠しておかなかったために、妻子眷属らが数千人も元軍に捕らえられたという。
2018/7/22(日) 午前 8:47 [ 元寇を学び日本を護る ]
> 元寇を学び日本を護るさん
八幡愚童訓は八幡信仰布教のための宗教書ですから、信用性の点では実際に戦闘に参加した武士の記録である蒙古襲来絵詞よりかなり劣ります。
例えば菊池武房は、八幡愚童訓だと「家子郎等多ク討レシニ、菊池次郎計ハ打漏サレテ、死人ノ中ヨリ起上リ、頸共余多取リ、以テ城之内ニソ入ニケル」と百騎の手勢がまるで壊滅したかのように書かれています。
しかし、蒙古襲来絵詞では竹崎季長が百余騎の手勢を率いて帰還する菊池武房と挨拶を交わしているのです。
八幡愚童訓は八幡神の霊験を強調するため、実際には武士が圧勝していても、あたかも苦戦しているかのように書く史料だという点を、差し引いて考えなければいけません。
高麗の史料によれば、元軍の主力である蒙漢軍は百道原付近の戦闘で日本軍に大敗して今津へ逃げ込んでいますから、蒙古襲来絵詞に描かれている通り戦闘では武士が元軍を圧倒していたと考えるべきでしょう。
2018/7/28(土) 午前 9:25 [ sa3*1*azel*e ]